第三話 アレス①
あれから、三日。
まだ、お父様は領地のこのお屋敷に滞在してくれている。
「明日発つから、今日のうちに持っていくものは決めておけよ」
「はい、お父様!」
明日、私はお父様と一緒に皇都の屋敷へと移り住むことになっていた。
お父様はまだ二十二歳。死に戻る前には気にしたことはなかったが、前公爵夫妻は彼が十四歳の頃に亡くなっていると、先日サリーに聞いた。
それ以来、若くして一人で公爵家を背負っているという。
その責務はきっと、常人には想像もつかないほど重いはずだ。
三日間も領地に滞在してくれたのは、何度も皇都から従者たちが足を運び、書類を抱えて疲れた顔でやって来ていたからこそ。
その姿を見るたびに、心が少し痛んだ。――でも、同時に嬉しかった。
私を優先して、忙しさを押してここにいてくれたという事実が、どうしようもなく胸をあたためた。
きっと、このままなら上手くやっていける。
お父様と一緒なら、きっと幸せになれる。
私はその想いを、疑いもせず信じていた。
◇◇◇
「わぁぁぁあ!!ここが……これからお父様と住む、皇都のお屋敷なのですね!!」
目の前にそびえるその屋敷――タウンハウスと呼ばれる建物は、領地の屋敷よりもわずかに小さいけれど、その外観はまるで宝石細工のように煌びやかだった。
白を基調にした美しい壁、繊細な装飾が施された窓枠や扉。そのひとつひとつが丁寧に整えられていて、まるで絵本の中のお屋敷のようだった。
「領地の屋敷とそんなに変わらんだろう」
「いいえ!もちろん、領地のお屋敷も大好きですが……でも、これは“お父様と一緒に住める”特別なお屋敷なんです!」
浮かれた声が自然と弾んでしまう。
だって、こんな風にお父様と一緒に過ごせる日が来るなんて、ほんの少し前までは思いもよらなかったのだから。
皇都の魔法学校には十三歳から入学していたけれど、入学と同時に寮に入ったため、このタウンハウスには滅多に足を踏み入れることがなかった。
だからこそ、こうして改めて「一緒に暮らす場所」として迎え入れてもらえることが、心の底から嬉しかった。
「ほら、入るぞ」
そう言って、お父様が差し出してくれた手。
私は迷うことなくその手をぎゅっと握りしめて、二人で一緒に新しい家の扉をくぐった。
「お帰りなさいませ。旦那様、お嬢様」
広い玄関ホールに響く柔らかな声。
その声に合わせるように、ズラリと整列した使用人たちが、一斉に頭を下げた。
その光景に、思わず私はお父様の手を強く握る。こんな経験は初めてで、少し緊張してしまったのだ。
「堅苦しいのはいいと言っているだろ、ステラが怖がる」
「申し訳ありません。ですが、ステラお嬢様をこの屋敷にお迎えするのを、皆楽しみにしておりましたので……つい張り切ってしまいました」
最初に話しかけてくれた白髪混じりの男性は、一見厳しそうな雰囲気を纏っているのに、その表情と言葉には不思議な柔らかさが滲んでいた。
「ステラ、使用人を取り仕切るダミアンだ」
「ダミアン……よろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします。ステラお嬢様」
まっすぐに目を見て、穏やかに頭を下げてくれるその所作に、少しだけ緊張がほどけた。
「ステラの部屋は? 用意できてるか?」
「はい、ご案内致します」
歩き出したダミアンの後を、私はお父様と手を繋いだまま、そっと付いていった。
「きゃぁぁあ!!かっわいい!!」
案内された部屋に足を踏み入れた瞬間、思わず声が漏れる。
白とピンクを基調とした、女の子らしい可愛らしい部屋。けれど、そのどれもが上品で、ただ可愛いだけじゃない。
柔らかな光を受けて輝くレースのカーテン。天蓋付きのベッドには、洗練された刺繍が施された寝具が丁寧に整えられている。
遠目には控えめに見えても、近づいてみれば一目でわかる――これは皇族御用達の、最高級の品だ。
領地の屋敷のものも十分に良いものだったけれど、ここのはまるで肌がとろけるように柔らかく、触れただけで心が満たされてしまいそうだった。
「気に入ったか?」
「あ……はい! とても!!」
「そうか、なら良かった」
お父様は優しく笑った。
その笑顔に、心臓が跳ねる。
……な、な、なんて美しい笑顔なのかしら。
お母様、こんな人に好かれていたなんて……どれほど素敵な令嬢だったのでしょうか。
(いや、私と似ているって言われたし……もしかして、少しは誇ってもいいのかしら)
お父様は部屋の隣にあるもう一つの扉を開いた。
「ここにドレスも用意しておいた。サリーに聞いたサイズで急がせたものだから、大したものではないが……好きなものを着てくれ。今度、好きなデザインで仕立てさせよう」
その向こうには、色とりどりのドレスが美しく並んでいた。
どれもが高級ブランドの品ばかり。デザインも色も多様で、私の好みが分からなかったのか、まるで宝石箱をひっくり返したようだった。
……もしかしなくても。お父様、かなりの貢ぎ体質です……!!
「お父様、嬉しいです。ありがとうございます!!十分ですわ」
「遠慮することはない。好きなものを、好きなだけ買いなさい」
……遠慮じゃないんです、お父様。湯水のようにお金を使うのが嫌なだけなの。
この感覚、きっと前世での私――ステラとは別の私の影響ね。
「そろそろ、仕事に戻る。何かあったら、いつでも来てくれ。ダミアン、あとは頼む」
「かしこまりました」
お父様は私の頭をそっと撫でて、優しい眼差しを残して部屋を後にした。
その余韻がまだ残る中で、ダミアンが声をかけてきた。
「ではお嬢様、専属の侍女を紹介させてください」
「あ、はい!!」
目の前に並ぶのは、金髪のふわりとした天然パーマの女性と、涼しげな赤髪の女性。
「今日からステラお嬢様に仕えさせていただきます。マチルダです」
「アリネです」
「「よろしくお願い致します」」
「よろしくね。マチルダ、アリネ」
本当は、サリーを連れてきたかった。けれど、使用人は家族で雇っていることが多い。
サリーにも家族がいる。あの領地での生活が、きっと彼女にとって一番幸せな形なのだろう。
それを思えば、無理に連れてくることなんてできなかった。
寂しいけれど、この二人ともきっと仲良くなれる。そんな予感がしていた。
そう――この新しい暮らしに、私は少しずつ希望を抱き始めていたのだった。
◇◇◇
タウンハウスに引っ越してきてから、二週間が経った。
「またお父様はいないの?」
「はい。昨夜遅く、緊急で宮廷に行かれました」
朝食の席に向かった時、ダミアンからそう知らされた。
ここに来てから、お父様がどれほど忙しいかを痛感している。
なるべく食事の時間には顔を出してくれるし、気にかけてくれているのは分かる。けれど、私が目覚める前も、眠った後も、彼はずっと仕事に追われているのだ。
無理もない。十四歳という若さで公爵の座を継ぎ、この家を没落させることなく守ってきたのだから。
生半可な覚悟ではない。だからこそ今でも四大公爵家の一角として、この家が残っているのだ。
しかも、昼間は騎士団長として隊員たちの訓練まで見ているらしい。
月に一度、公爵領の屋敷に帰る時間さえ惜しかったと、最近になって知った。
私は一人、静かに朝食をとった。
部屋に戻り、窓の外をぼんやり眺めながら、ある疑問が頭をよぎった。
──なぜ、あの時。
すれ違っていただけで、本当は話せばきっと分かり合えたはずなのに。
処刑前の私を、他人のような目で見て、信じず、迷うことなく、母に似た私の首を──。
今のお父様を見ていると、とても同一人物とは思えなかった。
(……まあ、考えたって分からないわ。今の私は、ちゃんとやれてる。それでいいじゃない!)
一人きりの部屋で、心の中の自分の声に、思いきり頷いた。
「……ん? あれ、子ども?」
視線の先、庭の端にある草むらで、しゃがみ込んでいる小さな影を見つけた。
「……隠れてるのかしら?」
ただ事ではない気配に、私は使用人に「庭園に出てくる」とだけ伝えて、一人でその子のもとへと足を運んだ。
木々の間にそっと近づいてみると──そこには、小さく丸まって眠っている男の子の姿があった。
遠くから見たときは年下かと思ったけれど、近づくと、私と同じくらいの年齢に見えた。
(服は汚れてるけど……生地は上等。貴族の子かしら。使用人の子じゃなさそうね)
このままでは風邪をひいてしまう。私は男の子の肩にそっと手を置き、軽く叩いた。
「起きないと誰かに見つかってしまうわよ〜」
「ん〜……」
どうやら深く眠り込んでいるらしい。
事情が分かれば、ダミアンに伝えて客室に運んでもらってもいい。でも、なんとなく──彼には何かありそうな気がした。
「私の力じゃ、無理そうね……」
今度は少し強めに、男の子の肩を揺らした。
「起きなさーい! ここにいたら大人に見つかってしまう──わっ!」
「お前、誰だ!!」
飛び起きた男の子は、反射的に私を強く突き飛ばした。
その拍子に、私の腕が折れかけた木の枝にぶつかり、皮膚が裂けた。
「いったっ……」
ぽた、ぽた……と、血が滴り落ちる。男の子はその様子に目を見開き、顔色を一気に青ざめさせた。
「ご、ごめん……そんなつもりじゃ……!」
「大丈夫よ。それより、あなたはどうしてここにいるの?」
私は痛みをこらえながら、傷口をハンカチでぎゅっと縛って、男の子に問いかけた。
「逃げてきたんだ。それで……お腹が空いて、木の実を見つけて……」
見上げると、枝の上にはオレンジ色のフルーツ──ライミーがいくつも実っていた。
(……なるほど。フルーツ泥棒ってわけね)
「誰から逃げてきたの?」
「……それは、言いたくない」
そう言って、男の子は膝を抱えて顔をうずめてしまった。
「……まあ、いいわ。行くところがないなら、私の部屋に来ましょう」
「いや、いい。俺、大人に見つかりたくないし……」
「だったら、見つからないように行きましょ?」
「そんなこと……できるのか?」
「私を信じて」
私は彼の手をそっと引き、タウンハウスの扉の前までやって来た。
「ここで待ってて」
扉の横に男の子を立たせ、一人で扉を開ける。
すると、目の前にはマチルダとアリネが立っていた。
「お嬢様、ちょうどお迎えに上がろうとしていたところです」
私は慌てて腕を後ろに隠し、目にほんのり涙を滲ませて二人を見上げた。
「マチルダ、アリネ……私、採れたてのライミーが食べたいの。二人で採ってきてくださらない? 私じゃ背が届かないの……」
子どもならではの武器、上目遣いとおねだりを最大限に発動する。
(うう、恥ずかしい……中身は十六歳なのに!)
「では、私が──」
「い、いえ! 二人で協力して採ったライミーが食べたいの。そう、せっかくだから……」
「ですが、私一人でも──」
「ううん、ダメ! 熟れてる実が高いところにあったから……危ないし……ね?」
我ながら説得力のない言い訳。でも必死でお願いすると、何とか二人はライミーを採りに行ってくれた。
扉で隠していた男の子の手を取り、私は一気に部屋まで駆け戻った。
「はあ、はあ……バレてないわよね?」
「た、多分?」
顔を見合わせて、思わず笑いがこぼれる。
なぜか楽しくて、胸が躍る。きっと、子どもらしい遊びに飢えていたから。
二人でベッドの影に身を潜めるように床に座る。
マチルダたちが戻ってくるまで、そう長くはないはずなのに──。
こっそり隠れているだけで、こんなにドキドキするなんて。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね。私はステラ・アルジェラン。六歳よ。あなたは?」
「……俺も六歳。名前は……」
何かを躊躇うように彼は俯き、しばらく黙った後、ようやく口を開いた。
「アレス」
「アレス。素敵な名前ね」
彼は家名を名乗らなかった。けれど、そこに何か事情があるのだと感じて、私はそれ以上、聞こうとは思わなかった。
その時の私はとても楽しかったから。
無理に何かを知ろうとするよりも、ただこの時間を大切にしたいと思った。