第三十六話 兄弟対決⑤
競技場を後にしたあと、裏の控え室から出てくるアイスブルーの髪が輝いているのを見つけた。
「──アレス!!!!」
無意識に声が出た。
けれど、彼は俺に背を向けたまま、足を止めようともしない。
当たり前だ。かつての俺は、アレスを裏切ったも同然。
信じて待ってくれていた心を、無惨に踏みにじって、孤独だった彼の世界を滅茶苦茶にしてしまった。
「……悪かった!!謝っても許されることじゃない。でも、俺は……ずっと、ずっとアレスのことが大切だった!!」
返ってくるはずのない返事に覚悟を決めて、叫んだ。
素直になれないとか、子供じみた言い訳はもうしない。
だが──沈黙のまま背を向け続ける彼の気を引こうと、結局小さな子供みたいなことを言ってしまう。
「──ステラ!! 俺、好きかもしれない!!」
瞬間。
アレスの足がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る彼の顔は、今も昔も変わらず感情が読みづらかったが──その声には、明確な殺意が宿っていた。
「……はぁ?」
怒りを滲ませながら、アレスは無言でずかずかと歩いてきた。
その金の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
(……やはり、ステラに関しては無視できないか)
「絶対、お前なんかに……ステラはやらねぇよ」
「ははっ。口悪くなったな。昔は俺の真似でもしてんのかと思っていたけど、昔の俺なんかより、ずっと悪い」
「真似なんかしてねぇよ」
そっけなく言い捨てるようにして、アレスはわずかに顔を背けた。
その時、彼の視線がふと俺の右手に落ちた。
「……手。怪我してる」
「ん?」
指摘されて見下ろすと、戦闘中に受けた火傷が、右手の甲に赤く残っていた。
「ああ、このくらい大したことないよ。すぐ治る」
気にする素振りもなくそう言ったが、アレスは一歩踏み出し、俺の手をそっと取った。
そして、何も言わずに、そっと左手をその上に重ねる。
──冷たい。
氷のような水の膜が火傷の患部に広がっていき、まるで手の甲に貼りついたように落ちてこない。
不思議なその魔法は、アレスが昔から使っていた癒しの水魔法だった。
「……加減できなかった俺のせいだから」
その声は小さく、どこか照れているようだった。
けれど目は合わせてくれない。
(変わらないな、アレスは……)
どれだけ背が伸びて、どれだけ口が悪くなっても、
その根っこの優しさだけは、昔のままだった。
「アレスは変わらないな……俺と違って、ずっと優しいよ」
「は?頭でも打ったのか?」
「そんなんじゃない……俺はな、ずっとアレスのことを大切な弟だと思ってたんだよ」
アレスの手がぴくりと震えた。
そして、もう片方の拳をぎゅっと握りしめる。
「……でも、結局、会いにこなかったくせに」
「そう思われても仕方ない。言い訳もできない。でも……アレスがどう思おうと、俺の中では、ずっと、アレスは弟だった」
心の奥からしぼり出した言葉だった。
それでも許されないことだとわかっている。あの時間を手放したのは、俺自身だ。
それでも──
「母上がまだ……君を襲おうとしているのも、知ってる。だからこれからは、俺が責任を持って止める。いや──皇后の座から引き摺り下ろす」
「……やっぱ本当に、頭おかしくなったんじゃねぇの?」
アレスの目が鋭くなる。
それでも、俺は静かに彼を見つめ返した。
勝算はある。でも、勝っても……その時、俺という存在は、皇室から完全に消えるだろう。
「……もし、それができたら──もう一度だけでいい。俺を……“兄上”と呼んでくれるか?」
自分でも声が小さくなっていくのが分かった。
今更何を言ってるんだ、って思う。こんな情けないこと、言いたくなかった。
「……呼ばねぇよ」
アレスは真っ直ぐにそう言った。
──当然だ。
俺は自分の過ちを、自分の手で切り離してしまったんだから。
「もう俺は、小さいままじゃない。だから──」
アレスが静かに続けた。
「……マティアスって、言える」
顔を伏せたままの彼の表情は見えなかった。
でもその声は、すごく小さくて絞り出したかのような声だった。
許せない過去を抱えながらも、それでも一歩だけ──俺の方へ歩み寄ろうとしてくれた気がした。
「でも……ステラに、あんまちょっかいかけるなよ」
「……え?」
「……あいつ、無意識に変なこと言うけど、他意はないんだ。勘違いすんな」
「……あ〜、なんとなくだがわかる気がする。確かに、誤解しそうになるな。それでアレスは──恋しちゃったわけだ」
少しからかいを混ぜた俺の言葉に
「そんなんじゃねぇよ」
──そう返ってくると思っていた。
けれど、アレスの口から出たのは、はっきりとした、男の声だった。
「……悪いかよ。そこだけじゃねぇけどな」
その言葉に、何も言い返せなかった。
今なら、分かる。
フレッドがステラに惹かれた理由も。
アレスが、彼女を好きな理由も。
だって──
「じゃあ、また兄弟で対決だな。今度は闘いじゃなく、恋愛で。かな」
アレスは眉をひそめたまま、それでも言い返さず、じっと俺を睨み返した。
その瞳の奥には、消えない炎が宿っていた。
そして俺もまた、それを嬉しく思う自分に気づいていた──。




