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第四話 アレス②



アレスが迷い込んできた日の夜。

私はベッドの中で、今日あった出来事をぼんやりと思い返していた。


あのあと、アレスはなんとかライミーを持ってきたマチルダたちに気づかれずに過ごしていた。

まるで影のように自然に部屋の片隅に溶け込み、食べ終わると「行くところがあるから」と、窓から颯爽と姿を消してしまった。


「また会いに来る」

彼はそう言っていたけれど、あまりにも非現実的で、どこか夢のような時間だった。


(……本当に、現実だったのかしら)


ひとり静かな部屋の中で、私はふわりとため息を吐いた。

薄明かりのランプが天蓋のレースをやわらかく照らしていて、その下で私はしっかりと布団に包まれている。マチルダとアリネが丁寧にかけてくれたぬくもりの名残が、心地よく身体を包み込んでいた。


(眠くなってきたわ……さすが子どもの身体ね。八時前にはもう、まぶたがこんなに重いなんて)


そっと目を閉じる。小さく息を整えながら、ゆっくりと夢の淵へと沈もうとした、その時だった。


──バンッ!


突如、部屋の扉が激しい音を立てて開かれた。

私は反射的に飛び起き、驚きに心臓が跳ねる。


「お、お父様!? おかえりなさい……どうされたのですか?」


そこに立っていたのは、お父様だった。

外から帰ってきたばかりの姿。マントすら脱いでおらず、肩に降りたままの雨粒がほんのり光を弾いていた。

表情は険しく、どこか焦りの色すら浮かんでいる。


(……私を見ていない?)


その鋭い視線は私ではなく、部屋の隅々を見渡していた。

やがてお父様は無言のまま窓辺へと歩み寄り、勢いよく窓を開け放った。夜の冷たい風が室内に流れ込み、レースのカーテンがはらりと揺れる。


「……くそ。かなり前だな」


低く押し殺すような声でそう呟いたお父様は、ようやくこちらに視線を戻した。

そしてゆっくりとベッドに近づき、私の隣に腰を下ろした。


「お父様……?」


私はそっと問いかける。


「ステラ。今日この部屋に、誰か来たな?」


その眼差しはまっすぐ私の瞳を射抜いた。

ごまかしも、軽い返答も通じないと直感する。

私はその真剣な表情に、嘘はつきたくないと思った。


沈黙が答えの代わりになる前に──


「黙りか……」


お父様は黒髪を無造作にかきあげ、少し顔をしかめた。

そして質問を変える。


「怒らない。だから教えてくれ。──アレス殿下が来ていたな?」

「……え? アレスって、皇子様なの?」


思わず、驚きで口に出してしまった。


(原作では、そんな名前の人物なんて一言も出てこなかった。それに、死に戻る前だって……)


自分の軽率な一言に気づいた時には遅く、お父様の表情が一層険しくなっていた。


「アレス・ヴィン・リンジー第二皇子殿下だ。理由があって身分を伏せられている。知らなくて当然だ」


「理由……?」

「──ああ。いつかわかる」


それ以上の説明を拒むように、視線を逸らして話を濁すお父様。

知りたくてたまらなかったけれど、ここで深く詮索すれば子どもらしさを疑われる。

私は喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。


「寝ていたところを、悪かったな」


そう言って立ち上がろうとしたお父様の顔が、いつもの優しい父親のものに戻る。

ほっとして、つい私は甘えてしまった。


「……お父様、ぎゅーってしてください」


小さな両手を差し出した。

けれど、お父様はぴたりと動きを止めた。


「……した」

「え?」


低く落とされた声に、何か不穏な空気を感じる。


「その腕は、どうした?」


(あ……)


私の左腕に巻いたハンカチ。傷を隠すためだけのつもりだった。


「なぜ、ハンカチで隠している」

「えっと……見た目がちょっと痛々しくて、嫌だったの」

「では、誰にやられた?」

「やられたなんて……転んだだけですわ」


それは、嘘じゃない。

あのときは本当に転んだだけだった。けれど──


なぜだろう。お父様の瞳に宿る怒りと哀しみが、胸に痛く刺さる。


「……ならなぜ、手当てしていない」

「痛みは、ほとんど……」

「アレス殿下だろう?」


私は目を見開いた。


(どうして、そんなふうに決めつけるの……)


「アレスは、そんな子じゃないと思います……」


私はぽつりとつぶやいた。

まるで否定されることが、自分の「初めての普通の子どもらしい時間」を否定されることのように感じてしまった。


「はぁ……ステラ。お前は本当の殿下を知らないから言えるんだ」

「では、本当のアレスとは、なんですの?」


一歩踏み込んで尋ねると、お父様は短く黙った。

その沈黙は、警告のようでもあり、迷いのようでもあった。


「……とにかく危険なんだ。次、殿下が来たら──離れろ」

「……お父様、私……今日は眠りたいです」


反発も、同意もできなかった。ただそれだけを告げる。


しばし沈黙のあと、お父様は小さく頷いた。


「……わかった」


少しだけ気まずい空気が流れる中、お父様は布団を丁寧にかけ直し、私の頭をそっと撫でて、額に優しく口づけを落とした。


あたたかなはずのその仕草が、どうしてだろう、少しだけ苦しかった。


(お父様がもしも……やり直し前の人生のことを知ったら、どんな顔をするのだろう)


胸の奥に溜まった、まだ言葉にできない想いが、子どもの私の中で膨らみすぎて行き場を失っていた。


私はただ静かに、涙を流しながら眠りに落ちた──。



◇◇◇



「はぁ……」


「ディル様、どうされました?」


ステラの部屋を出てから、俺はずっと黙々と書類に目を通していた。

ペンを動かしては止まり、ため息をついては椅子に寄りかかる。

そして、そんな俺の様子を察して声をかけてきたのは──側近のエミリオだった。


「別に」

「いや、無理がありますって……さっきから溜息、三十四回目ですよ」

「数えるな、気持ち悪い」

「へへ、失礼」


ヘラヘラと笑うエミリオは陽気な男だが、仕事においては恐ろしいほど正確で抜け目がない。

ステラと一緒に住むと決めてからは、俺の代わりに皇都と領地を行き来してくれていた。どんな無理な依頼でも黙ってやり遂げてしまうあたり、頼れる部下というより、もはや俺の右腕だ。


「実は……ステラがアレス殿下と会っていたらしい」

「えっ!? アレス殿下って、今まだ行方不明って話ですよね!?」

「……ああ。三日前からな。俺が昨夜、宮廷に呼び出されたのもその件だった。今も極秘に捜索が続いている」

「それで……ステラ様は無事だったんですか?」

「一応は、な。ただ──怪我をしていた。腕に巻かれたハンカチで隠していたが、見逃すわけがないのにな」


声に出した途端、胸の奥にずしりと重たいものがのしかかった。


「ただ、本人は殿下のせいではないと言っていた」

「そうですか」


俺は肩をガックリと落とし、椅子の背に頭をもたせかけた。


屋敷に戻った瞬間、アレス殿下特有の魔力の痕跡を感じ取ったのは確かだ。

だが──それでも、俺はやりすぎた。

ステラに詰め寄るようにして、あの子の言葉もろくに聞かず、あんな高圧的な態度を取ってしまった。


(……やっと、やっと少しずつ距離が近づいてきたというのに)


また怖がらせた。また嫌われたかもしれない。

そう思うたび、胃の奥がきゅっと締めつけられる。


「……はぁ……」

「それ、三十五回目です」

「……殴っていいか?」

「やめてください、僕、骨弱いんですから」


おどけたエミリオに呆れつつも、口元にわずかに笑みが浮かぶのを感じた。

まったくこいつは──人の深刻な悩みをどうしてこんなにも軽く受け止められるんだ。


「でも、なんか安心しましたよ」

「何がだ?」

「ディル様が、ちゃんと“父親”してるってことです」

「……俺は父親なんかじゃない。六年も──六年もあの子をひとりにした。そんな人間が、今さら父親づらなんて……」

「それでも、ステラ様はディル様のことを見てる。ちゃんと、向き合おうとしてる。……じゃなきゃ、あんなにまっすぐな瞳、しませんよ」


しんと静まり返った執務室に、エミリオの言葉だけが、優しく響いた。


(……そう、なのか?)


自信はなかった。

だが、心の奥で、ステラに抱きしめられたときのあたたかさが蘇ってきた。


俺の家族は──もう、皆いない。


弟は幼い頃に病に倒れ、両親は旅の途中で崖から馬車が転落し、その命を失った。

そして──最愛の妻セレーナは、俺と結ばれたがために、命を落とした。


あの日のことを、俺は今でも夢に見る。

セレーナの細い腕、冷たくなっていく手。

その腕の中に抱かれた小さすぎる命──ステラ。セレーナによく似た、その子を見て、俺は震えた。


怖かった。

愛する者を再び失うのが。


だから、ステラを遠ざけた。

領地に預けて、会わずに六年を過ごした。


「……今なら、少しわかる気がするんだ」

「え?」

「世界中の“女の子の父親”が、娘に翻弄されながら、それでも愛してやまない気持ちが」

「やっぱり心配なんですか?」

「ああ。可愛すぎて、目を離すのが怖い。なのに──また傷つけるんじゃないかって、嫌われるんじゃないかって……」

「いやもう、それ、立派な“親バカ”ですよ」


エミリオはくしゃりと笑って、書類を一枚差し出した。


「ほら、仕事終わらせましょ。明日、ステラ様と何を話すか──考えながらでも、手は動かせますよ」


「……ふ。そうだな」


まったく、頼りになる部下を持ったものだ。


その夜、俺は書類の山に埋もれながら、何度も何度も、朝になったらステラに何を話そうかと頭を悩ませ続けた。


そして──朝が来るまで、眠ることはなかった。


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