第四十二話 想われる人生
部屋の一角には、すでに召喚していたヴァルが鎮座している。大きなその体のせいで、いつもの広さが嘘のように感じる。
私は布団に包まったまま、ごろんと寝返りを打った。
「ねえ、ヴァル……私ってもしかして、精神年齢、成長してないよね……?」
『……わざわざ私を呼び出して、それを聞くのか』
呆れたような声が、頭に響いてきた。
「うん。だって、最近思うの。アレスはぐんと大人になったなって」
布団の中から顔だけ覗かせ、私はぽつりと続ける。
「十三歳って、もっと子供だと思ってたのに……あんなことやそんなこともできるなんて……」
『……そんなの私に言ってどうする』
「そりゃそうだけど……じゃあ、お母様はどうだったの?今の私と比べて、もっと大人だった?」
ヴァルはふっと視線を宙に漂わせた。その仕草はまるで、懐かしい記憶を引っ張り出すかのよう。
『セレーナは───子どもだったよ。お前よりも、ずっと』
「……え?」
予想していた答えとあまりに違っていて、私は布団から顔を出し、ヴァルを見つめた。
「けど、お父様の話すお母様は、まるで聖女みたいで、慈悲深くて、何もかもを受け入れてくれる女神様のようだったわよ」
『そういう側面もあったが……あれは、弱さを隠していたに過ぎない』
「……子供だったのに?」
『子供だったからこそ、そうするしかなかったのだろうな。あいつは、泣くのが下手だった』
その一言に、胸の奥がちくりと痛んだ。
私はゆっくりと視線を落とし、無意識に膝を抱えるようにして布団を引き寄せた。
「……私は、お母様とは違うけど……」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しいものだった。
「前世の記憶があるからって、大人だと思ってただけで……今は何だか、成長しないままな気がして」
視線の先にあるのは、子供にしては大きく、大人にしては小さな自分の手。
中身だけが時間に置いていかれているようで、虚しさが胸に溜まっていく。
すると、ヴァルの低く淡々とした声が、響く。
『子供っぽいとは思わない。知識が乏しいだけだ。生殖行為の』
「──ハッキリ言わないでよっ!!」
思わず振り返って叫んだ私の声が部屋に反響する。
顔が一気に熱くなって、枕を手に取りヴァルの方にぶんぶん振りかざした。
「そういうのって、もっとこう……自然に、流れで学ぶものでしょう!? 雰囲気とか、タイミングとか……!」
頬を真っ赤にしながら叫ぶ私に、ヴァルはまったく悪びれた様子もなく平然と続ける。
『セレーナは二学年に上がった直後、興味津々で知識を詰め込み、私にも説明してきたぞ』
「えっ……お母様って、そういう話に抵抗ないタイプだったの……?」
思わず、呆然とした声が漏れる。
「子どもっぽかったのに……」
とてもそんな話をしている姿が想像できない。
『子どもだからこその好奇心だろう……』
ヴァルの声は淡々としていたが、わずかに懐かしむような響きが混じっていた気がした。
頭を抱える私の前に、ちょうどタイミング悪く──いや、良く──扉がノックされた。
「失礼いたします、お嬢様。レッドが参りました」
「……どうぞ」
扉が開き、初めてヴァルを見たはずの彼女は表情は変えず、どこかの儀式のように静かに一礼する。
「体調はいかがでしょうか?様子を見に参りました」
「うん、ありがとう。もう全然大丈夫だよ」
「それは良かったです」
ヴァルを見たレッドは、一瞬視線を止めたものの、表情に動きはない。
「お初にお目にかかります。ヴァルツォリオ殿お話には聞いておりました」
『……貴様が、魔眼契約の魔族か』
二人の間には、互いに干渉する気配はない。けれど、私を主とする同じ立場だからか、敵対心もない。
だけど、ヴァルは私にある提案をしてきた。
『ステラ、この魔族に魔眼の使い方を教われ』
「え?酔っちゃうけど使えるよ」
『違う、ノーマルな使い方ではなく万能に使えるように練習しろと言っている」
ヴァルは表情こそ変えなかったが、その瞳はどこか誇らしげに光った気がした。
「鍛錬をご希望でございますか?」
「まぁ、そうね。魔眼をせっかく貰ったのに使っていなかった方が不自然よね。鍛えれば、相当な力を手にできるのでしょう?」
「可能です。ただ、やはり視界に酔いやすく、酷いと記憶が混濁する危険性もございます」
「ええ、でも……少しずつでも慣れていくしかないと思うの。これから、私だけじゃなくアレスやお父様の役に立つかもしれないものね」
「……かしこまりました。ステラ様がご希望であれば、可能な限りの指導を行います」
少しだけ──ほんの少しだけ、レッドの目が細くなったように見えた。それは、彼女なりの嬉しさだったのかもしれない。
◇◇◇
「ああ、これが魔力の跡ね。くっきり見えるわ……この色の筋を辿っていけば、アレスに辿り着けるのね」
「さようでございます」
レッドが静かに答える。
魔眼の特訓を始めてから、早くも三ヶ月が経っていた。私もアレスも誕生日を迎え、十四歳になった。
魔眼は最初こそ視界がぐらぐらと揺れ、酔って倒れてしまうこともあったけれど……今はもう大丈夫。
ようやく、まともに訓練できるようになったのだ。
今日は、「魔力の痕跡を辿って対象の居場所を探る」応用の練習。
人が歩いた後にふわりと残る、淡く揺らめく色彩の軌跡──それを目で追うことで、今どこにいるのかを視認するものだった。
私がヴァルと契約した夜、レッドはこれで私を探したらしい。
アレスの魔力は、彼の髪よりも少し深みを帯びたブルー。
その色は、まるで水面に落ちる月光のように淡く美しかった。
視界に映るその痕跡は、最初は霞がかった靄のようだったけれど、徐々に距離を詰めるごとに色が濃くなり、一本の細い糸のように形を成していった。
まるで導かれるように、その先をじっと見つめていると──
「ステラ?」
聞き慣れた声が届く。線の先に目を向けると、そこにはアレスが立っていた。
優しげな眼差しで、私を見ている。
「魔眼の特訓か?また酔ってぶっ倒れるなよ」
くすぐったいような声音でそう言いながら、アレスは迷いなく私に近づき、私の頭をゴシゴシと撫で回した。
その手のひらの感触が、髪をかき乱すたびに、胸の奥で小さな鐘が鳴る。
「ちょっと、髪ぐちゃぐちゃになっちゃうわ」
「悪い悪い」
軽く笑うアレスに、反射的に文句を言ったものの──私の頬がほんのり熱を帯びているのを自分でも感じていた。
わかってる。
私、あの日から──アレスを意識しすぎている。
ただ触れられただけで、心臓が跳ねるようになった。
アレスは、そんな私の変化に気づいているのかいないのか、にやりと満足そうに口角を上げて見せた。
「お嬢様、アレス様の“感情の色”は見えますか?」
レッドの問いかけに、私はふと我に返った。
魔眼の応用訓練の一つ──相手の“感情”を魔力の色から読み取る、というもの。
「ええ。ちょっと魔力を足してみるね……」
左眼に意識を集中させ、魔力をじわりと魔眼に込める。
すると──アレスを形取るように、その身体の輪郭に沿って、色が浮かび上がった。
「……黄色と、少し紫だわ」
「黄色は“喜び”、紫は“色欲”を示します」
レッドが平然とした表情で、無機質な口調で、しかしとても重大なことを口にした。
──空気が、止まった。
何も考えられない。私も、アレスも、ただその言葉の重みに呆然としていた。
「「はぁ!?!?」」
二人同時に声を上げた。驚愕と困惑の混じった叫び声が、訓練場の空気を震わせる。
「アレス!!な、な、何考えてるのよっ!?!?」
「知らねぇよ!!勝手に見るな!!感情なんて自分でコントロールできないだろ……!」
「そ、それでもっ……!!」
私は思わず両手で頬を押さえる。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
(アレスが……私に“そういう”感情を……!?)
(そ、そうよね、だって……『結婚したい』って、そういう意味も含まれてるのよね!?)
胸の奥で、何かが爆ぜるような音がした。
その空気を切るように、淡々とレッドが続けた。
「今回は、少しの紫でございますし、男性としては健全です。それに、相手がアレス様ですから問題はありませんが──紫が半分以上を占める場合、対象の男性は“危険”と判断してください」
「……危険、ってつまり……」
「感情が理性を凌駕し、衝動を抑えきれない状態です」
静かに、しかし重い一言。
「それって、つまり──女性に対して、無理やりにでも……そういうことを?」
「その可能性が高くなります。女性というのは常に“狙われる存在”です。
少しでも様子がおかしいと思えば、周囲の目や礼儀よりも優先して、魔眼で感情を読み取ってください。
見た目に騙されてはいけません」
その瞬間、アレスが静かに口を開いた。
「……ステラ。来年から、俺たちは社交界に出るだろ?」
「ええ」
私が頷くと、アレスの瞳にいつもの柔らかな光はなく、代わりに真剣な色が宿っていた。
「お前みたいに物怖じしない子を、面白半分で手に入れようとする奴は、必ずいる。
唯一の公爵令嬢って立場に目をつけて、“既成事実”を作ろうとするような、汚いやつらが……」
そこで、彼の言葉がふいに止まる。
喉仏が小さく上下し、言い淀むように唇がかすかに動いた。
「──ステラは……綺麗だから。だから、狙われやすい」
ぽつりと落とされたその声は、とても静かで──けれど、確かに強い意志と温かさを含んでいた。
「左様でございますね」
珍しく、レッドまでもが深く頷いた。普段の機械的な仕草とは違う。そこには、少女を案じるひたむきな感情が見え隠れしていた。
私は静かにまばたきした。
心の奥に、あたたかな何かが広がっていくのを感じていた。
──前の人生、社交界に出ていた頃、こんなふうに心配してくれる人はいなかった。
誰も私を守ろうとはしてくれなかった。
愛を知らず、地味に、影のように生きていた私には、そういう縁すらなかった。
婚約者だった皇太子でさえも、私を守るどころか……最後には手を離した。
だからこそ、今のアレスの言葉が、胸にまっすぐ届く。
「ステラは、綺麗だ」
その一言に込められた彼の思いが、私の小さな自信をそっと支えてくれた気がして──
気づけば、視界がほんの少し滲んでいた。
その時だった。
パサリ、と風を切る羽音が響いた。
「──え?」
目の前に舞い降りたのは、見慣れた黒い鳥。
艶のある羽と鋭い瞳。お父様の魔造で出来た鳥だった。
そして、ふわりの手紙が降り注ぐ。
「お、お父様だわ!!」
ステラが声を上げた瞬間、アレスも隣で目を見開く。
「ディルの手紙か!?」
いつもは一週間に一度──夜にしか届かないはずの、父ディルからの手紙。
最後に受け取ったのは、まだ四日前だった。
しかも、今は──昼間。
胸がざわつく。
まさか、何かあったの……?
レッドとアレスが見守る中、私は必死にその手紙を読み進める。
──そして、最後の一文まで目を通した瞬間。
「……っ」
ふ、と力が抜けたように膝から崩れ落ち、そのまま床にぺたんと座り込んでしまった。
手紙を握る手が震えている。
胸の奥がぎゅっと締めつけられて、声が出ない。
けれど、溢れ出すものだけは、止められなかった。
ぽろぽろと──こぼれるように、涙が頬をつたう。
「ステラ……!? おい、大丈夫か!?」
アレスが慌てて駆け寄ってきた。
肩を掴まれ、顔を覗き込まれているのに、私はただ、涙を流すことしかできなかった。
「────くる……」
「え?」
「……お父様……帰ってくるの……!」