第三十一話 変わる関係性
「じゃあ、私から……三年のAクラス。マティアス・ヴィン・リンジー。皆の知っている通り、この国の皇太子だ。魔法レベルは54。畏まらず、気軽に接してくれ」
前に立ち、堂々とした声でそう告げた殿下が一礼する。
拍手がぱちぱちと沸き起こり、それを受けてマティアス殿下は列へと戻っていく。自然に背筋の伸びる立ち居振る舞いに、思わず見惚れてしまいそうだった。
(殿下って、人前だと一人称が“私”になるんだ……ちゃんと使い分けてて、大人だなぁ……)
思わず心の中でそんなことを呟いてしまう。そして、爵位順に用意された席で次は私の番だ。少し緊張したけれど、私は一歩、前へと足を出す。
「一年、研究クラス……ステラ・アルジェラン公爵の娘でございます。魔法レベルは、70で──」
「えっ……?」
ざわっ、と空気が揺れた。
先ほどまで整っていた場が、急にどよめきと小声で騒がしくなる。ちらちらとこちらを見て、ざわざわと話す声が耳に届いた。
(ああ……やっぱり、言うとこうなるよね)
女性、しかも一年生で、魔法レベル70。
高技術魔法使いの域に届くなんて、周囲からすれば異常値だろう。
私は早く席に戻ろうと、一歩引こうとしたそのとき──
「──まだアルジェラン公爵令嬢が話している途中だろ。静かにしてくれ」
ぴたりと、その場の空気が止まった。
真っ直ぐで澄んだ声が響いた。
思わず振り向くと、列に戻っていたマティアス殿下が、私を見て頷いた。
「……友達を沢山作りたくて、このイベントを楽しみにしておりました。平民貴族、男性女性、関係なく仲良くしてください」
震えそうになる声を抑えて、私は続けた。
すると今度は、控えめながらもしっかりとした拍手が教室を包む。先ほどまでのざわめきとは違って、温かく、穏やかだった。
列に戻ると、隣に座る殿下の制服の袖を、そっと指先で掴んで囁いた。
「さっきは……ありがとうございました。嬉しかったです」
「当たり前のことをしただけだ。礼はいらない」
殿下は淡々と答えながらも、その横顔は凛として美しかった。ほんの二つしか歳が違わないのに、とても大人びて見える。
(そういえば……聖女が来る前はすごく優しい人だったんだった)
お互いに異性として惹かれることはなかった。
それでも漫画の中でヒーローの役目を担っていた彼は、やっぱり絵になる。
少し目にかかる銀髪は、誠実なその雰囲気を一層引き立てていた。
◇◇◇
五十人ほどいるC班の自己紹介がすべて終わり、ようやく短い休憩時間が訪れた。
教室内の雰囲気はだいぶ和らぎ、あちこちで小さなグループが会話を始めている。
(わかってはいたけど……八割以上が平民なのね)
入学試験を突破した実力者たち。平均魔法レベルはおよそ15程度と言われるなか、この場にいるほとんどが30を超えている。
(貴族の子は魔力があれば無条件で入れるけど、平民は努力してここまできたんだ……すごいな)
「友達……できるといいな」
ぼそりと口をついて出た独り言。
するとすぐ、横から返事が返ってくる。
「さっきも言っていたが、友達が欲しいのか?」
「へっ!? あ、殿下……!」
「俺の席は君の隣だろう?」
たしかに。そうなんだけれど……
「……研究クラスだとなかなか人と関わる機会がなくて」
「あとは、君の義弟が張り付いているからか」
殿下が、アレスが私の義弟であることを少し強調したように感じた。
(ああ、前に私の義弟ですからって……私が気にしたから)
「はい。お父様に私を守るよう頼まれているんです。だから、アレスは悪くないんです」
「……そうか」
殿下は少しだけ目を細め、思案するように黙った。やがてふいに私の顔を覗き込むように、背を少しだけ屈める。
「なら、俺と友人になろう」
「……えっ?」
一瞬、理解が追いつかず、目を瞬いた。
それでも彼の顔は本気だった。真っ直ぐで、冗談の影もない。
眩しいほどの笑顔。それに、断りづらい空気と視線。
(ど、どうしよう……アレスが嫌がるだろうし……)
「……殿下のご友人だなんて、恐れ多いですわ。それに、殿下が婚約者でもない未婚の女性と仲良くすると……よからぬ噂も立ってしまいますし」
「──だが、君は俺の婚約者候補だろう?」
「で、ですからっ、それは父がお断りしたはずです!」
思わず少し大きな声が出てしまい、班の空気が一瞬だけ固まった。周囲の視線が刺さるように集まる。
「……嫌だろうか?」
殿下の表情が、ほんの少しだけ眉を下げた。まるで、子犬のような哀しげな顔で。
(ず、ずるい……それにここまで注目されてる中、断るのは……)
「……では、よろしくお願いします。殿下」
「“殿下”はやめてくれ。“マティアス”でいい」
「い、いえ! さすがにそれは……っ」
「友人だろう?」
「うぐ……で、では、“マティアス様”で……っ! それで許してくださいっ!」
私がそう返すと、殿下──マティアス様は、くすっと笑ってうなずいた。
「それでいい。よろしく、ステラ」
そう言って差し出された手を、私はほんの一瞬だけ迷ってから、そっと取った。
(……アレス、ごめん)
心の中でそう呟きながらも、私は笑った。
どこかで始まった、小さな波が──また、私の世界を少しずつ変えていく。
◇◇◇
「はあぁ!? あいつと友達になったぁ!?」
アレスの怒鳴り声が、屋敷の一室に響き渡った。
「ごめん……アレス」
自己紹介や班の編成、当日の流れの説明が終わったあと。私はアレスと合流し、そのまま転移魔法で家に帰ってきたところだった。
アレスは片手で目元を覆い、深いため息をつく。
「いや……皇族の申し出を断れないのも、理解できるし……」
それでも、どうしようもないとでも言うように、その眉間には深い皺が寄っていた。
「でも、これからもアレスと一緒にいることには変わりないからね?」
少しでも不安を拭えるように、私はそう言った。
「……当たり前だ。ばーか」
彼の手が私の頭をわしゃわしゃと撫で回す。少し力強く、けれどいつも通り優しくて。
「もう……っ! 髪が……」
慌てて手櫛で整えながら、ちらりとアレスの顔を見る。
けれど彼は、いつものようにふざけることもせず、ただ静かに──私から顔を背けたまま、押し黙っていた。
「……どうしたの?」
あまりにも深刻そうな表情に、私は思わず声をかけていた。
アレスはゆっくりとこちらに向き直り、真っ直ぐに私を見据える。
その瞳に浮かぶのは、焦り、痛み、そして──決意。
「お前が……あいつと恋愛関係になるの、いやだから。本当は言うつもりなかったけど、先に言っておく」
「ん……? うん?」
意味がうまく掴めなくて、首を傾げる私に、彼ははっきりと告げた。
「七歳のときにも言ったけど、俺は──今でもお前と俺が結婚するのが一番だと思ってる。……いや、“したい”と思ってる」
時が、止まったような感覚だった。
「恋愛結婚がしたいなら、俺とすればいいと思う。だから──これからは、俺を男として見てくれ」
──ズン、と胸の奥が揺れた。
七歳の時、確かに彼はそう言っていた。けれど私は、子どもの戯言だと思っていた。
でも、今のアレスは違った。
ほんの少し低くなった声。
真剣な眼差し。
揺れず、逸らさず、私だけを見ているその視線に──ふざけた冗談の欠片もなかった。
「……アレス……」
心臓が、どくんと音を立てた。
こんなふうに見られたことなんて、今までなかった。
いつだって私は“姉”で、アレスは“弟”だったのに。
「困らせるつもりはない。でも……黙って見てるの、無理だった」
「……えっと、そっか……」
心がざわつく。
アレスのことは大切。誰よりも信じてる。
でも、“男”として見てと言われた瞬間から──今までと世界の色が変わった気がした。
もうすぐ十四歳、冗談で片付けてしまうには大人過ぎる。
「……でも、今すぐ答えを出せとは言わない。ゆっくりでいい」
アレスはふっと、いつものいたずらっぽい笑みとは違う、少し寂しげな微笑みを浮かべた。
「ただ……ずっとそばにいて欲しいんだ」
その言葉に込められた熱を、私は受け止めることしかできなかった。