第二十七話 興味深い令嬢
魔法学校の皇族や高位貴族のみが使用を許された休憩室は、午後の陽光を受けて静かにきらめいていた。磨かれた大理石の床、絹のカーテン、そして香り高い紅茶の薫りが、まるで外の喧騒とは隔絶された別世界を作り出している。
その一角、窓際の長椅子にフレッドが腰かけていた。今日は珍しく女装ではなく、男の制服姿だ。淡い金の髪が風にそよぎ、ぼんやりと外を眺める横顔は、普段のふざけた仮面を脱ぎ捨てたかのように、どこか真剣だった。
そんな彼が、不意に俺の方を見た。
「なぁ、マティアス」
「なんだ」
間を置かずに、静かに、けれど核心を突く問いが投げられる。
「お前、あの子と婚約するの?」
“あの子”が誰を指すのか、わざわざ聞くまでもなかった。
俺は少し視線を落とし、静かに息を吐いた。
「さあな。……俺は、政治のために決められた相手と結婚するのが務めだろ」
言い終えた瞬間、フレッドが突如、勢いよく俺に飛びついた。両肩を掴まれ、顔が近い。
「なぁ!!じゃあ、俺に譲って!!ステラちゃん!!」
「……は?お前、俺の話聞いてたか?」
「うん!!ちゃんと聞いてた!!だからさ、身分さえ合えば侯爵家とかの令嬢でもいいってことでしょ!? 他国の王女とかさ!!」
あまりの必死さに、俺は呆れながらも思わずため息を漏らす。
「……あのな。さっきも言ったが、俺は決められない。ステラ嬢が候補に挙がっているのは、単に家柄だけが理由じゃない」
「他に何があんの?」
フレッドは頬を膨らませ、唇を尖らせながら子供のように問う。
「彼女は、“高技術魔法使い”に分類されている」
「え、ってことは……レベル60以上あんの?」
さすがに目を見開くフレッド。無理もない。
国家による魔力量測定の基準を超える者──レベル60以上は、強制的に皇宮に登録され、管理対象となる。それは表向きには「優遇」だが、実際には使役、都合の良い便利な道具として囲い込む制度だ。
「そうだ。しかも、八歳の時点で──魔法が解放された瞬間から、その数値だった」
「……やっっっっべえな、それ」
「そうだろ……お前はか弱い女性が好みじゃ──」
「ますます惚れる!!」
「……は?」
即答。しかも、瞳を輝かせて言うもんだから、言葉を失う。
「俺、やっぱステラちゃんと結婚してぇ!!」
拳を握りしめ、情熱を燃やすフレッドの姿に、内心で顔をしかめる。これほど真剣な表情を、俺は彼から一度も見たことがなかった。
女遊びに飽きれば女装をして、今度は男を弄ぶ。
そんな節操のない奴が、これほど執着するとは。
(……顔が好みなのか? たまたまタイプのど真ん中に刺さっただけなのか)
窓の外へ視線を移したフレッドが、突然身を乗り出して叫んだ。
「あ……!!!! ステラちゃぁぁぁあん!!!」
鼓膜が悲鳴をあげる。横目で外を見ると、ステラ嬢がアレスと一緒に歩いている。例によって、というべきか。
叫び声に驚いた周囲の生徒が一斉に注目し、ステラ嬢が静かに唇へ指をあて、フレッドへ「静かにしろ」のジェスチャーを送っていた。
それを見たフレッドは、頬を赤らめてうっとりと微笑んだ。
「はぁ、かわい……」
十年以上付き合ってきた俺が、一度も見たことのない顔だった。
それは、心底から誰かを想っている人間の顔だ。
「でも、なんでアレスくんといつも一緒なんだ? いくら姉弟でも居すぎじゃね? 双子だから?」
「双子じゃねぇよ」
「は?」
アレスの身分は伏せられている。彼が俺の弟──側妃の子でありながら、公にされず、公爵家の養子として育てられていることを知る者は限られている。
「……あれは、アレスは俺の弟だ」
「……は? なにいってんだ、お前」
「本当だ。死んだとされていた側妃が産んだ子供だ」
フレッドの顔が強張る。数秒の沈黙の後、やっと口を開いた。
「……だったら、皇子じゃねぇか。なんで隠されて、公爵家の息子として育ってるわけ?」
「さあな。……俺にも全部は知らされていない」
真相を語ることは禁じられている。
だから俺は、真実の輪郭だけを残し、言葉を濁した。
フレッドは納得がいかない様子で眉をひそめたが、すぐにまたステラ嬢へと視線を戻した。そして突然、立ち上がると同時に、またも叫ぶ。
「ダメだ!!!!」
「なんなんだよ、いきなりうるさいな!!」
「ステラちゃんとアレスくんが姉弟じゃなきゃ、お前に譲ってもらっても意味ないじゃん……強敵がそばにいるじゃんか……」
フレッドは悔しそうに拳を握りしめている。
「一緒に住んでんだろ? あんな可愛い子と!! 無理だよ……俺だったらとーっくに理性ぶっ飛んでるよ」
「バカ言うな。姉弟として育ったんだぞ。そんな感情、持つはずないだろ。それに、アイツらはまだ一年だ。子供だ。何もわかってないさ」
「えぇ〜……でも俺、十四の時にはもう結構遊んじゃってたけどなぁ……一年生だって、誕生日きたら十四だぜ? 心は未熟でも体は、もうほぼ大人と同じだろ……」
自分の過去を振り返り、げんなりしたように肩を落とすフレッド。
その姿に、俺はどこか冷めた感情で、心の中で呟いた。
(……恋愛なんて、したって無駄なのに)
想いが通じ合ったとしても、やがて冷める。
熱が冷め、互いに不満を抱き、愛が消えた頃にはただの義務となる。
だったら、最初から気持ちなんて要らない。
家と家の利益が釣り合えば、それでいい。
政略で結ばれた結婚なら、最初から期待もしないし、失望もしない。
(……特にこの時期の恋愛なんて、思春期の性欲の延長だろ)
そんな俺の思いをよそに、フレッドはまだ窓辺で身を乗り出し、彼女の姿を目で追い続けていた。
「はぁ……ステラちゃんマジ天使。天井に絵でも描きてぇくらい」
俺は、こいつの恋がどこへ向かうのか、見届ける羽目になりそうだと、微かに頭を抱えたくなった。
──まったく、面倒なことにならなきゃいいが。
◇◇◇
一通りのない、別棟の裏手。
ここは、学園の喧騒から切り離された静かな場所だ。無機質な石造りの壁が木漏れ日に照らされ、苔むしたベンチがぽつんと一つ、誰の目にも留まらないように佇んでいる。
かつて、俺がよく一人になりたいときに足を運んでいた場所だ。皇太子という立場上、何かと目立つせいで令嬢たちに囲まれるのは日常だった。うんざりするような視線と作られた笑顔から逃れるには、ここが最適だった。
そんな場所に──まさか彼女がいるとは、思ってもみなかった。
ステラ嬢が一人、ベンチに腰かけていた。
さらりと流れる銀糸のような髪が、風に揺れている。陽を浴びて淡く煌めくその姿は、まるでこの世のものではないかのように静かで、美しかった。
「あ……殿下、ご機嫌よう。私はこれで失礼──」
俺に気づいた彼女が、慌てて立ち上がりかける。その動作はあまりにも洗練されていて、機械仕掛けの人形を思わせた。
「待ってくれ」
咄嗟に伸ばした手が、彼女の細い手首を掴んでいた。
なぜそんな行動を取ったのか、自分でもよく分からない。もしかしたら──フレッドをここまで虜にした理由を知りたかったのかもしれない。あるいは、それ以上の何かを感じ取っていたのか。
「いえ、殿下の休憩を邪魔するわけにはいきませんわ」
静かにそう言い、ステラ嬢は俺から視線を逸らす。
その態度はいつも通りだった。入学してから一ヶ月半。フレッドが彼女にまとわりつくたび、俺は呆れながらもその場を引き剥がしに行った。そのたびに、彼女は同じように俺に冷ややかな微笑みを向けるのだ。
まるで感情の通っていない仮面。
丁寧すぎる礼儀と、整いすぎた所作。人形のような笑顔は美しいが、どこか不気味だった。
「いいから、座ってくれ」
「いえ、本当に私は──」
「……早く」
つい、声が低くなってしまった。
こんなふうに、誰かを無理に引き止めたのは初めてだった。
彼女は少し目を伏せ、ためらったあと、静かにベンチの端に腰を下ろす。
その様子はどこか警戒心すら含んでいて──なんだか、俺の方が悪者になったような気がした。
不思議だ。
俺は滅多に、こんな感情に振り回されることはない。
それなのに、彼女のそっけない態度や、仮面のような笑顔に、どうしようもなく苛立ちを覚えるのはなぜだろう。
俺にだけ素直じゃない女がいることが、そんなに気に障るのか?
……もしそうなら、とんでもない傲慢野郎だ。自分の中の浅ましさに、吐き気すらした。
「私に……なにか御用でも?」
彼女は俺の顔を見ようともせず、静かにそう尋ねてきた。
「いや……ただ、君は婚約者候補の第一位と聞いているのに、ほとんど話したこともなかったから」
「そうですね。けれど……その件については、お父様が既にお断りしていると伺っていますわ」
「それでも、正式に却下されたわけではないだろう。少なくとも、まだ候補ではある」
「……そうです、ね」
わずかに間を置いて、彼女が頷く。その表情には、やはり感情の色が見えなかった。
また、沈黙が流れた。
自分から話しかけておいて、こうして気まずくなってしまうとは。
……本当に、何をやっているんだ俺は。
「そういえば、アレスはどうした? いつも君のそばにいるはずだろう」
「……先生に研究進捗の報告書を出すといっていました。その隙に、少しだけ目を盗んで逃げてきたんです」
「逃げる……?」
何か、嫌な想像をした。
(まさか、弟に何かされて……?)
「……あ、いえ。誤解なさらないでください。私たちは、普通に仲の良い姉弟です。ただ、少しだけ……彼が過保護すぎて、たまに息抜きが必要なんです」
「なるほど……それは、弟が悪いな」
"弟"なんとなくそう言った。
けれど、ステラ嬢はしばらく俯き、何も答えなかった。
そして──
次に顔を上げたとき、彼女はあのいつもの張り付けた微笑みを俺に向けていた。
「いえ、お気になさらないでください。アレスは、私の弟ですから」
──そのとき、初めて。
彼女の“笑顔”の奥に、はっきりと感情を見た。
嫉妬だ。
静かに、けれど確かに嫉妬心に燃えている、真っ赤な感情。
その表情を見た瞬間、なぜか──ぞくりと背筋に戦慄が走り、そして同時に。
「ふっ、ふははは!!」
吹き出してしまった。思わず、腹を抱えて笑っていた。
「……?」
「いや、悪い……君、俺のこと嫌ってるくせに、いつも完璧な人形みたいな笑顔ばかりでさ。それが、今みたいに感情を隠しきれてないのが見えたら、なんか……普通の女の子なんだなって」
「……? 怒った覚えはないですけど」
「うん。でもちゃんと読み取れたから、大丈夫」
まだ微かに肩を揺らしながら、俺は立ち上がる。
さっきまでの重たい空気が、嘘みたいに晴れていた。
「次は、そうやって感情をだして話してくれ」
「……次って……」
「じゃ、またね」
小さく手を振って、俺は彼女に背を向けた。
その背中に、彼女が何を思ったかまでは分からない。だが、なぜか心は妙に軽かった。
俺だけが知ってしまった、彼女の表情。
張り付けの仮面の奥に隠された、ほんの一滴の“本物”。
その存在が、ひどく興味深く思えたのだった。




