第四十九話 遭難 ①࿆
二年生となった魔法学校初日。
朝から一悶着あったものの、私はお父様の転移魔法によって登校した。
アレスは少し時間をずらし、私が教室に着いた頃にはすでに登校を済ませていた。机に肘をつき、頬杖をついている。いつもの彼よりも少しだけ不機嫌そうだった。
「別々に登校なんて、珍しいですね」
ハル先生が、柔らかな声とともに振り返る。
夕焼けのようにあたたかなオレンジ色の髪がふわりと揺れて、彼の微笑みに少しだけ心が緩んだ。
「……少し事情がありまして」
私はそう答えてアレスに視線を向ける。
彼はいつもより眉間に強く皺を寄せ、何かを噛み殺すように口を結んでいた。魔力ではなく、感情の熱がその瞳の奥に宿っている。
「まあ、貴族のご家庭事情には僕が首を突っ込むべきではないですね。……聞かないでおきましょう」
ハル先生は、あくまで軽やかにそう言って、パンと音を鳴らすように手を叩いた。
「では今日も各々、研究を進めてください。分からないことがあれば、いつでもどうぞ」
「今年は、ステラさんが“浮遊魔法を最小限の魔力で浮遊移動魔法へと変換する”研究の続き。アレスさんは“物体にしかかけられない結界魔法を、生き物──特に人間に常時張り続ける”という難題ですね。今年も挑戦の年になりそうです」
明るく言い切るハル先生の存在が、冷えかけた教室の空気を少しだけ和らげてくれた。
──けれど、アレスの心までは、あたためられなかったようだ。
午前の授業が終わり、昼食の時間になった。
いつもなら、アレスが転移魔法で公爵家の厨房に帰って出来立てのお弁当を取ってきて、教室でふたり並んで食べるのだけれど。
最近は、担任となったハル先生がなぜか職員室に戻らず、教室で丸かじりの林檎を食べるという謎の習慣を確立していた。しかもそれを毎日。
──だから今日は、ちょっとした冒険に出ることにした。
「アレス!!今日は学食に行かない?」
「は……?」
私は立ち上がると彼の袖を引いて、そのまま返事も待たずに教室を出る。
「僕はお留守番ですかー?」
なんて、呑気に言っていたハル先生の声が背後で遠ざかる。
校舎の奥にある食堂に着いた私たちは、あえて貴族用の個室席には行かず、庶民エリアと呼ばれる平民生徒たちの空間へと足を踏み入れた。
「……ステラ、なんでいきなり学食なんて。しかも貴族エリアじゃなくて、なんで平民の席に……」
「こっちの方が目立たず話せるでしょ? 貴族って噂好きで、何でも盗み聞きしてくるじゃない」
「いや……制服見りゃ一目で貴族ってわかるし。めちゃくちゃ浮いてんぞ」
アレスの言葉に、私も辺りを見渡す。
……確かに、平民の生徒たちの視線が、私たちに針のように刺さっていた。制服の色が違えば、階級も違うという現実が一目で分かるこの場では、私たちの存在はまさに異物だった。
「……想定外だわ」
「いや、考えりゃ分かるだろ……」
それでも。
アレスがほんの少しだけ笑ってくれた。それだけで、今日この席を選んだ意味があったと思えた。
「……あーれー? 平民エリアで食事してるちょっと変わった貴族って、やっぱり君たちだったのねぇ〜?」
背後から、聞き覚えのある甘ったるい声。
振り返らずとも分かるその人物──女装したフレッド、今日も“フリエッダ様”として現れた彼は、扇子を片手に私たちの隣にぬるりと立っていた。
「よくお会いしますね、フリエッダ様……」
(まさか……つけられてる? いえ、偶然にしては多すぎる)
「えーっ、多分私の好き好きパワーで会えちゃうのかもぉ♡──って!?」
フリエッダ様の目が丸くなった。
その指が、私たちの目の前にある平民用のランチ定食を指し示す。
「ちょっとステラちゃん!? なにこの食事!!」
「……これは、学食ですわ」
「え!? ステラちゃん家、もしかして没落寸前!?」
叫んだ、その声はあまりにも大きくて──
それをきっかけに、平民エリアの視線がさらに集中した。いたたまれないほどに。
「ちょっと! 違いますっ!! アレスと目立たず話したくて……それに、この定食だって美味しそうじゃありませんか!」
「そ、そうなの? いや、ごめんね。骨付きの魚……しかも丸焼き……あまり見ないから……」
そう言いつつも、フリエッダ様は平民の食事や話題を興味津々に観察しながら、いつの間にか私たちのテーブルに座り込んでいた。
アレスは苦虫を噛み潰したような顔で、まったく口を開こうとしなかった。
──こうして。
せっかくふたりで静かに話せる場所を選んだつもりだったのに、フリエッダ様が食事中ずっとぺらぺらとお喋りを続けたせいで、アレスとは一言も真面目な話ができなかった。
しかもその日の夕方、
なぜか「アルジェラン公爵家、没落寸前!? 令嬢、平民ランチで質素倹約か」という妙な噂が、校内に広がっていた。
どうしてこんなことに……。
アレスとは結局、ろくに目も合わせることさえできないまま、学校での一日はあっけなく終わってしまった。
夕陽が差し込む教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
「帰りはディルが迎えに来るんだっけか」
アレスの声に振り返ると、彼の顔にはどこか気だるげな影が落ちていた。
「うん。でも……いつ頃来るんだろう」
そうぼやいた瞬間、教壇の方から椅子を引く音がガタンと響いた。
「僕、今日これから用事があるので見送りはここまでにしますね。ではおふたりとも……また明日」
オレンジ色の髪を揺らして、ハル先生は小さく手を振り、扉を開けて颯爽と出ていく。
「あ、はい。また明日……」
その背中を見送って、私はほんの少しだけ不安になった。いつも必ず最初から最後まで私たちと一緒にいるハル先生が、こんなふうに先にいなくなるのは、なんだか珍しい。
そうして、静けさが降りる。
誰もいない教室。時計の音だけが、カチ、カチと響いていた。
(今なら……今ならアレスと話せるかもしれない)
けれど、私の胸の奥は奇妙な緊張で締め付けられていた。話すべきことがありすぎて、どこから切り出せばいいのか分からない。そもそも、あの沈んだ表情の彼に、私の言葉は届くだろうか。
そんなふうに迷っていると、アレスが唐突に口を開いた。
「ここじゃ、落ち着いて大事な話できねぇし。ディルもいつ来るかわかんねぇから、今日は俺の転移魔法で帰ろう。別に文句言われることはないだろ」
その言葉に、私は少し驚いて、それでも頷いた。
「あ……うん」
アレスが差し出した手。迷いなく、それを取る。
指先が触れると、すぐに魔法陣が足元に広がり、柔らかな光が視界を包み込んだ。ほんの一瞬の無重力感と、魔力の揺らぎが肌を撫でる。
(次に目を開けた時には、公爵家に──)
そう思っていた。
けれど、次に瞼を開けた瞬間、そこにあったのはまるで違う景色だった。
薄暗い空の下、あたり一面、見渡す限りの木々。背の高い樹木が密集し、葉が風もないのにざわざわと不気味に揺れている。
「……あれ?」
思わず、間の抜けた声が口をついて出る。隣に立つアレスを見ると、彼はこめかみに手を当て、深いため息をついていた。
「悪い……やっちまった」
「え? なに? どういうこと?」
何か信じられないものでも見るかのように私は辺りを見回す。見知らぬ森。見覚えのない樹形。どこを向いても帰り道など存在しない。
アレスは唇を噛み、観念したように口を開いた。
「俺……ステラの部屋から拒絶されてるのに、いつもの癖でお前の部屋に転移しようとしたら、結界で弾かれて……たぶん、空間の狭間を飛ばされて、わけわかんねぇ場所に落ちた」
ひゅう、と冷たい風が頬を撫でる。
「……え、それって……つまり……」
声が震える。
「こ、これは……遭難ってこと?」
アレスは肩を竦めて、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……まぁ、そういうことになるな」
深い森の中。空の色は徐々に紫がかってきている。
薄暗い空、名も知らぬ木々、どこからか響く動物の鳴き声、魔物の気配。
私たちは、どうやら──とんでもない場所に飛ばされてしまったらしい。




