第三十二話 兄弟対決①
「じゃ、またあとでな」
「うん、ありがとう」
私をC班の集合場所まで送ってくれたアレスは、優しい表情で私の頭を撫でてくれた。
そのまま自分の班へと向かっていく彼の背中に、私は小さく手を振った。
あの夜以降、アレスとの関係に気まずさはない。
ただ──いつも義弟らしく、少し子供っぽい口調でからかってくる彼は、もうどこにもいなかった。
今のアレスは、いつも穏やかで優しい。
けれどその眼差しには、時折まっすぐすぎるほどの熱を孕んでいて──
私は自然と、彼を意識せずにはいられなくなっていた。
「ステラ? 座らないのか?」
「え、あっ……殿──マティアス様!」
思わず慌てて振り返ると、マティアス様が私の横から顔を覗かせていた。
「顔、赤いけど大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
「いえっ、そういうわけでは……」
(……たぶん、アレスのことを考えて赤くなってたんだわ。恥ずかしい……)
私は思わず、両頬を手で覆ってしまった。
「なら良かった。君の隣の席だった四年のビアシーニ子爵令息が、高熱で欠席になってね」
「それは心配ですね……」
爵位順で並べられた席。私の隣だったビアシーニ子爵令息、オーディー様は、魔法レベル58という高い実力を持ち、高技術魔法使いの認定も目前の方だった。
「それで、代理を立てようと思うんだが……ステラは誰がいいと思う?」
そう言って、マティアス様が差し出したのは──手書きのノート。
C班の全員の名前、爵位、魔法レベル、見た目の特徴まで詳細に記されていた。
(こんなに細かく……もしかして)
「……もしかして、これ、マティアス様が直々に書かれたのですか?」
「え……あ、ああ」
「すごいです。お忙しいのに、貴族も平民も関係なく、ここまで丁寧に記録されていたなんて……」
「大したことじゃない。一度で覚えられない俺が悪いんだ」
マティアス様はそう言って、小さく笑った。
でも、その握られた拳は、悔しさを隠しているように見えた。
「マティアス様、この班には五十人もいるのですよ? 一度で全員を覚えるなんて、普通はできませんわ」
「でも──要領のいい人間は、なんでも完璧にこなすさ。君の父上のように、ね」
お父様のことを言っているのだろう。
確かに、お父様は器用で、完璧主義で、ミスひとつ許さない人だ。
けれど私のこととなると、仕事を投げ出してでも助けに来て、時には人の命さえ顧みない……。
そんな父の「完璧さ」は、決して正解とは限らない。
マティアス様はきっと、その表面だけを見ているのだろう。
けれど──完璧な人間なんて、どこにもいない。
だからこそ、自分の欠点を受け入れることは大切なのだ。
「お父様も完璧な人間ではありませんわ。確かに要領は良く、完璧主義者ではありますが……同時に、欠点も多く持っています」
「それに、完璧でない人間らしさというのは、“愛される立場”の人にこそ必要な要素だと思いますの。──いずれ、この国を背負うお方なら、なおさら……」
私は静かに、微笑んだ。
皇太子という立場の彼に意見するのは僭越かもしれない。
でも、これは一人の国民としての正直な気持ちだった。
前の人生では、処刑を言い渡された──そんな恐ろしい人だったはずなのに。
今の彼からは、あの時のような冷たさは微塵も感じられない。
「……ごめんなさい。偉そうに聞こえましたら……」
俯いて謝ると、マティアス様はふっと微笑んだ。
「いや、君の言うことは正しい。本当に……その通りだ。
いくら完璧でも、愛されない人間では意味がない。ありがとう」
その微笑みは、息を呑むほど美しかった。
私は気を取り直すように、パンと手を叩いた。
「さて! 代理の選出でしたわね。誰にしましょうか?」
そうして私たちは、オーディー様に近い実力を持つ人物を探し始めた。
「レベル45のミリアンさんや、50のエアニーさんが候補になりそうですね」
「うん、そうだな。この二人に声をかけてみよう」
「競技は魔法剣術でしたよね? 剣術経験の有無も重要かと。ちなみに、対戦相手のレベルは──」
私がノートのページをめくると、目に飛び込んできたのは、衝撃的な数字だった。
『A班 魔法レベル143』
「……アレス」
思わず、ぽつりと呟いた。
「本当なら、俺が出るのが妥当なんだ。レベル的にも、剣術経験もあるし……。でも、あいつは俺を嫌ってるからな」
その表情は、どこまでも切なくて。
「……マティアス様が出るべきだと思いますわ」
私は真っ直ぐ、彼を見た。
「ここは学校です。私情は、脇に置いて考えましょう?」
なんとなく、マティアス様の気持ちを察した私はちょっと厳しい言葉で背中を押した。
マティアス様の瞳が、揺らぎを捨てたように静かに光を帯びた。
迷いの色が消え、覚悟を決めた者のそれへと変わっていく。
「……そうだな。なら、俺が出よう」