第三十四話 兄弟対決 ③
自分に弟がいると知ったのは、たしか五歳くらいの頃だった。
きっかけは、母が家臣に怒鳴り散らしていたのを偶然聞いてしまった時だった。
「この国に皇子は一人だけよ!!!!マティアス一人!!!!あの子に弟なんていらない!!あの女の子供なんて、塔になんて置いておかず、早く殺しなさい!!!!」
怒り狂ったように机の上の銀食器を投げ飛ばし、花瓶が床に砕け散る音が響く。
カーテンは風に煽られて揺れていたが、それすらも母の怒声にかき消されてしまうほどだった。
母は──狂ったように暴れていた。
だが、五歳の俺は、それでも母が大好きだった。
きっと、小さな子供というのは、どれだけ冷たくされても、傷つけられても、「親である」というだけで無条件に愛してしまうものなのだ。
母が俺を好きなわけではなかったと、今ならわかる。
彼女は──皇太子である俺が好きだったのではない。
次期皇帝を産んだ、自分自身の存在が誇らしいだけだったのだ。
それでも、幼い俺はそんな母を守りたかった。喜ばせたかった。
だから……その夜、俺はこっそりと城の裏手にある古い塔へ向かった。
夜風は肌寒く、まだ自分の剣も満足に持てないような歳で、そっと忍び足で進んで行く。
塔の周囲は驚くほど警備が薄く、まるで「中に人などいない」とでも言いたげだった。
(そんなに悪いやつなら……母のために、俺がやっつけてやる!)
胸をドクドクと高鳴らせながら、俺は塔の外階段を駆け登っていく。足を滑らせそうになるたびに手すりにしがみつき、ようやく最上階の扉まで辿り着いた。
「……鍵が、かかってる」
真鍮の南京錠が重たそうにぶら下がっていて、子供の腕ではどうにもできない。どうにか開けようと鍵穴をつついてみるが、当然びくともしなかった。
諦めかけてふと横を向くと、少し斜め上の塔の窓が目に入った。
(……あそこに、誰かがいるのか?)
壁の凹凸に小さく足をかけ、慎重に窓のほうへ体を移動させていく。下を見れば、何十メートルもの高さ。足がすくんだ。
(あ……やばい、これ……落ちたら死ぬ……)
恐怖で手が震え出した、その時だった。
中のカーテンがふわりと開かれ、小さな顔がひょこりと覗いた。
アイスブルーの髪に、月光のように淡く輝く肌。俺より明らかに小さい子供だ。
(……あれが、おとうと?)
その子は窓に駆け寄ると、すぐに俺の状況を察したようで、必死に窓を開けようと鍵に手をかけた。
だが、中からも外からも開かない構造のようで、鍵穴をガチャガチャ鳴らす音だけが響く。
(だ、だめか……!)
俺が壁にしがみついたまま絶望しかけた瞬間──その子が窓に手を当て、目をぎゅっとつむった。
次の瞬間。
パリンッ!!
ガラスが一瞬で砕け、俺はようやく部屋の中に転がり込むことができた。
「……だ、だいじょうぶ?」
息を切らす俺に、心配そうに声をかけてきたその子は、満月のような金の瞳をしていた。
美しくて、そして……信じられないほど寂しげな目だった。
「なにかありましたか!?」
塔の下から、警備兵の声が響いた。バタバタと駆け上がってくる音が聞こえる。
(まずい!)
そう思った瞬間、小さなその手が俺の腕を掴んだ。
「こっち」
力強く引かれ、部屋の隅のカーテンの裏に引きずり込まれる。
「シー……っ」
唇に指を当てた弟は、声ひとつ立てずに息を潜める。
「何事ですか!?」
バンッと扉が開き、三人の兵士たちが部屋に雪崩れ込んできた。
「まどがあかなかったから……まほう使っちゃった」
アレスはそう言って、わざと子供らしく肩をすくめる。
「……暑かったから。おそとのくうき、すいたかったの」
兵士の顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。
「今度からは、我々を呼んでください。皇后陛下に言いつけられていますので」
「やだーっ!じぶんでやりたいのぉ!」
アレスは小さな両手をブンブンと振って駄々をこねる。必死だった。
「……いくらなんでも可哀想か」
「わかりました、皇帝陛下に相談しておきます」
「おいさん、ありがと」
そう言って小さな笑顔を見せるアレスを見て、俺はぼんやりと思った。
こんなにも可愛い弟が、どうして母にあれほど嫌われなければならないのか。
警備兵が、部屋の中のガラスを回収して出ていったあと、俺はカーテンからようやく出た。
「……あ、ああ。きみが、俺の……弟?」
「おとーと?」
首を傾げる姿はまだ赤ちゃんに近く、三歳とは思えないほど小さかった。
だけど──
(どうしてだろう……)
初めて会ったばかりなのに、なぜか心があたたかくなった。
その部屋には、おもちゃもなければ、絵本すらなかった。
ただ、食事を取った跡が残る机がひとつ。
殺風景で、まるで……世界から切り離されたような空間だった。
(こんなところに、こんな小さな子を……ひとりで?)
たった五歳の自分ですら、その不自然さと悲しさに、胸が痛んだ。
「……なまえは?」
「アレスだよ。おにいちゃんは?」
「マティアス」
「まてぃ……あしゅ?」
「言いにくければ、兄上って呼べばいい」
「……あにうえ!」
その言葉と一緒に、アレスの金の瞳にふわりと光が灯った気がした。
それから、俺は週に何度か、バレないようにアレスの元を訪れるようになった。
アレスは魔法で俺の体を浮かせ、塔の階段の途中にある窓から部屋に入れてくれた。
俺の話に目を輝かせ、ときおり不安そうな目をしながらも、嬉しそうに笑ってくれた。
そして──ある日、ふと思ったことを聞いてみた。
「アレスは……外に出たくないか?」
「でてみたい!!」
一瞬、嬉しそうな顔をした。でもすぐに、表情が曇った。
「でも、ボクここで……父上をまってるから、いいの」
「父上を?」
「うん。父上はえらいひとだから、いそがしいんでしょ?……でも、いちどだけあいにきてくれたんだよ」
そう言って微笑むその顔に、俺は言葉を失った。
俺にとっては、毎日一緒に食事をし、当たり前にいる存在である父。
でも、アレスにとっては──
たった一度、会いに来てくれた“大切な人”だったのだ。
まだほんの小さな手で、必死に父の姿を思い出すように目を細めて話していた。
あの時の笑顔は、俺にとって忘れられない。
「……俺が、ずっとアレスのそばにいるから」
そう言いながら、俺はアレスの肩にそっと手を置いた。
「俺はアレスの兄だから……!!」
目の前の小さな弟が、少しだけ目を見開いたあと、安心したように笑ってくれた。
その笑顔が、なんだかとても眩しくて。
俺は、強く誓ったはずだった。
──どんなことがあっても、この子の味方でいよう、と。
けれど。
それからしばらくして──
俺は、少しずつ塔へ足を運ばなくなっていった。
小さくて、儚げで、誰よりも優しくて。
それなのに、強い魔力を持っていた“弟”。
俺は、あの手を離したのだ。
あの時の笑顔も、声も、すぐそばにあった温もりさえも、
少しずつ、遠ざけてしまった。




