第四十一話 衝動を抑えろ
「帝国が新たな軍を送ってきました。その数、一万五千程度かと……」
「そうか。なら、俺も行こう」
「隊長は少し休まれてください!!」
魔法騎士団の隊員が俺を止めた。
だが、俺が休んだって仕方がない。
「ここにいても、気が休まらない」
この戦争を、少しでも早く終わらせたい。
ステラに、一秒でも早く会いたい。
そしてなにより、体の疲れよりも、精神の疲れの方がはるかに重い。
(慣れているはずなのに……)
俺は、いつまで人を殺し続けなければならない?
あと何人、剣で斬り裂き、何人の心臓を魔法で止めれば、終わる?
顔も、声も、名前も知らない者たちを、俺はただ“敵”として殺す。
俺が休んでいる間にも、仲間はどんどん死んでいく。
休んでいる方が、疲れる。
いっそ、自分の持てる全ての力を解放してしまいたい。
圧倒的な魔力で、戦場ごと敵を消し飛ばしてしまえば、終わるのかもしれない。
だが──そんなことをすれば、自国にも甚大な被害が出る。
味方の兵は、確実に死ぬ。
そんな“勝利”は、ステラに見せられない。
ふと、風が頬を撫でた。
その瞬間、小さな風の魔法鳥が俺の前に現れる。
掌にとまると、くるりと首を傾げ、手紙を置いたあと、ふっと消えた。
何度見ても、ステラが生み出したあの魔法鳥の儚さには救われる。
俺はすぐに封を切った。
手紙の文字は、ステラの癖がそのままに滲んでいる。
今日は“魔法対決祭”だったらしい──ああ、そんな季節か。
(魔法学校……ちゃんと馴染めているのか)
微笑ましく思いながら、手紙の最後に、いつもとは違う、妙にしっとりとした言葉が並んでいた。
“ お父様、私はお父様を世界で一番敬愛しています。
私のことをお父様が世界で一番愛してくれていることも知っています。
お父様が私を想うように、私もお父様を想っています。
お父様が私のためにやってくれたことは受け入れるから。
どうか、私がお父様のためにしたことを受け入れてください。
我儘な娘で申し訳ございません。
早く会いたい。 ステラ “
……なんだか、いつもと様子が違う気がした。
“何か”を覚悟したような文面。
俺が気づいていない“何か”を、ステラはしているのか。
胸がざわつく。
その不安を抑え込むのが、とても、辛い。
今すぐ帰りたい──けれど、そんなわけにはいかない。
帰るために、俺はここにいるのだから。
「隊長……?」
「はぁ……すぐにいく」
立ち上がる足に力が入らない。
けれど、剣を持てば、体が勝手に動く。
戦わなければ、ステラのためにならない。
衝動で動くな。
怒りで燃えるな。
悲しみに負けるな。
勝て。
必ず勝て。
勝って、生きて、ステラの元に戻るんだ。
自分にそう言い聞かせて、俺は剣を取る。
その日の戦いは、より一層、俺を濁らせた。
血で染まった空の下で、俺はいつもより多くの命を奪った。
すぐに帰るから。
もう少しだけ、待っててくれ。ステラ。
◇◇◇
「目、ちゃんと閉じてろよ」
「うん……」
私の部屋。ベッドの上に並んで座り、アレスの声に従ってぎゅっと目を閉じた。
魔力不足になった私は、ヴァルを紋へと戻した直後にひどい目眩に襲われ、立つことすらできなくなっていた。
そして今、アレスが、私に魔力を分けてくれようとしている。
アレスの手が、そっと私の頬を包む。
その手のひらは大きくて、あたたかくて、安心する匂いがした。
そして、彼の額がゆっくりと私の額に触れる。
静かな呼吸がすぐ近くで重なった。
(おでこ……あったかい……)
じんわりと、体の芯にまで熱が伝わってくる。
さっきまでフラついていた身体が、少しずつ楽になっていくのがわかった。
魔力が、静かに、やさしく私の中へ流れ込んでくる。
……ドクン。
鼓動が強くなった。
こんなふうに魔力をもらうなんて、滅多にないことだ。
それに、こんなに近くでアレスの顔を感じることも……。
変に意識してしまって、心臓の音がどんどん大きくなる。
(なんで……目、閉じろって言ったんだろう)
疑問に思って、ほんの少しだけ、ゆっくりとまぶたを開けてみた。
そして──アレスと、ばっちり目が合った。
(……あ、そういうこと)
ドクン、と胸が跳ねた。
距離が近すぎる。
視線をそらすこともできないほど、すぐそこにアレスの顔がある。
あと数センチ……ほんの少し顔を傾ければ──キス、してしまいそうな距離。
彼は、きっと最初からわかっていたんだ。
この体勢になれば、どういう雰囲気になるか。
顔が一気に熱を帯びる。
頬が、耳が、心臓までもが、火照って仕方なかった。
「──はい、おわり」
アレスはすっと額を離した。
「あ……ありがとう……」
「……ああ。また辛かったら、言ってな」
「……うん」
急に気まずくなる空気。
会話はぎこちなくて、続かない。
沈黙が部屋に満ちて、余計に胸が高鳴る。
アレスが立ち上がる気配がした。
「じゃあ、俺行くわ。明日は学校休んどく? ステラが休むなら俺も──」
その言葉の途中、私はもう聞いていなかった。
気づけば、立ち上がったアレスの肩に手を添え、一生懸命背伸びして──。
彼の頬に、そっと唇を押し当てていた。
「──お、お礼のキス……?」
小さくつぶやくと、次の瞬間には視界がひっくり返った。
私の背中がベッドに沈み、天蓋を背景にアレスの真剣な瞳。
手は強く、けれど丁寧に私の手を絡めとり、ベッドへ縫い止めるように押さえられていた。
「……俺のこと、弄んでる?」
熱を帯びた声。
顔が近い。
アレスのアイスブルーの髪がふわりと顔に触れた。
(キス……される?)
わからない。
でも、どこかで期待している自分がいる。
逃げもせず、目を閉じた。
唇が触れそうな距離。
でも、なかなか触れてこない。
焦らすように、その距離のまま。
鼓動が痛いほど響き渡る。
きっとアレスにも伝わってしまっている。
「……止めないの?」
少し低く、震えを帯びた声。
思わず目を開く。
アレスの手が、緩んだ。
そのまま、彼の体は私から離れていく。
静かなため息が、部屋に落ちる。
そして──彼は片手で赤く染まった自分の顔を覆った。
「……なんで、止めないかな。危機感なさすぎる」
呆れたような、けれどどこか必死な声だった。
「え……だって──」
「だって、じゃない。俺じゃなかったら、どうすんだよ」
「それは──」
「いや、俺が相手でも……キスしたとして、止まれなかったらどうするんだよ」
真剣な目が、私を射抜く。
少しだけ揺れて、苦しそうで──それでも真っ直ぐだった。
「不本意だけど、ステラを傷付けるかもしれないんだぞ」
「でも……アレスは、そんなことしないでしょ……?」
言った瞬間、アレスの表情がわずかに歪んだ。
「…………俺だって、男なんだよ」
ぽつりと落ちた言葉が、部屋の空気を一変させた。
アレスの声は低く、かすかに震えていた。
抑えていたものが、限界まで来て、ようやく零れたような、そんな響きだった。
私は返す言葉を見失ったまま、ただ彼の横顔を見つめるしかできなかった。
静まり返った空間の中、アレスはゆっくりと手を引き、自分の額を指先で押さえた。
そして、軽く首を振る。
「……お前は気づいてないんだろうな」
独り言のような呟きだった。
「無防備で、俺を信じてくれてるのは、すごく嬉しい。でも……」
そこで言葉を切り、彼はふっと笑った。けれど、それはとても寂しげな笑みだった。
「……本当に、ギリギリなんだよ。毎回、限界なんだよ、俺」
アレスが私の方を見た。瞳がまっすぐに私を捉えて、逃げ場がなくなる。
「……十三歳じゃ、そんな大人みたいなことできないんじゃないの……?」
私の問いは、わずかに震えていた。
彼の言葉に心が追いつかない。
だけど、そう聞かずにはいられなかった。
アレスは、視線を逸らすことなく答えた。
「できるよ。……好きな子がいれば、したくなる衝動は大きいし、止めるのはめちゃくちゃ大変だ」
少し笑ったけれど、それは自嘲だった。
「……それに、俺たち、もうすぐ十四になる。ステラの母親──公爵夫人だって、十五でステラを身ごもったって聞いた」
一拍、間があり彼は言葉を続けた。
「さすがに……その意味がわからないほど、ステラは子供じゃないだろ?」