第五十話 遭難②
森の中から、ふと空を見上げた。
葉と葉の隙間から覗く空はまだ明るい紫色で、けれどその色は刻一刻と深く、夜の色へと変わっていく。まるでこの場所だけ時間が止まっているかのように静かだった。
「ねえ、もう一回……転移魔法でアレスの部屋まで飛べたら……」
途切れがちな声で言うと、隣でじっとしていたアレスが、ため息をひとつこぼす。
「無理だ。大体の位置が把握できなきゃ、転移魔法は正確に使えない。無理にやると……もっと出鱈目な場所に飛ばされちまう」
「……そっか。ここ、どこなんだろうね」
何度見渡しても、どこまでも同じ景色だった。高くそびえる木々、落ち葉の匂い、冷たい風。それ以外に、私たちを導くものはなにもない。
「ここが……リンジーなのかすら、分からないな」
「えっ、他国ってこともあるの……?」
「……ああ。もしそうなら完全に、不法入国になるな。もしリンジーと外交関係が最悪なら、かなりまずい」
アレスの言葉に、冷たい現実が心臓を刺す。
リンジー皇国との関係が良好であれば、事情を話して帰ることもできるだろう。けれどもし悪ければ──処刑される、そんな可能性も冗談では済まされなかった。
せめて、ここがまだ私たちの国の中でありますように──それだけが、今の願いだった。
「取りあえず……もう日が暮れる。今日はここで過ごそう。朝になったら移動だ。結界を張っておくから、魔物の心配はしなくていい」
「うん、ありがとう……」
アレスが木の根元に手をつき、ドーム型の結界を構築してくれる。淡い光がふわりと私たちを包み込んで、ほんの少し、心が落ち着いた。
だんだんと空は深い藍色に沈み、さっきまでかすかに残っていた光も消えていく。気づけば、周囲は闇に溶け、木の影すら見えなくなっていた。
「アレス……? いるよね?」
恐る恐る声をかけると、すぐそばから静かな声が返ってくる。
「ああ、いるよ」
その声と同時に、アレスがそっと掌を広げ、小さな光の玉を灯した。暖かな光が、わずかに彼の顔を照らす。
「悪い、気が利かなくて」
「ううん。私も光魔法使えるけど……アレスが照らさないってことは、暗いまま過ごしたいのかなって思ってたから」
「……」
アレスは何も言わなかった。でも、今なら分かる。光に照らされたその顔に刻まれた後悔の色は、私に見せたくなかったものだ。
──隠せるなら、きっと一生隠しておきたかったんだろう。
「……ほんと、ごめん」
絞り出すように放たれたその一言が、胸の奥に深く突き刺さった。
でも、私は微笑んだ。
「アレスは悪くないよ。むしろ……ちょっと感謝してるかも。今日一日、ちゃんと会話する時間なかったでしょ? 今なら……話、できるよね」
「……ああ」
アレスも、少しだけ笑った。でもその笑みには、責任という重みが影のように張りついていた。
私は、その影が見えないふりをして、静かに口を開いた。
「ねえ、アレス。嘘つくの……疲れてない? 家じゃ気を抜けないから、休みの間ずっと部屋に籠ってたんでしょ?」
「……そうだな。少し……疲れてるかも」
今の彼は、驚くほど素直だった。弱っているからなのか、私がアレスに向き合わず、前だけを見て話しているからか────多分、その両方だ。
今なら、きっと本音が聞ける。
「アレスは……このままでいいと思う? 私は──」
「──別れねぇぞ」
「……へ?」
言葉を被せるように、アレスが強い口調で言い切った。
目を見開く私に、彼は真正面から言葉をぶつけてきた。
「悪いけど……ディルにボコボコにされようが、殺されようが、ステラが俺を嫌っても、もうお前のことは離してやれない」
息が詰まった。
言葉の一つ一つが、まるで拳のように真っ直ぐで、荒削りで、それでも……痛いくらいに優しかった。
「……うん」
私は、ただ静かにうなずいた。
本当は、お父様にボコボコにされるのも、殺されるのも困る。そんなこと、絶対にあって欲しくない。
でも今だけは、アレスの言葉を訂正したくなかった。
──嬉しかったから。
この暗闇の中、たったひとつの灯火のように──アレスの想いが、あたたかく私の胸の奥にぽうっと灯った。
「でも、アレスは本当にこのままでもいいの? お父様に早く言ってしまいたいなら、二人で……お父様に許可をもらいに行こうよ」
そう口にした私に、アレスはふっと目を伏せて、ぽつりとつぶやく。
「そうだな──でも、もし行くとするなら、俺一人で行くよ」
「でもそれじゃ──!」
思わず前のめりになる私を制すように、アレスはやわらかく微笑んだ。
「男二人で話した方が、いいこともあるだろ」
その言葉の裏にある本心を、私は知っている。
アレスはきっと、お父様が自分に手を出すとわかっている。だからこそ、私を連れて行きたくないのだ。私の目の前で、父が誰かを傷つける姿を見せたくないから。
──伊達にアレスと八年、一緒に過ごしてきたわけじゃない。
そういう優しさを、私はちゃんと知っている。
「私のことは大丈夫だよ、だから一緒に──」
それでも私が食い下がると、アレスはふいっと視線をそらして、むすっとした顔を見せた。
「……俺が嫌だ。カッコ悪ぃ姿とか見せたくねーし」
ああ、もう。
そのちょっと照れたような顔が、やけに可愛くて。思わず私は微笑んでしまった。
「じゃあ……せめてその時がきたら、傍にいさせてね」
そう言って、私はそっとアレスの手に触れた。ひやりとした夜の空気のなか、指先が熱を帯びて絡まり合っていく。静かに、確かに──心の距離が近づいていく。
アレスは光魔法を使っていたもう片方の手に更に魔力を込めて、小さな光球をぽんと空へと放った。
ふわりと浮かぶ光が夜の森を淡く照らし出す。その淡い灯りの下、両手の空いたアレスが私の方へと向き直った。
そして、私の背にそっと手を回して──
私たちの体が、ぴたりと重なった瞬間。
──バチンッ!!!
「え……っ?」
何が起きたのかわからず、思わず間抜けな声が出た。
次の瞬間にはアレスが吹っ飛んで、地面に大の字で転がっていた。
寝転んだまま、アレスはぎゅっと拳を握りしめ、低くうなった。
「くっそ……ディルのやつ……! ステラにも、結界かけてやがる……!」
「え、でも。結界って、生き物にはできないから……アレスが今、研究してるって──」
「……もう、ディルがとっくに答え出してんだよ。しかも条件つけてやがる、絶対“異性から触れる”だ!!」
むくりと起き上がったアレスは、制服に着いた枯葉を払いながら私の隣に戻ってきた。
その顔は……明らかに気まずそうだった。
「だから、ほら」
アレスはわずかに頬を染めながら、そっと両手を広げる。
その仕草がもう、たまらなく愛しくて──私は躊躇なく、彼の胸へ飛び込んだ。
ぎゅっと、アレスの腕が私を抱きしめる。
この腕のぬくもりだけで、今夜の不安もすべて溶けていく気がした。
そして、アレスの小さなつぶやきが耳元でそっと落ちた。
「……次こそは、俺からしたかったのに」
その声がくすぐったくて、優しくて、胸の奥をじんと温める。
私は──それには何も返さなかった。
ただ、聞かなかったことにして。
そっと目を閉じ、彼の鼓動を感じていた。




