第四十八話 冷ややかな朝食
「今日から、学校かぁ……」
私はぽつりと呟いた。
窓の外は朝陽に染まり、庭の花が風に揺れている。新しい制服に袖を通しながら、心の中でため息をついた。
この一週間は夢のようだった。
お父様が戦場から帰ってきて、ずっと家にいてくれた。
毎日、朝も昼も夜も、お父様と一緒に食事をして。少しだけお出かけもして──久しぶりに、子どものように甘えた。
胸の奥に積もっていた寂しさが、少しずつ溶けていくようだった。
……でも、アレスは。
あの子は、ほとんど部屋から出てこなかった。
用事があるときだけ顔を見せて、私とはあまり話そうとしなかった。
お父様が帰ってきたから遠慮しているのか、それとも……。
「……アレスも一緒だったら、もっと楽しかったのに」
そう、何度も思った。
けれど、今の私には彼と向き合う資格なんてないのかもしれない。
思えば──私の感覚はもう、ずいぶんと麻痺してしまっていた。
最初は苦しかった。
死に戻ったこと、未来を知っていること、色々なことを隠していることが、ひどく心に引っかかっていた。
けれど、何度も嘘を重ねるうちに、隠し事をしていることが「当たり前」になってしまった。
嘘をつくことの、罪悪感すら薄れていく。
きっと──あまり嘘をつかないアレスは、もう疲れてしまっているのだろう。
昨日、久しぶりに話しかけたときも、彼はほとんど目を合わせてくれなかった。
ほんの少しでも笑ってくれたら、嬉しかったのに。
それが叶わなかっただけで、胸がじんわりと痛んだ。
でも、それもこれも全部……私のせいなのだ。
アレスは、お父様に許可を取ってから想いを伝えようとしてくれていた。
ちゃんと、順序を踏もうとしてくれていた。
なのに私は……何も知らずに、キスをしてしまった。
彼の計画も、気持ちも、無視するかたちで。
しかも、「お父様には内緒にしよう」だなんて──最低だ。
アレスがどれほど、私のことも、お父様のことも大事にしてくれていたのか。私は、何も分かっていなかった。
そして──
お父様は、帰還してから確実に強くなっていた。
普通の転移魔法は、展開した魔法陣が輝きを放ち、空間が歪んで移動する。かなり目立つのに。
お父様が使う転移魔法は、魔法陣も最小限で、光もなければ気配もない。
帰還した日の朝、私たちが気づく間もなく、アレスの背後に突如として現れたあの時──。
アレスは確信したのだろう。
「もう、絶対に油断できない」と。
どんなに二人きりの空間に思えても、誰もいないと思っていても、いつお父様がどこから現れてもおかしくない。
それはまるで──
静かに、けれど確実に首筋へと迫る刃のような緊張感だった。
(アレス……気が抜けないよね。私が、全部こんなふうにしてしまった)
ふぅ、と息を吐く。
ささやかだけど、深く沈んだため息だった。
「……そろそろ、朝食の時間ね」
気持ちを切り替えて、自室の扉へと歩いていく。
ガチャ──
音を立てて扉を開けた瞬間、目の前に立っていた人影に私は息を呑んだ。
「わ、わぁっ!!ア、アレス!?!?」
驚きのあまり、思わず大声を出してしまった。
彼は扉の真正面に、まるで張りつくように立っていた。
無表情のようでいて、どこか……その目に、深い色が浮かんでいた。
「な、なにやってるの? 中にも入らず、こんなところで……」
声をかけながら見上げると、アレスの瞳が私を真っすぐに見下ろしていた。
その目は、悲しみと、苛立ち、そして……言葉にできない感情で満ちていた。
「……ステラ」
一言、名前を呼ばれるだけで、胸の奥が揺さぶられる。
彼の声がこんなにも低く、重たく響いたのは、いつ以来だろう。
その瞳の色は、苦しそうな──哀しみの色だった。
◇◇◇
「お父様!!アレスを、私の部屋から弾いているとはどういうことですか!?」
思わず、声が大きくなってしまった。
朝の日差しが差し込むダイニングルーム、銀のカトラリーが光を受けて優雅に煌めくなか──
私の言葉に、お父様がナイフを置いて、ゆっくりと顔を上げた。
「なんだ、そんなことか……」
淡々とした口調。けれど、瞳はほんの少しだけ丸くなっていた。
「アレスも男だと、認めただけだ」
静かに、それでいて確かに響く言葉。
私は眉を寄せた。
「アレスは……ずっと男の子ですが、家族でしょう?」
私の声が、少し震えた。
でも、お父様はわずかに眉を動かすだけで、まるで当然のことを言うように首を振った。
「血縁関係はないだろう」
その一言に、私は言葉を詰まらせる。
そうだ。お父様が言う通り。
私とアレスの間に、血のつながりはない。
でも、そんなこと──
「……だからって、まさか──お父様。アレスの部屋にも、私が入れないようにしてあるんですか?」
少し躊躇いながらも口にした推測に、お父様は静かに、けれどはっきりと頷いた。
「ステラには、なにもしていない。だが……アレスとふたりきりにはなるな。必ず、使用人を部屋に入れなさい」
静かな言葉だった。
けれど、それは明確な「線引き」だった。
私とアレスは──もう、今まで通りにはいられない。
義理の姉弟が、年頃になれば距離を取らねばならないのは、貴族社会では当たり前のこと。
特に、血縁のない二人が部屋でふたりきり……それは、あまりにも不用意だと見なされてしまう。
でも……。
「使用人をつけるので、私の部屋の結界は解けませんか?」
私はそれでも食い下がる。
結界のせいで、アレスが私の部屋に来られないなんて──そんなの、今の関係をますます遠ざけてしまう気がして、たまらなかった。
「なぜだ?」
お父様の問いに、私は正直に答えた。
「アレスとは、私の部屋から学校に転移しているんです。だから……不便ですわ」
「ステラの部屋から行く必要はないだろ」
「ですが……座標がズレてしまう可能性もありますし……」
「ないな。……なんのために完璧な転移魔法を教えたと思っているんだ?」
淡々と、けれどどこか意地でも折れないという意思を感じさせる口調。
私は、言葉を失った。
そして、ナイフとフォークに手を伸ばすこともできず、ただ黙って座っていた。
すると──
黙って食事を続けていたアレスが、ナプキンを置いて、口を開いた。
「つまり──俺が、ステラを“女”として見ていると判断したわけだな」
静かに、けれどはっきりとした声だった。
その声には、どこか悔しさの滲んだ熱がこもっていた。
「間違いがあってはいけないからだ」
お父様も、真正面から答える。
ふたりの視線がぶつかる。
誰も口を挟めないほど、空気が張り詰めていく。
睨み合うような二人を、私はただ見ているしかなかった。
どちらも、大切な人。どちらの気持ちも分かる。けれど……。
「ディル。今度話があるから、時間とってくれ」
アレスが、わざと軽く言い放った。
お父様──ディルは、即座に答える。
「今すればいい」
「学校に行く前に話すことでもないし。色々、準備があんだよ」
アレスは目を逸らさず、むしろ挑むように言い返す。
「……ステラのことなら、なるべく早く伝えに来い」
低く、けれどどこか苦しげに絞り出されたお父様の言葉に、アレスは目を細めた。
「……わぁったよ」
返す声は、やや棘を含みながらも、どこか決意のようなものを感じさせた。
朝の光は、変わらずテーブルの上を照らしている。
けれど──
さっきまで温かかった食卓には、どこか冷たい沈黙が流れていた。
私はナイフを握りながら、気づかれないように深く、ひとつ息を吐いた。




