第三十五話 兄弟対決④
塔へ通うようになって二年が経った頃。
その日も変わらず、アレスは嬉しそうに俺を出迎えてくれた。
──けれど、俺の心はもう穏やかではいられなかった。
「アレスには魔法の才がある。マティアスより魔法国家のこの国ではアレスが皇帝に向いている」
「ジアーナがいるから、そんなことは出来ないがな」
ふと耳にした、父上の言葉。
重く、鮮やかに、胸の奥に焼き付いた。
(アレスが……俺の代わりに?)
冗談ではない。
アレスに帝位を奪われたら──母上は、きっと俺を見放す。
その焦りが、日を追うごとに膨れ上がり、心の中で黒く育っていった。
今日も、アレスは無邪気に笑っていた。
「兄上?どうしたの?」
そっと俺に触れようとしたその手を──
「触んな」
思わず、思い切り振り払っていた。
アレスの表情が固まった。
透き通った瞳が、驚きに揺れた。
「……兄上?」
いつもと変わらない声。
けれど、俺はもうまっすぐに彼を見ることができなかった。
「……もう、こんな所には来ない」
「え?」
「聞こえただろ」
アレスが何かを言いかけたのを遮るように、俺は背を向けた。
(行かなければ、こんな気持ちにならなくて済む)
これは逃げだ。わかっている。
けれど、優しい顔で俺を見上げてくるその瞳に、もう耐えられなかった。
アレスを守ると誓ったあの日が皮肉にも今、俺自身を苦しめていた。
──アレスのもとへ通わなくなって、半年が経った。
あの日を境に、俺は何もかもから目を背けた。誓いを忘れたわけではない。ただ、それを果たすには、あまりにも俺は無力だった。
そんなある日、珍しく俺を訪ねてきた人物がいた。
アルジェラン公爵。父上とよく話している姿は見かけたが、俺と直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。
彼は部屋にいた使用人たちに退室を命じると、重たい空気をまとって口を開いた。
「マティアス殿下。アレス殿下に会っていましたね?」
その言葉に、胸の奥が一瞬凍りついた。最後にあの塔を訪れたのは半年も前。誰にも気づかれていないはずと思っていた。
黙ったままの俺をよそに、公爵は静かに続けた。
「この半年ほど、アレス殿下が魔力暴走を頻発するようになりましてね。私が呼び出されているのも、それが理由です」
「……それが、俺と何の関係が?」
「暫くは安定していたので、精神的なストレスの影響が大きいと見ています。マティアス殿下が来なくなった時期と一致しているのです。今も高熱で寝込んでおられますよ」
そう言うと、公爵はそれ以上何も言わず、背を向けて部屋を出ていった。
その背中は、問いかけているようだった。
──あとは、貴方自身で決めなさいと。
その夜、俺は決心していた。
謝ろう。たとえ今さらでも、アレスに。
人目を避けて塔の階段を上り、久しぶりに外壁の凹凸を伝って、窓に辿り着いた。
(……まだ鍵はかかってない)
ほっと胸をなでおろして中に入ると、そこにはかつてと同じ、いや、それ以上に荒れ果てた光景が広がっていた。
殺風景だった部屋は、今や破壊された家具や焦げ跡で無惨な姿を晒している。壁には何かで切り裂いたような跡があり、魔法で焼けたような痕跡もある。俺には、何が起きたのか全てを理解できない。ただ、アレスがどれほど苦しんでいたかだけは伝わってきた。
ベッドの隅には、シーツにくるまって横たわる小さな身体があった。
アレスは、苦しそうに息を切らし、額には汗。うなされながら眠っていた。
俺は、そっと彼の手に触れた。
「……あに、うえ……?ゆめ?」
かすかに目を開けたアレスが、弱々しくそう呟いた。
「夢じゃないよ、俺だ」
「……おれに、さわるの、いやじゃない……?」
その一言に、胸が締めつけられる。
俺に寄せて、一人称も、話し方さえも変えて。
元々の方が優しい話し方だったくせに、俺の真似をして……
そうしてまで、俺に近づこうとしていたアレス。
それなのに──。
「熱がある時、人に触れてると落ち着くだろ?」
「……そう、なの……?でも、たしかに……つめたくて、いいね……」
アレスはそう呟くと、安心したように目を閉じた。
小さな手が俺の指をぎゅっと握り返してきた。
──どうして、こんなに素直は弟を……。
後悔と罪悪感が波のように押し寄せる。
(これで、何が次期皇帝だ)
しばらくそのまま手を握り続けていたが、さすがに長くは居られない。
俺は静かに部屋を出て、再び外壁を伝って戻ろうとした。
だが──。
「そこにいるのは誰だ!!」
警備兵の怒号が夜気を裂いた。
遅すぎたくらいだ。見つかって当然だと思った。
でも、むしろ好機だとも感じた。
これを機に、両親に訴えよう。アレスを、塔から出すべきだと。正真正銘の皇子として、皇宮に迎え入れるべきだと。
真剣に頼めばきっとわかってくれる。
子供だった俺は、そう、信じて疑わなかった。
◇
───バチンッ!!
突然の痛みが、頬を走った。
母上の平手打ちだった。
「マティアス、何を言ってるの……!? あの女の子供に近づいたうえで、塔から出せと!? 馬鹿なこと言わないで!」
「でも……アレスも皇子です、俺と同じ……!」
負けたくなかった。引き下がるつもりなど微塵もなかった。だって俺は、アレスを守ると誓ったのだから。
「もうやめて、マティアス!!」
「嫌です!!」
けれど、母上は優しさなど持ち合わせていなかった。
「なら、殺さないと……」
「……え?」
「ずっと殺したいと思っていたの。でも皇族である限りは手を出せなかった……。あの女とそっくり、人を誑かす……今度は貴方まで唆すというのなら、もう仕方ないわ」
その目は、冷たい狂気に染まっていた。
「バレなければ、いいのよ」
俺は、その瞬間、気づいてしまった。
この人は──もう俺が愛されたいと願った母ではなかった。母の皮をかぶった、悪魔だ。
「……母上、そんな……アレスは……殺さないでください」
「だったら、わかってるわよね? あなたは物分かりのいい子でしょう?」
母上はニヤリと笑うと、俺を抱きしめた。
「………………はい」
悔しかった。泣きたくなるほど、情けなかった。
ただ、ここで逆らえば、アレスは本当に命を奪われてしまう。
だから、俺は引いた。頭を下げた。
その日を境に、塔の警備は一層厳しくなり、俺は二度とアレスに近づけなくなった。
──それから一年後。
アレスが脱走したという報せを耳にしたとき、心の底から思った。
(やっと、外に出られたんだな)
それだけで、胸がいっぱいだった。
そして──アルジェラン公爵家に引き取られたと知った時、俺はようやく、少しだけ安心した。
喜んで加筆いたします。
文脈の繋がりと心理描写を補強しつつ、読みやすさを意識して整えました。以下が改稿版です。
今度こそ、あの誓いが、アレスの自由へと繋がりますように──そう願って、俺は夜空を見上げた。
──そして、あれから八年。ついに、アレスと再会した。
フレッドが相変わらず女好きな調子で、新入生に声をかけていた。しかも、まだ入学したばかりの令嬢に──。
フレッドに跨られていた令嬢に手を伸ばした。
「フレッドが悪いな……顔色、悪いけど、大丈夫か?立てるか?」
だがその手は、ぴしゃりと叩かれた。
「……触んな」
冷たい声と、どこか聞き覚えのある響き。
そして彼女を庇うように立っていたのは、見間違えるはずもない──懐かしい、アイスブルーの髪に黄金の瞳の少年。
「…………お前、アレスか」
胸の奥が熱くなった。
もう二度と会えないと思っていた。
公爵家に引き取られたとしても、皇族に関わることを拒むだろうと思っていたから。
でも、こうして目の前にいる。
俺は、できるだけ平然を装って声をかけた。
「……ということは、君がアルジェラン公爵家のご令嬢。ステラ嬢か」
「はい。義弟の無礼、深くお詫び申し上げます。マティアス殿下」
丁寧に頭を下げる少女。
義弟──本当は、俺が兄なんだがな。
そんな幼稚な張り合いを浮かべていた俺に、アレスが目を向けた。
「そんなこと、しなくていい」
そう言って、ステラの顎に手を添え、顔を上げさせたアレスの目は、“弟”のものではなかった。
嫉妬を含んだその視線。守りたいというよりも、誰にも渡したくないというような……
(これは……ただの姉弟じゃないな)
その瞬間、俺の胸に芽生えたのは──妙な対抗心だった。
俺は気づかないふりをしていたが、たぶんステラに嫉妬していたんだ。
フレッドがステラに頻繁に会いに行くようになり、俺もよく顔を合わせるようになった。
「なあマティアス、ステラちゃんってなーんであんなに魅力的なんだろうな!?」
最初はフレッドがあまりにも気に入っているから、ただ気になっていただけだった。
けれどある日、偶然別棟の裏手で彼女と二人きりになった時、俺は思わず訊いてしまった。
「そういえば、アレスはどうした? いつも君のそばにいるはずだろう」
「……先生に研究の進捗報告をしに行くと言ってました。その隙に、ちょっとだけ目を盗んで逃げてきたんです」
「……逃げる?」
「いえ、違います。誤解しないでください。私たちは、普通に仲のいい姉弟です。ただ……彼が少し過保護すぎて。たまには、こうやって息抜きしないと息が詰まるので」
「なるほど……それは、弟が悪いな」
何気ない会話のつもりだった。
でも──“弟”。その一言には、無意識のうちに牽制の意図があったのかもしれない。
俺の弟だと、そう言いたかったのかもしれない。
すると、ステラはふっと笑って、俺を真っ直ぐに見つめた。
「いえ、お気になさらないでください。アレスは、私の弟ですから」
語尾に少しだけ力がこもっていた。
それはまるで、アレスは自分の大切な存在だと──誰にも渡さないと宣言しているようだった。
その時、初めてステラの”感情”を見た。
いつも人形のように完璧な微笑みしか浮かべない彼女が、嫉妬混じりの目で俺を見た。それに、安堵していた。
今思えば──
……大丈夫だ。アレスは、この子が幸せにしてくれる。
そう感じて、心が軽くなったんだろう。
俺なんかより、ずっと。
ステラはきっと、アレスのことを誰よりも理解して、大切にしてくれる女の子なんだと。
自分の感情に気がつけたのは、きっと俺がようやくアレスと向き合う覚悟を決めたからだ。
ありがとう、ステラ。
俺があの頃、叶えられなかった願いを──
アレスが、自由に笑える居場所を。
俺の弟が、幸せに生きられる未来を。
見つけてくれて。