第五十二話 遭難 ④
木の根元で身体を丸めていた私は、鳥のさえずりと共に目を覚ました。冷たい朝露が頬をかすめる感覚に、ぼんやりとまぶたを開ける。空はすでに明るく、木漏れ日がまばらに差し込んでいた。
目の前には、すぅすぅと規則正しい寝息を立てて眠るアレスの姿。無防備に眠るその横顔は、子供のころと変わらず、まるで安心しきった猫のようだった。
「……よく眠るわね」
私は一足先に身を起こし、身体を伸ばす。慣れない地面で寝たせいで腰がきしみ、背中が軽く痺れていた。息を深く吐きながら軽く肩を回し、ふと前方に目をやると——
「……え?」
情けない声が漏れた。
私たちの周囲を覆っていた半透明のドーム型の結界。その外側に、びっしりと魔物が張り付いていたのだ。ざわざわと不気味な音を立て、粘つくような視線をこちらに向けてくる。
(なんで朝なのにこんなに活発なのよ!?)
私は慌てて隣のアレスの肩を揺すった。
「アレス! アレス、起きて!」
「ん〜……」
ゆっくりと目を開いたアレスが、欠伸をしながら身を起こす。その動作があまりにも悠長すぎて、思わず私は語気を強めた。
「見てよ! 朝なのにこんなに魔物がいるの、おかしいでしょ!?」
「……ああ。大丈夫、全部低位の魔物だ」
「なんでそんな落ち着いてるのよ!」
アレスは寝起きの声で呟くように言った。
「昼間に動くのは、悪戯好きなタイプの低位魔物なんだよ。まあ、“悪戯”って言葉じゃ済まされないくらいには残酷だけどな」
冗談とも本気ともつかない口ぶり。でも、彼の目はどこか鋭く、軽さの奥にある経験を感じさせた。
たしかに聞いたことがある。低位の魔物は夜になると中位以上の魔獣に狩られるため、主に昼間に活動するのだと。けれど、都市近郊ではほとんど見かけないはず。まるで都市伝説のように、噂話の中だけに存在しているような存在。
その時、アレスがぽつりと呟いた。
「……残念だけど、ここはリンジーじゃないってことが、確定したな」
「どうして……?」
私はごくりと息を飲んで尋ねた。アレスは目を細め、結界の向こうの魔物たちを見つめながら答える。
「リンジー皇国は、ディル——いや、公爵が爵位を継いだ年に国全体に“低位魔物避け”の結界をかけたんだ。あいつの魔力で張られたやつは、生きてるだけで継続されるらしい」
「生きてるだけで……?」
「そう。中位以上の魔物を完全に避けるのは難しいけど、数が多すぎる低位の魔物を国から排除するには十分だった。だから、今でもリンジーの中ではこんな光景は見られない。……つまり、ここは別の国だ」
その言葉に、私の中で妙な寂しさが広がった。
(私……お父様のこと、全然知らないんだわ)
知らなかった。そんな強大な結界を、国全体に張るなんて。私たちが安全に暮らせていたのは、そんな父の力のおかげだったのだ。
アレスがちらりと私の顔を見て、気づいたように言った。
「……まあ、俺も戦争前に仕事を教わってるときに聞いただけだし。たぶん、ステラが“安全でいるのが当たり前”だったから、わざわざ説明しなかったんだと思う」
「……うん。ありがと、アレス。……なんか、ちょっと寂しくなっちゃった。今さらだけど……私、ファザコンなのかも」
「ファザ……コン?」
アレスが首をかしげる。私は笑ってごまかした。
「なんでもない!」
彼は首をひと振りして、前を向いた。
「……じゃ、そろそろ行くか。こいつら片付けて、森を出よう。この国の名前を探るのが第一目標だ」
「うん、頑張ろ!」
アレスが指を鳴らすと同時に、結界がふっと霧のように消えた。その瞬間、魔物たちが一斉にこちらへ突っ込んでくる。
「来るぞ」
アレスが静かに告げると同時に、彼の周囲の空気が歪む。
──ドンッ!!
地面が爆ぜた。
衝撃波魔法《衝牙》がアレスの足元から広がり、突撃してきた魔物たちを根こそぎ吹き飛ばす。
土煙と悲鳴が混ざり合い、視界が一瞬白くなる。
その隙にアレスは体勢を低くし、もう一度、何も言葉を発さず、手のひらを前に突き出した。
《穿雷》
空から落ちたのは雷光の槍。
大地を貫いたそれは、五体の魔物を串刺しにし、一瞬で焼き焦がす。煙と焦げた毛皮の匂いが漂った。
私は呆然としていられない。
「私も……」
魔力を左手に集め、空気を一気に震わせる。
足元から《炎刃》を走らせると、地を這うように燃え広がった炎が、魔物の足元を襲った。
「ギャアアア!」
悲鳴とともにのたうつ魔物に、今度は《雷撃》を放つ。
無詠唱のまま魔力を込めた指先から、鋭く青白い稲光が走り、焼け焦げた魔物の頭上で炸裂した。
バチッと乾いた音。
その場にいた二体が、痙攣したまま崩れ落ちる。
「ステラ、あんま無理すんな。加勢しなくていい」
アレスの声に反応して振り向くと、口を開いた牙だらけの魔物が飛びかかってきていた。
私は後方へ跳び退きながら、反射的に両手を前に突き出す。
《火壁》
放った火の壁が瞬時に立ち上がり、魔物の動きを遮る。
しかし勢いは止まらない。火を突き破ってきた魔物に、アレスがすかさず一歩踏み込んだ。
「邪魔だ」
その一言と共に、アレスの手から放たれたのは、魔力を極限まで圧縮した光の弾丸《閃》。
発射された瞬間、音もなく魔物の頭部が吹き飛び、血の飛沫だけが残った。
あまりの精密さに、私は息を呑んだ。
「まだ来るから、気だけは抜くな」
「うん!」
魔物は確かに低位だ。けれど、数が多い。
次から次へと現れるその群れに、私たちは、地面を割り、雷を落とし、火を撒き、そして光を断つ。
言葉はいらなかった。ただ、呼吸を合わせ、動きと意志で示すだけ。
しばらくして、最後の魔物が地に伏した時、私はようやく大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
私は周囲を見渡す。
数は多かったが、すべて低位。時間はかからなかった。
「……じゃ、進もうか」
私たちはどこへ続くともわからぬ森の中を、ただひたすら真っ直ぐに歩き出した。
その途中、私はふと考えを口にする。
「ねえ、アレス。従魔を使うのはどうかしら? ヴァルかガーロの背に乗って空から見た方が、この国の位置も把握できるかも」
するとアレスは鼻で笑った。
「バカ。目立つだろ。ガーロならまだしも、ヴァルなんて最高位の魔物だぜ? 空飛んだだけで騒ぎになるわ。第一、こういう時に備えて温存しておくべきだろ」
「……そうね。たしかに」
その通りだった。空を飛んでも、国の名前も地図もない状況じゃ意味がない。従魔たちの魔力の消耗だけが増えてしまう。私の魔力はヴァルへ常に消費されている。だからこそ、アレスが私を守らなきゃと無意識に思っているのかもしれない。
私は前を歩くアレスの背中を見つめながら、そっと呟いた。
「……頼りにしてるわ、アレス」
その声が聞こえたのか聞こえなかったのか、アレスは振り返らず「当然だろ」とだけ言って、出られるかわからない森の出口を目指して足を進めた。




