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第五十三話 宿泊 ①



遭難してから、二日が過ぎた。


水は私が魔法で生み出していたけれど、食料の当てもなく、空腹と疲労がじわじわと私たちの身体を蝕んでいく。森は容赦なく、そして静かに魔物を寄越してきた。低位とはいえ、常に警戒を怠れない。そんな戦いを繰り返しながら、私たちは無言でひたすら森を歩いていた。


――そして、ようやく。


「……あ、あの先……!」


木々の合間から差し込む陽光が、あまりに眩しくて思わず目を細めた。確かに、先にある景色には緑の天井がなかった。延々と続く木の壁の先に、ぽっかりと穴が開いたように空が広がっている。


「森の、出口……!」


私とアレスは同時に顔を見合わせた。唇が自然にほころぶ。喜びよりも、安心と解放の方が勝っていた。


「行こう!」


アレスが私の手をぐっと握り、迷いのない足取りで出口に向かって駆け出す。私はその背に引っ張られるように、草を踏みしめながら走った。重くなった足も、不思議と軽く感じた。


そして、私たちはついに――森を、抜けた。


目の前に現れたのは、小さな町だった。石畳の道に沿って木造の建物が並び、通りには露店がぽつぽつと開いている。焼きたてのパンの匂い、乾いた果物の色彩、人々の声。宿屋の小さな看板が風に揺れていた。


私は思わず振り返った。


……森の奥深くから、何体もの魔物がこちらを見つめていた。まるで、見えない壁に阻まれたかのように、一歩も出てこない。ただ、静かに、ひたすらじっと――。


「……この森、結界はかかってないはずなのに……」


アレスが低く呟いた。


私は彼に悟られぬよう、そっと魔眼に力を込めた。瞳の奥に、微かに赤が灯る。だが、森の端にはやはり結界らしきものは感じられなかった。ただの“境”に過ぎない。にも関わらず、魔物たちは一線を越えようとはしない。不可解だった。


「とにかく、まずは宿を取って腹ごしらえだな。……それに服も、目立つから替えなきゃ」


アレスは私を一瞥し、ほころんだ袖を指でつまむと苦笑した。


「でも、まずは……」


言いかけた私を制するように、アレスはすっと露店の方へ向かっていった。


「おじさん、俺らリンジーに旅行に行きたいんだけど、ここからどのくらいかかる?」


軽い口調で話しかけられた店主は、アレスを一瞥すると、にかっと笑って言った。


「おお、旅人さんかい?リンジー皇国っつったら、たしか……サダーシャ帝国のさらに先だな。でも、王国民は多分入国できんぞ、馬に乗っても二ヶ月はかかるし……」


「そうか、ありがとう。あ、これ……この旗、この国のものだよな?」


「ん?ああ、そうだ。気に入ったか?」


「うん。でも今、持ち合わせがなくて……また来るよ」


アレスは手を振りながら戻ってきた。


「場所、わかった。ここ……《コリーヴ王国》だ。サダーシャの手前ってことは、かなり飛ばされたな」


「そんな……」


一気に力が抜けそうになった。遠すぎる。しかも異国となれば、信用も、情報も――何もかもが足りない。


けれど、アレスは気丈に笑った。


「金は使える。まずは飯と宿。そこからだ」


その言葉に背中を押されるように、私は小さな宿の扉を押した。軋む音とともに、新たな旅が静かに始まろうとしていた。



◇◇◇




「――は!? 一部屋しかない!?」


受付のカウンターで、アレスの声がひときわ大きく響いた。


町の宿屋は、外観こそ古びていたが、暖かい明かりが灯っていて人の出入りもあった。けれど、中に入った途端に聞かされたのは、思いがけない事実だった。


「ああ、そうだけど? 他は今、埋まってるね。で、どうすんだい? 泊まるのかい?」


受付の女主人は、面倒事に慣れきったような声で、肘をついたままこちらを見た。焦げ茶色のスカーフを頭に巻き、片目を細めて。


アレスは一瞬、言葉を失ったように口をつぐむと、わずかに顔をこちらに向けた。視線が、私に問いかけてくる。


……どうする? 無理に出て他を探す? けれど、もう日は沈みかけていて、空腹も限界だった。身体が鉛のように重い。


「――いいよ、泊まろう」


私は頷いた。


アレスは目を伏せ、ひとつ深く息をついてから、女主人に言った。


「……一泊、二人。お願いします」


鍵を受け取り、ぎいと音を立てる階段を上り、私たちは部屋に入った。


そして、扉を閉めた直後――。


「……なんなんだ、これ……」


アレスが呆れたようにぼそりと漏らした。


部屋は――想像以上に、質素だった。


窓は一つ。小さなベッドが一つ。机と椅子がそれぞれ一脚ずつ。壁は木材がむき出しで、隙間風こそないものの、生活感はほとんどなかった。


けれど、それでも。


「しかたないよ。泊まれるだけでも、ありがたいって」


私はそう言いながら、荷物を床に下ろした。


心のどこかで、こんな状況にも慣れてしまった自分がいるのを感じた。森での緊張感に比べれば、この部屋は、天国のようだった。


「……それより、お風呂。先に入るね? たぶん、私、絶対臭い……!」


我ながら情けない笑い声が出た。髪も埃だらけで、服は泥と汗でくたびれ切っていた。森の湿気と戦いながら生き延びてきた二日間。その痕跡が、全身にまとわりついているようだった。


「先に入ってこい。……売店、あったから。俺はその間に服とか買ってくる」


アレスは振り返らず、軽く手を上げた。


「ありがとう、助かる」


背中越しに、そう告げて私はバスルームへと向かった。


扉の奥、ささやかな浴室には木の桶と小さな湯船、そして魔石による給湯装置が設置されていた。何より、湯気の匂いが懐かしくて、思わず涙が滲みそうになった。


ひと息、深呼吸。


ようやく、ほんの少しだけ、日常が戻ってきた気がした。



◇◇◇


宿の片隅、埃をかぶったような売店に、服や下着が簡素に並んでいた。


――選ぶのは簡単だった。


自分の服と下着は、何も考えずに選んだ。肌触りとか、そんなのはどうでもいい。ただ着られれば、それでいい。


だが、問題は――ステラの分だった。


女物の服を手に取った時点で、俺の手がふと止まった。


(……下着も、必要だよな)


ここまで来たのだから、俺が用意しなきゃ。そう、頭では理解している。


けれど――サイズが、わからない。


まさか本人に聞くわけにもいかず、下着売り場の前で俺はしばし立ち尽くした。並べられた布の、あまりにも繊細なデザインに妙な気まずさを覚える。


(……もう、勘でいいだろ)


適当に選び、服と一緒にまとめて支払いを済ませた。


部屋に戻ると、まだステラは風呂場の中だった。


「ステラ、着替えここに置いとくな」


「はーい!ありがとう!」


明るく響いた声に、少しだけ肩の力が抜けた。


風呂に入って、少しリラックスできたのだろうか。さっきまでの緊張した面持ちが嘘のように思えた。


……けれど、それと同時に、心に不意な波が立った。


この薄い木の扉一枚の向こう側で、ステラが――裸で湯に浸かっている。


そして、今夜はこの狭い部屋で、同じ空間に寝る。


思春期の男の理性を試すには、充分すぎる状況だった。


(考えるな、考えるな……)


自分に言い聞かせながら、椅子に腰を下ろし、頭を抱える。


ステラと恋人──たしかにそういう関係になった。でも、こんな旅先で、疲れきった身体で、ましてや不本意な形でこうなっているのに……彼女が望むはずもない。


……それなのに、どうしても、想像が勝手に膨らんでいく。


最近のステラは、少しずつ少女から女性へと移り変わってきている。


声も、仕草も、笑い方も。ふとした瞬間に、俺を正気から遠ざけるほどに。


(……もし、何の障害もなかったなら。もし、何の壁もなかったなら――)


そんな“もし”にすがりつく自分が、ひどく醜く思えた。


(……最低だ)


額に手を当てて俯いた。


熱が集まる感覚。生理現象なんて、制御できるわけがない。けれど、思考だけは自分で選べるはずだ。……そう思いたかった。


(……落ち着け。ディルの顔だ……あの、娘に手を出そうものなら即死しそうな殺気……あれを思い出せ。何度でも)


脳裏に浮かぶ、鋼のごとき怒りの眼差し。あの人に、殺される。いや、確実に瞬殺される。俺の命が三つあっても足りない。


ようやく冷静になりかけた、その時だった。


「アレスー! 着替えたら出るねー!」


そう声が聞こえて少しだった時。

ガラッと、扉が勢いよく開かれる。


「お、おう、風呂どうだっ──」


軽い気持ちで返事を返しながら目線を向けて――俺は固まった。


湯気をまとったその姿。扉の隙間からひょっこりと顔を出した濡れた髪と、肩先。白く柔らかい肌が、月明かりのように浮かび上がっていた。


視線が、思わず胸元へと落ちかけて――


(やばい!)


条件反射のように、視線を椅子の脚へと向けて逸らす。どうでもいい、床の節の形をじっと見つめながら、必死に息を整えた。


「……ごめん、アレス。あの、下は大丈夫だったんだけど、下着ってサイズこれだけだった……? ちょっと、小さくて……」


ステラの声が、どこか申し訳なさそうに届いた。


(もう、ほんと……無理だって)


俺は、自分の膝に顔をうずめながら、またしてもディルの殺意を思い浮かべるのだった――。


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