第二十五話 大切な人を想う夜②
「お母様の……?従魔ってこと?でもっそんな話、聞いたこと──」
「ないだろうな。セレーナは私の存在を誰にも明かさなかったからな」
目の前の魔獣は、どこか懐かしむように目を細めながら続けた。
「契約はしたが、私を“使役”しようとはしなかった。たまに呼び出してはくだらぬ話をするだけ。戦いに利用されることもなかったな」
「それなのに、契約を?」
「──あの女のことだ。頼まれたら断れない、そういう奴だったろう」
私はその言葉だけで妙に納得してしまった。
たしかに──話に聞く限りの母は、誰かを拒めるような人ではなかった。優しくて、強くて、でも自分のことは後回しにしてしまうような。直接の記憶は何一つない。でもこの魔獣の一言一言が、確かに母を知っていると感じさせた。
「それで、ステラ。契約はどうする?」
私は息を飲んだ。お父様の言いつけが頭をよぎる。
「……申し訳ないけれど、私は血で契約を交わすことを禁じられているの」
「ディルに、か」
「え、ええ。あなた……本当に、何でも知ってるのね」
「まったく、あやつは本当に面倒だな」
魔獣──その黒く巨大な体が、わずかに肩を落とすように揺れた。しばらく沈黙したあと、ふと鋭い目で私を見た。
「ステラ。お前──セレーナに会いたくはないか?」
「……え?」
唐突な問いに、思わず言葉を失った。
会いたい……? 私が?
「なにを……お母様はもう……亡くなっているでしょ?」
「そうだ。だが魂は、まだ上には昇っていない。正確には──昇れない」
その瞬間、心臓が跳ねた。
「……どうして」
「セレーナは、お前と同じく“二度目”の時を生きた。その時犯したことの代償を支払うために、魂は上に行けぬのだ」
「……っ!」
私は息を呑んだ。
お母様も──二度目?
私が、あの処刑台で殺され、目覚めたあの日のように……あの絶望の未来を越えて戻ってきたように。
お母様も……
この魔獣は知ってたの?私が二度目だってことを──
「知っていたさ。お前が“やり直しの時”を歩んでいることも。セレーナが、そうだったからな」
言葉が、喉に詰まった。
お母様は私のように、過ちを悔いて、誰かのために未来を変えようとしたのだろうか。私はその顔すら知らない。声も、仕草も、何も覚えていない。
「でも……私は、お母様に会いたいっていうより、どんな人だったか知りたいだけなの。だから──」
そこで、私はほんの少し笑って、でもはっきりと目を合わせて言った。
「お父様に、会わせてあげたいの。私じゃなくて、お父様が……お母様にもう一度、会えたらって」
「ふむ。人間にしては、随分と利他的だな」
魔獣は静かにうなずいた。
「いいだろう。だが、条件がある。セレーナの魂を“擬態化”して、元の姿で現世に顕現させるには……人間の魔力が必要だ。それも、長い時間をかけて蓄積されたものだ」
「私の魔力を、ってこと?」
「そうだ。お前の力を吸い上げ、何年もかけて満たしていく。それまでは、会わせてやることはできぬ」
「それでもいい」
私は一度もためらわなかった。
「契約するわ。そのために、私があなたに魔力をあげる。お父様のために」
私はそう言って、ナイトドレスの裾を指で持ち上げた。
「アレスに見られたら心配されるから、太腿でいい?」
「ふ……ああ、それで構わん」
魔獣は静かに私に歩み寄ると、まるで儀式のように、私の太腿にその牙を突き立てた。
「ッ……!」
ビリ、と神経を焼くような激痛が走り、脚先まで流れる自分の血が、ぬるくて気持ち悪い。
「終わった。傷が癒える頃、お前の皮膚には紋章が浮かぶだろう。そこに私は“いる”と思ってくれていい」
「……いるって……私の、ドレスの中に……?」
「お前がそこにしろと言ったのだろう」
魔獣はちょっと嫌表情をしながら、鼻を啜った。
「お前の血は……ディルの匂いがして、たまらん」
「──あぁ、六年前にお父様とも契約してるから」
「人間同士の契約など……気色悪いだけだ。愛やら責任やらで縛り合う、異常な生き物だな」
そう言いながら、魔獣は出血でふらついた私をそっと支え、丸くなって座った。
私もその体にもたれ掛かるように座り込んだ。
「忘れていたな。私の名は、ヴァルツォリオ。セレーナがそう名付けた」
「……そう。お母様が……。センス、いい名前ね。ヴァル、これからよろしくね」
私はその大きな顎の下を撫でた。ヴァルは満足げに目を細め、気づけば、私の目の前からふっと姿を消した。
そして私は、自分の部屋の真ん中、床の上に座っていた。
まるで夢から覚めたみたいに──だけど、太腿に残る鈍い痛みと、じんわり滲む熱だけが、現実だった。
「いたた……これ、バレる前にどうにかしないと……」
私はそっとナイトドレスの裾を下ろし、じんわり滲む血を押さえながら立ち上がった。今はただの噛み痕でしかないけれど、紋章はやがて浮かび上がる。
きっと誰かに見られれば、ただの怪我では済まされない。
また、こうして怪我を隠すのはお父様がいないからできることだった。
以前、私が庭で転んで腕から流血した時──その怪我を隠してしまったことで、前の侍女たちは、「私の怪我を気が付かなかったから」と解任された。
けれど、あとからそれ以外にも──お父様を殺そうとした未遂があったし……
まあ、つまり理由はそれだけじゃないにせよ……今の私は、レッドだけは手放したくなかった。
お父様が屋敷にいたなら、契約はきっとできなかった。あの人の目は、甘いけれど鋭い。きっと、すべてを見抜いてしまう。
だから。
私は、急いでベッドのシーツを魔法で切り、太腿をぐるぐると巻こうとした。
──その時、大きく音を立てて扉が開いた。
「お嬢様っ!!!!」
「──あ……レッド」
彼女は顔を真っ赤にして、額には大粒の汗。肩を上下させながら、荒い息をついていた。
「どうしたの!?」
「……はぁっ、はぁ……お嬢様の気配が、突然、消えたのです……だから、魔眼で魔力を探知して……屋敷中を探しておりました!」
「え……!! ご、ごめん。心配かけて……」
私は思わず視線を逸らした。けれどレッドの心配は本物で、それがほんのりと胸を温かくした。
けれど。
彼女はぴたりと動きを止め、私をじっと見つめた。目が赤く、燃えるように揺れる。
「…………お嬢様、獣と契約しましたね?」
「え、なんでっ」
「失礼ながら、お嬢様のお怪我がないかの確認のため、魔眼の力を使いました」
レッドは落ち着いた声で言う。
「お嬢様の魔力の色は、優しい金──ゴールドの光を帯びております。それに加えて……右手首からは旦那様と同じ、漆黒のオーラが。左目からは、私──魔族と同じ赤いオーラが見えます」
彼女は一歩、私に近づいた。
「でも今は、それに加えて──左脚の腿の傷口から、白いオーラが滲んでおります」
私は、心の中で小さく舌を巻いた。
(すごい……私は、魔眼のクラクラする視界が嫌で四年もほとんど使わずにいたけど、こんなふうに上手く使えば、相手のことをこんなに深く読み取れるんだ)
「へへっ、バレちゃったか……」
私は掌を頬に当てて笑った。
「……まずは、傷の手当をしましょう」
レッドはそれ以上は詮索せず、ただ静かにそう言って私の手を取り、椅子に座らせた。
「医者も神官も呼びません。お嬢様がそう望まないと、わかっておりますから」
すぐにレッドは、手当の道具を持ってきた。
アルコールの匂いと共に、冷たいガーゼが肌に触れた。
ピリ、とした痛みに少しだけ身を竦ませると、彼女はそっと声をかけてくる。
「アレス様と旦那様には……やはり、内密に?」
その言葉に、私は小さく頷いた。
それから、思わず彼女の手を取る。
「……うん。今はまだ……でも、お父様が戻ってきたら、そのときはちゃんと話すから。お願い、それまでは……」
レッドは一瞬、目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「私はお嬢様の従魔です。もちろん、そういたします」
その声は静かで、けれど絶対的だった。
どこまでも私の味方でいてくれると、そう言ってくれているようだった。
「それと……」
レッドは私の太腿に包帯を巻きながら、眉を寄せた。
「お嬢様が契約なさったのは……“魔獣”ではないように思います」
「えっ、どうして?」
「気配が違います。オーラが感じたことのない気配です」
「ふーん……でも、見た目は魔獣にしか見えなかったけどな」
私は特に深く考えずに答えた。正直、あの大きな体と黒い毛皮、燃えるような瞳──見た目だけなら、よくある上位の獣型魔物と大差なかった気もする。
けれどあの子は、私の中に眠った。
「ヴァル……」
私はそっと、まだ熱の残る太腿の上から布地越しに手を置いた。
レッドは私のその手に目を落とし、何も言わずに眺めていた。
部屋には、静けさだけが残っていた。
目を閉じると、胸の奥で、淡い感情が静かに揺れている。
──お父様と、お母様を会わせてあげたい。
もう一度、ちゃんと向き合ってほしい。
今でもお父様の奥底に眠る、あの頃から止まったままの心を──お母様の手で、そっとほどいてほしい。
私じゃ届かない想いがある。
それはきっと、お母様にしか解けないものだから。
この選択は、私のためじゃない。
お父様が、少しでも自由な心で生きられるように。
(だから、どんどん魔力を持っていってもいいよ……ヴァル)
私は、そう願っていた。




