第五話 アレス ③
朝食の席、最近忙しくて姿を見せなかったお父様と、久しぶりに顔を合わせる食事の時間。
(うぅ……やっぱなんとなく気まずい)
以前、領地にいた頃──月に一度だけ共に囲んだ食卓のように、室内にはカチャカチャと食器の擦れる音だけが響いていた。
会話の糸口を見つけられず、ただ口を動かしているだけの時間。せっかく用意された温かな朝食も、喉を通るたびに味気なさが残る。
(この空気、なんとかしないと……)
意を決して、私は口を開いた。
「お父様!」「ステラ」
私とお父様の声が重なり合った。
一瞬、時間が止まったかのように感じた。お父様も、同じように話しかけるタイミングを探していたのだろうか。
「なんですか? お父様」
「ゴホンッ……怪我の調子はどうだ?」
「はい、大丈夫です。……寝ている間に手当を頼んでくれたみたいで、ありがとうございました」
「……なら、よかった」
お父様の声が、少しだけ柔らかくなった気がした。でも、すぐにまた気まずい沈黙が訪れる。
私は周りに立つ使用人達を見渡して、ふとあることに気づいた。
「あの……お父様」
「なんだ?」
「今朝からマチルダとアリネが見当たらないのですが、なにかありましたか?」
「……ああ。二人は、ステラの専属から外したんだ」
(え……? そんな、急に……)
心の奥底を冷たい水で締めつけられたような感覚に襲われた。動揺を押し殺しながら、私はそっとカトラリーを食器の上に置き、姿勢を正してお父様を見つめる。
「それは、どういうことでしょうか?」
「彼女たちは、お前の怪我に気付かず、手当を怠った。専属侍女としては不十分だと判断した。それだけだ」
「……それは、私が隠したからです! 二人は何も悪くありません!!」
声を張り上げてしまった。けれど、お父様の表情はまったく揺るがない。
「……ステラ、お前は子供だ。それを見抜くのも、専属侍女の仕事のうちだ」
冷たい声。ああ、この人は……私の意見なんて、初めから聞く気がなかったんだ。
私はまだ、マチルダとアリネと本当の意味で仲良くなれたわけじゃない。やっと少しずつ心が近づいてきた気がしていたのに……私のせいで……
涙が滲んで、視界がぼやける。
まただ。六歳の体が、感情に引っ張られる。
(泣きたくなんてないのに……)
こんな姿、誰にも見せたくない。見せたらまた、甘えていると思われる。
「ステ──」
「ご馳走様でした。今日はもう部屋に戻ります。誰にも……誰にも部屋に近付かせないでください。お父様も」
慌てて立ち上がったお父様の椅子が、ガタン、と音を立てて倒れた。
その時、私は振り返りざまに言った。
「お父様、約束を破って来たら──嫌いになっちゃいますからね」
足早に自室へ戻り、扉をばたんと閉めると、そのままベッドへと飛び込んだ。
「もう……っ、おとうさまのばかぁ……っ」
顔を枕にうずめたまま、堰を切ったように涙があふれてくる。
「親父と喧嘩したのか?」
「喧嘩ってわけじゃな──!」
不意にかけられた声に、反射的に答えそうになるが、すぐに違和感に気づく。え、今の声──?
「アレス……!? なんで……」
顔を上げると、そこにはベッド脇にしゃがみ込み、腕を組んで乗せたアレスがいた。彼はじっとこちらを見ていた。
「また会いに来るって言っただろ?」
「そうだけど……どうやってここまで」
「そりゃ、ほら。魔法でちょちょいのちょいよ!!」
彼の軽口に、思わず目を見開く。
「え! アレスはもう魔法が使えるの!?」
「うん。俺、生まれた時に神殿で神の加護を承けたらしいんだ」
リンジー皇国では、八歳の誕生日に神の加護を受けることで魔法の力が解放され、自分の魔法レベルのスタートラインが開示される。
(平民や貴族には八歳未満で魔法が使えるのはありえないけれど……)
「そっか……アレスは皇子様なんだもんね」
ぽつりとこぼれた言葉に、アレスの肩がぴくりと反応した。そして、次の瞬間──
「どうしてそれを知ってんだ!!」
彼は私の両肩を掴んで、ぐいと引き寄せた。いつものふざけた調子が消え、鋭い眼差しで私を見つめる。
彼の瞳に浮かぶ警戒心と驚愕。それはただの子供の問いかけとは思えないほど、鋭く、深かった。
「え、どうしてって……聞いたの」
「俺の存在は一部の高官にしか知らされていない!!貴族の令嬢だとは知ってたけどまさか……そんなっ」
「アレス、大丈夫だから!少し落ち着いて」
なにやら頭を抱えて、呼吸が早く浅くなっているアレスの背中を撫でて、落ち着くように促した。
指先が触れるたびに、震えるような背中がわずかに揺れる。アレスは目を伏せ、苦しげに唇を噛んでいた。
少しすると、アレスの呼吸は徐々に整い、穏やかなリズムを取り戻していった。
「アレス、平気?」
「……ああ、ごめん。ちょっと、取り乱した」
「アレス、あなたはなにから逃げているの?」
アレスは俯いたまま、静かに息を吐いた。ぽつり、ぽつりと、自分でも掘り返したくない記憶をなぞるように話し始める。
「俺、スタートの魔法レベルが66あって、多過ぎる魔力量を体に閉じこめることができないんだ」
それは、普通では考えられない数字だった。
八歳で加護を授かり、平均してレベル5〜10程度でようやく魔力量を魂の器に収められるのが常識。
それを、生まれてすぐにレベル66からだなんて――
「だから、魔力の暴走が酷くて……コントロールも利かなくて……。周りに酷い怪我人が、何人も出た……」
声が震える。今でも、それがトラウマのように彼を縛っているのがわかった。
「だから幽閉されたんだ。皇宮の西に建つ塔の中で。六年……ずっとそこにいた」
「そんな……酷い」
声が自然と震えた。
彼がどんなに幼くして、どんな恐怖と孤独の中にいたかを思うと、胸が締めつけられる。
まるで、厄災のように扱われて、閉じ込められて。
誰も悪くないのに、まだ小さな子どもだった彼にすべての責任を押しつけて。
私には、少しだけ、その気持ちがわかる気がした。
家族に見放され孤独でいるのは、とても寂しかったから。
私は、そっとアレスの手を握った。冷たい手だったけれど、その温度さえ愛おしく思えた。
「なに、この手……」
「こうすると落ち着くでしょ?」
「そうか?」
「私は落ち着くわ」
そう言って、ただただ私はアレスの存在を肌で感じていたかった。
怖がらなくていいよ、ここにいるよ――そんな気持ちを伝えるように。
「まさか、ステラが高官の娘とはな。だれだ?大神官の娘か?それはないな……フリード侯爵?」
「いえ、アルジェラン公爵よ」
「アルジェラン……?そんなのいたかな」
「ん?知らない?ディル・アルジェラン公爵」
アレスは驚いたように立ち上がった。
それに、体がほんの少し震えているのが分かった。
「アレス?大丈夫……?」
「お前、ディルの娘なの?そんな、あいつまだ若いだろ?」
「確かに若いけれど、紛れもなく私のお父様よ」
「やべぇ、早く逃げねぇと……この部屋に結界張ってても、あいつなら入ってこられるじゃんか!」
そう言って、窓から出ようとしたアレスの腕を、私は慌てて掴んだ。
「大丈夫よ、アレス。私がお父様に直接結界魔法のようなものをかけてあるから」
「は……?お前、魔法使えないだろ?」
「娘にしか使えない魔法があるのよ」
「……?」
そう。私は「部屋に入ってきたら嫌いになる」という一種の魔法のような“言葉”をかけていたのだ。
それがどれほどの効果を持つかはわからないけれど、なんとなく自信があった。
「信じて!!」
「だから、もう少しここにいて……」
私は縋るように彼の腕を握りしめた。
私の、唯一のお友達。ここで逃がしてしまえば、もう二度と会えない気がして、怖かった。
やがて私たちはベッドに横並びに腰を下ろし、耳元でこそこそと話し始めた。
「アレス、多分お父様はあなたの味方よ……」
「そんなわけねぇだろ」
「私を信じてくれない?」
「信じる信じないの話じゃ……」
「なぜ?きっとうまくいくと思うのだけど……」
アレスは、何かを悟ったような目で私を見た。
その瞳に宿る迷いが、痛いほど伝わってくる。
「やだよ。俺は大人に頼らずに生きていきたいんだ」
「ふふ、そんなの偶像よ?アレスは今どこに住んでいるの?」
「少し離れたスラム街の空き家」
「はぁぁあ!?」
私は思わず叫んだ。あまりにも予想外で、言葉を失いかけた。
この子が……この子がそんな場所に――?
堪らなくなって、ベッドを飛び降りると、ちいさな足でずんずん扉へ向かい、勢いよく開け放った。
「お父様!!さっきから聞いてらっしゃいましたね?」
扉の前には、予想通り――お父様とその側近、エミリオ様が聞き耳を立てていた。
「こんにちは、ステラ様。僕らたまたま通りかかっただけで」
「エミリオ様……!嘘つかないでください!」
「す、すみません……」
私はお父様の腕を、小さな体で精一杯引っ張って部屋の中に引きずり込んだ。
ベッドにいたはずのアレスは、今はベッドの影に身を隠していたけれど、完全に逃げてはいない。
その小さな勇気が、私は嬉しかった。
「……それで?ステラ、俺にどうしろと言うんだ?皇族の決定事項を」
「それは……っ、なんとかお父様の力でお願いできませんか?」
「無理だな」
「公爵様でも?」
「ああ」
「最強の魔法騎士様でも?」
「ああ」
――それでも。諦めたくなかった。
これは……聞くか分からないけれど……最終手段だ!!
「お父様が助けてくれたら、私、お父様のこととても好きになっちゃうな」
「ゔ……」
「今でも好きだけど、もっともっと大好きになってしまいます!!」
「それでもだ」
「ダメですか?」
私は胸の前で手を組み、お祈りするように上目遣いで見上げた。
「わ、わかった……!!上手くいく保証はないからな」
「ディル様ちょろ!!!!」
「エミリオ、少し黙ってろ」
お父様は昨夜、アレスの魔力を感知していたのだと思う。けれど、追いかけることもせず、また皇宮に赴き報告した感じもしなかった。
これでハッキリした。
お父様はやっぱり、アレスの敵ではない。