第四十五話 帰還後の隠しごと ①
青く澄み渡る空が、窓の外にどこまでも広がっていた。
雲ひとつない晴天。どこか祝福めいたその空に、私は両腕を思いきり伸ばし、大きく息を吸い込んだ。胸の奥まで満たされていく清々しさは、今日という特別な一日にふさわしい。
──そう、今日はお父様が帰ってくる。
「半年くらいで戻れる」と言っていたはずが、気がつけば一年。長く、遠く、恋しい時間だった。
学年が変わる前の、束の間の休暇。けれど、そんなことよりも何よりも──
(今日はずっと、お父様と一緒にいられる)
心が浮き立ち、身体が軽い。踊るような足取りで寝室と隣接している衣装部屋の扉を開き、私は目を細めた。
(今日はとびきりお洒落をしたいわ。お父様の瞳──私の瞳と同じ、あの深いブルー。だから、やっぱり青いドレスにしようかしら……)
ドアをノックする軽やかな音に、思考を中断される。入ってきたのは、いつもの彼女。
「お嬢様、今日はお早いですね」
無表情ながらも、どこか驚いたような色を含んだ声。そう、いつもはレッドに起こされる私が、今日は彼女が来るよりも先に目を覚ましていたのだから。
「ええ、せっかくお父様が帰ってこられる日ですもの。とびきり可愛くしておきたくて……それに、覚悟も決めたくて」
「覚悟、ですか?」
一瞬だけ彼女の声に揺らぎがあった。
ヴァルのこと、そしてアレスとの関係は、まだお父様には秘密。嘘をつくのは心苦しいけれど、だからこそ覚悟が必要だった。まだ、誰にも言えない恋。だけど、確かに始まった恋。
「……いろいろかな」
感情の色が見えてしまうレッドには、もうとっくに知られているだろう。でも彼女は、いつものように何も言わず、静かに支度を手伝ってくれた。
ブルーのドレス。光の加減で海のようにも、空のようにも見える。髪を優しく巻き下ろし、ほんのりと化粧を施す。
鏡に映る自分を見て、少しだけ恥ずかしくなった。
(……けど、悪くない。私、ちょっと綺麗かも)
これなら自信を持って、お父様を迎えられる──そう思っていた、そのとき。
ノックもせず、勢いよく扉が開かれた。
「ステラ……朝食来ねぇから迎えに来たぞ〜」
眠そうな声。ノックもせずに入るのは、彼しかいない。
「ねぇ、アレス。どうかな? 可愛い?」
駆け寄ってくる私を見て、アレスは一瞬固まり、そしてゆっくりと顔を赤らめた。
「あ、ああ……綺麗───」
「世界で一番美しいな……まるで天使だ」
アレスの言葉にかぶせるように、もうひとつの声が響く。
私はその声を、世界で一番知っている。
驚いて顔を上げると、そこに──碧の瞳。
アレスの背後に立っていた、その人が、まっすぐに私を見つめていた。
「お父様……!」
胸の奥にあった感情が、堰を切ったように溢れ出す。
毎日のように手紙を書いた。
ただ無事でいてほしいと願い、
「会いたい」と何度も空に祈った。
あの声が恋しくて、あの腕が恋しくて、
触れられない温もりを、ずっと夢に見ていた。
気づいたときには、私は駆け出していた。
まるで小さな子供のように──
高い背の、お父様の胸に飛び込んだ。懐かしい香り、温かさ。ぐしゃぐしゃになるってわかってるのに、もうどうでもよくて。
「お……おかえり、なさい……っ」
涙声で搾り出すと、お父様は何も言わず、でも迷いなく、私の身体を持ち上げて抱きしめてくれた。
「ただいま、ステラ」
低くて優しい声が、頭の上から降ってくる。
私の世界の中心が、今ここにある。
「……あーあ、絶対俺らの存在忘れてるよな、アレ」
「左様でございますね。ですが、見守ってあげましょう」
後ろでアレスとレッドがぽつりと囁き合う声が聞こえたけれど、今の私には届かない。
私の世界は、目の前の人でいっぱいだった。
ああ、本当に帰ってきてくれたんだ。
夢じゃない──目を閉じれば、胸に感じる温もりが、私にそう教えてくれる。
お父様の胸にしがみついたまま、私は離れることができなかった。
一年という歳月は、あまりにも長かった。
お父様の伸びた髪が、ふわりと頬に触れて、くすぐったくて、私は小さく笑った。
「お父様、髪が伸びましたね」
ようやく出た言葉は、涙まじりでかすれていた。
けれど、お父様はすぐに気づいてくれて、ふと優しい声で返してくれる。
「ああ、邪魔だな。会う前に切ればよかったのだが……一秒でも早く、ステラに会いたかった」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
私はそっと、お父様の艶やかな漆黒の髪に手を伸ばして、撫でる。
「いいえ、髪が長いのも……とても素敵ですわ」
指先に伝わるのは懐かしい質感。
私の髪とは違う、夜の帳のように静かな黒──漆黒の髪が、いま確かにそこにある。
心の隙間を埋めるように、
ずっと待ち続けた温もりを何度も確かめるように、
私はもう一度、お父様の腕の中で強く目を閉じた。
そして、私たちは言葉少なに、ただ静かに──
ふたりだけの世界で、再会の喜びを抱きしめていた。
◇◇◇
「ステラとディルのせいで、腹ペコだぁ」
アレスが玉子をフォークで突き刺しながら、少しふてくされた声で呟いた。
「ごめんって……でも、先に食べていても良かったのよ?」
私がそう返すと、アレスはふいっと顔を逸らしてぼそり。
「あんな雰囲気で、二人置いて一人だけ朝食なんてできねぇよ……」
目を合わせてくれないくせに、ほんのり赤くなった頬が彼の優しさを物語っている。
再会の喜びに浸りすぎて、ずいぶん朝食の時間が遅れてしまったが、今は三人揃ってテーブルについていた。
お父様が家にいる。それだけで心がふわふわするほど嬉しかった。
「……あ、それと……ディル。おかえり」
アレスがぽつりと不器用に告げる。
「ああ」
お父様はそれだけで済ませるけれど、返ってきた声には柔らかさがあった。
このふたりは昔からそう。お互いを大切にしているのに、どうしても素直になれない。
でも私は、そんなところがたまらなく可愛くて、微笑ましくて、気に入っている。
「お父様、今日は一日ゆっくり過ごせるんですよね?」
期待を込めてたずねると、お父様は軽く頷いた。
「ああ。朝一番で陛下に帰還の挨拶は済ませてある。今日は家で過ごすつもりだ」
「嬉しいです」
自然と笑顔がこぼれると、お父様の頬もゆるんだ気がした。……気のせいかもしれないけれど、それでも胸が温かくなる。
「ステラ」
お父様がふいに名前を呼ぶ。
「なんですか?お父様」
その声はいつになく真剣で、私は少し背筋を正した。
お父様は手にしていたカトラリーを静かに置くと、私の顔をじっと見つめる。
「もちろん、恋愛なんてしてないよな?」
「──えっ?」
「お前はまだ十四だし、心配はないと思うが……手紙の内容的に、念のため聞いておきたくてな」
私は一瞬固まりながらも、冷静を装って微笑んだ。
「えっと……恋は、探し中です」
アレスとのことは、まだ秘密。
ばれないように、心臓の音が聞こえないように、笑顔を崩さずに答える。
「俺は認めていないことを忘れるな?」
「お父様、私にだって恋愛する権利くらいありますよ」
「……ああ。では、ステラの方は止めないでおく」
「私の方は?」
意味深な言い回しに、ちらりとアレスを見やると──彼は目をぎゅっとつぶって、ナイフでソーセージを切るのに集中しているふりをしていた。
ああ、アレスってあまり嘘が得意ではないタイプだわ。
そっとお父様のほうへ目を戻すと、こちらは何事もなかったかのように再び食事を始めていた。
「……それと、もう一つ。手紙の内容以外で俺に伝えてないことは、何もないか?」
さらりとした問いかけだったけれど、心の奥がざわついた。
一瞬だけ、表情が引きつる。
──ヴァルのことは絶対に言えない。
平然を装うのよ、ステラ。笑って。何事もなかったように。
「はい。特に、なにもございません」
とびきりの笑顔を浮かべてそう答えると、お父様はほんの少しだけ間を空けてから、低く呟いた。
「……そうか」
その声音は、すべてを見透かしているようでもあったし、ただの親バカとして信じ込んでくれているだけのようにも聞こえた。
──私は後者だと、信じることにした。




