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第四十三話 喜び結ばれ



アレスがそっと私の背中に手を添え、部屋まで付き添ってくれた。

扉を開けて中に入ると、まるで空気までもが静かに息をひそめたような、そんな穏やかな空間だった。


私はソファに腰を下ろす。どっと疲れが押し寄せてきて、体が深く沈み込む。


すぐにレッドが湯気の立つお茶を運んでくれた。

香ばしい香りが鼻先をくすぐる。


「ありがとう、レッド……」


私は受け取ったティーカップを両手で包み込むようにして持つと、ふうっと長く息を吐いた。


レッドは無言で、淡々とハンカチを差し出してくれる。

その手からは、無機質なはずの仕草に、どこか優しさがにじんでいるような気がした。


ハンカチで目元を押さえながら深呼吸を一つ。まだ少し胸は詰まっているけれど、さっきのような込み上げる涙は、もう出てこない。


「少し落ち着いたか?」


アレスが、私の正面に腰を下ろし、そっと問いかけてくれた。


その声には焦りも詮索もなくて、ただひたすらに優しくて──

私の心を丁寧に撫でてくれるようだった。


きっと、手紙の内容が気になって仕方ないはずなのに。

それでも、私が自分のペースで話せるように、何も言わずに待っていてくれた。


「うん、もう大丈夫。ありがとう」


私が微笑むと、アレスもふっと安心したように口元を緩めた。


「それで……手紙の内容、聞いてもいいか?」


「ええ、もちろん」


言葉にするより、見てもらったほうが早いと思って──

私は静かに手紙を差し出した。


アレスはそれを受け取り、封を開いて目を通し始める。


手紙の書き出しは、いつものように、まるで恋文のようだった。


どれだけ私のことを想っているか、

会えない日々がどれほど辛いか、

帰ったらどこに連れていきたいか──


そういう、くすぐったくなるような言葉の羅列。


そして──最後に、ようやく本題が来る。


『帝国が敗北宣言を出した。戦争は終わる。帰るにも少し時間がかかるが、もうすぐ帰還できそうだ。寂しい思いをさせて悪かった』


その一文を読んだ瞬間、アレスの表情がふっと柔らかくなった。


「……勝ったんだな。よかった……」


まるで、自分のことのように安堵したその声に、私は胸が熱くなるのを感じた。


アレスはきっと、ただ“帰ってくる”という言葉だけでは、心から安心できなかったのだろう。

戦争から帰ってくる理由は、勝利だけとは限らない。


──脚を失った。

──目を潰された。

──腕を斬り落とされた。


戦場という現実は、時に人からあらゆるものを奪い、戦えなくなった者を“帰還させる”。

その恐ろしい可能性も、きっと考えただろう。


「でも……戦争が終わっても、すぐに帰ってこられるわけじゃないのね」


私がぽつりと呟くと、アレスは小さく頷いた。


「そうだな。遺体を回収したり、撤退の準備をしたり、最低限の治安の整備もある。皇国の地が戦場になった以上……残されたものをどう扱うかにも、責任があるんだろう」


「……そうよね。亡くなった人も、怪我を負った人も……きっと、たくさんいるわ」


戦争が終わったというだけで、全てが平和になるわけじゃない。

この国が喜びに湧くその影で、誰かは涙を流している。


失われた命は、もう戻らない。


だけど。


「──まあ、今はさ。ディルが無事に帰ってくるってことを、素直に喜ぼうぜ」


アレスのその言葉に、私はふっと微笑んだ。


「……うん、そうだね」


胸の奥にまだしんと冷たい影はあるけれど、

それでも今は、父の無事を喜ぶ気持ちを、まっすぐに抱きしめたいと思った。


この手紙の、どこか走り書きのような文字。

あの完璧な人が急いで綴ったという事実が、何よりの証明だった。


──お父様が貴方が帰ってくる、それだけで……私は、十分に幸せだ。


アレスが「じゃあ、俺、戻るわ」と軽く手を振って扉に向かおうとしたときだった。


「……アレス!」


思わず私は彼の名を呼んでいた。


その声には、自分でも気づかないほどの強い衝動がこもっていたのかもしれない。足を止めたアレスが、驚いたように振り返る。私はちらりとレッドに視線を向けた。レッドは無言で頷き、気配を殺すようにして静かに部屋を出て行った。


アレスが、再び私の方へと歩み寄る。


「どうした?」


その声はいつもと変わらない、優しくて、私の気持ちを急かさないものだった。


なのに──


私は、アレスを呼び止めておきながら、言葉が出てこなかった。胸の奥に渦巻く思いだけが熱を持って高鳴っていく。


「……ステラ?」


アレスが不安げに、私の顔を覗き込んだ。


そのときだった。


私は、衝動のままに──自分の唇を、アレスの唇に重ねた。


ふわりと触れ合った唇。息を呑む音が耳に届く。アレスの肩が一瞬だけ強張るのがわかった。


けれど彼は、私を突き放すことはしなかった。ただ、戸惑いながらも優しく私の肩に手を添え、そっと受け止めてくれた。


やがて、そっと唇を離す。心臓の鼓動がうるさいほどに響いていた。


「……それで? 今のは、なに?」


その声は、あの夜──ベッドに押し倒されたときと同じ。少年ではない、男の声だった。


私は目を逸らしながら答える。


「ご、ごめん……」


「なんで謝るの?」


視線を上げられないまま、私は頬に手を当てた。火が点いたように熱い。もしかしたら、身体中がトマトのように赤くなっているんじゃないかと思うほどだった。


「……勝手にキスしちゃったから」


「いいよ。嬉しかったし。でも──それって、俺と恋愛するって意味で受け取ってもいいのか?」


アレスは私の手を取り、そっと指を絡めて握りしめた。そのぬくもりに、胸の奥がじんとした。


「……私、最近ずっとアレスのこと意識してて……。義理とはいえ、姉弟なんだし、姉としてしっかりしなきゃって思ってたんだけど……」


「でも、一度意識し始めたら、どんどんアレスが頭から離れなくなったの。前……キスしそうになったときも、してもよかったって思ってたくらいで……」


思いを言葉にするのは、こんなにも難しい。でも、伝えなきゃいけない気がした。


「お父様が帰ってくるってわかって、多分──私はまた、お父様ばかりになってしまうと思うの」


「だから、今のうちに……気持ちに答えを出さなきゃって思った。そしたら、言葉が出る前にキスしてて……。多分、私はアレスと人生を歩んでいきたいって、そう思ってるんだと思う」


胸の内に渦巻く思いを、私は不器用に、でも必死に伝えた。


アレスは黙って私の言葉を聞いてくれていた。


そして、静かに問いかける。


「……それって、ステラも俺のこと、好きってこと?」


私はふるふると首を横に振った。


「それは……言いたくない」


「えっ? なんで?」


「だって、アレスに“好き”って言われたことないもん……」


「はぁっ!?」


今度はアレスの方が赤面して、目をぱちくりさせながら慌てふためいた。頭を抱えて何かを考えるようにぐるぐると思案し──ふと、ぽつりと漏らした。


「……確かに言ってないかも……」


「ほら、やっぱり!」


「違う違う違う!それは……ディルに許可取ってから言おうと思ってたんだよ!」


その言葉に、私は小さく笑ってしまった。


アレスなりの誠意だったのだろう。お父様に、きちんと筋を通そうとしてくれていた。それがなんだか微笑ましくて、愛おしかった。


でも、今はそんなことどうでもよかった。


「じゃあ、言わないの? もうキスはしちゃったのに……?」


私は、ほんの少しだけ意地悪に、上目遣いで強請るように言ってみせた。


すると、アレスは照れくさそうに笑いながらも、そっと私の頬に触れた。その手の温もりが、全身に伝わってくる。


そして、黄金の瞳が真っ直ぐに私を見つめ──


「……ステラ、好きだ」


真っ赤に染まった耳と、真剣なその表情のギャップが、たまらなく可愛くて、愛おしくて。


「うん、私も好きよ」


ようやく、素直に認められた気がした。


あのとき、キスをして欲しいと願った瞬間に、私はもうとっくに恋に落ちていたんだ。

血の繋がりもなく、姉弟という名ばかりの関係に縛られて、私は男女としての未来を恐れていた。

でも、アレスなら。アレスとなら。

きっと私は、幸せになれる。アレスを、幸せにしたいと思っている。


……いや、もうすでに、アレスといるだけで、私は十分すぎるほど幸せだ。


「ねえ、アレス……」


「なんだ?」


「私たち、まだ十四歳でしょ?だから……大人な関係にはなれないから。我慢してね」


その一言で、アレスの顔が爆発しそうなくらい真っ赤に染まった。


「ば、ばか!!そんなの、するつもりねぇよ……!俺は、お前のこと……ちゃんと大切にしたいんだ……!」


耳まで真っ赤になりながら、うつむくアレスの姿が、もう、どうしようもなく愛しかった。


思わず「かわいい」と言いたくなったけれど──それは、きっと今のアレスに言ったら怒られてしまう気がして。


私はその言葉を、そっと胸の中にしまった。


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