第二十四話 大切な人を想う夜①
ステラには──言えない。
俺がまだ刺客に狙われていて、またその矛先がまた彼女に向くかもしれないことも、彼女をそばに置いておきたい本当の理由も。
『守れる距離にいてほしい』なんて、言ったところで不安な思いをさせてしまうだけだろう。
そんなこと口にするくらいなら、黙って全部飲み込んだ方がマシだ。
ディルの指導で、俺のレベルは143になった。
今の俺なら、もうほとんどの敵にやられることはないはずだ。
一般の魔法使いの十倍以上、知識も、技術も、実戦経験だって積んだ。
それでも、ディルの背中はまだ遠い。
だけど、彼の気持ちは、ようやくほんの少しだけわかるようになってきた気がする。
『守る』って簡単に言うけど、実際は目の届くところにいなきゃ守れない。届かないところにいれば、どんなに強くたって意味がない。
ステラを頼まれた──なんて、建前だ。
頼まれなくたって、俺が好きになった女くらい、俺自身の手で守ってみせたい。
そのためには、誰にも渡したくない。
恋愛がしたいなんて、ステラが言い出すたびに、心臓がざらりとした痛みに染まる。
それがもし、マティアスだったら? あの女装野郎だったら? 他の、誰かだったら?
想像するだけで、気が狂いそうだ。
「……今日も何人か、気配を感じたし……俺は、いつまで狙われてりゃ気が済むんだよ……」
誰もいない部屋にぽつりと漏らした声が、やけに虚しかった。
この屋敷には、ディルが張った強い結界がある。悪意ある者は中に入れないようになってる。
だけど……ステラの部屋には、俺の知らないうちに、何重にも追加の結界が張られていた。
気づいたとき、笑った。あの父親らしいって。
──誰にも渡す気、ないんだろ。俺もだけどさ。
結婚なんて、絶対無理だろ。あいつが生きてる限り、ステラは誰のものにもならない。
それは、俺も含めて。
……わかってるくせに、願ってしまう。
せめて、他の誰かのところに行ってしまうのだけは勘弁してくれと。
ベッドに横になり、天井を見つめた。視界はぼんやりしてるのに、頭の中にははっきりとステラの顔が浮かんでくる。
「アレス」って笑いながら名前を呼ぶ声。
嬉しいときも、拗ねてるときも、辛いときも。
何度も何度も、その声を聞いてきた。
案外気が強くて、いつも元気そうに笑ってみせる癖に、ときどき子どもみたいに泣く。
「恋愛したい」って言っておいて、すぐ隣で息が詰まりそうな俺の気持ちには全然気づかない。
あの髪だって、陽の光で色が変わって見える。不思議な色だ。グレーにも見えるし、ベージュにも見える。
あの瞳は……完全にディルから受け継いでいる。
あんなに輝く彩度の高い青色の目、他に見たことない。
全部、ぜんぶ、俺を狂わせる。
「……マティアスにも、女装野郎にも、他の男にだって……渡すかよ……」
自分の声が思ったより掠れていた。
喉が痛い。息が苦しい。胸の奥に溜め込んだどうしようもない感情が、出口を求めて暴れているみたいだった。
気づけば、俺は天井に向かって手を伸ばしていた。
馬鹿だな。
届くわけない。あいつは俺のものじゃない。
けど、それでも──
「なんかの間違いで……俺のものになってくれねぇかな……」
弱音だった。願望だった。祈りだった。
ほんの、間違いでもいい。間違いでしかないとしても。
たった一度でいいから、あいつを、堂々と抱きしめてみたい。
けど。
「……なんて、あいつは“もの”でもなんでもねぇのに……」
自分でも呆れるほど、矛盾してる。
守りたい、けど縛りたくない。自由にさせてやりたい、けど誰の手にも渡ってほしくない。
それでも俺は、誰よりも近くで──
ステラを守れる男になりたいって、そう思ってる。
心から。
◇◇◇
「お父様へ
今日も特に問題なく一日を終えました。
でも、今日は少し可愛い出来事がありました。
アレスが、私が恋愛をすることを寂しいと嫉妬してくれていたようで、照れながら顔を真っ赤にしていました。
お父様、アレスを公爵家で引き取ることにしてくれてありがとうございます。
お陰で、大切な義弟ができてとても嬉しいです。
お父様もアレスも、私の恋愛には反対なようですが──まだまだ私はやる気ですので、止めたいならば無事に帰還してきてくださいませ。
今日も大きな怪我なく、無事に過ごされていることを祈っております。
大好きです。お父様。
ステラ」
「よし、書けた!」
私は満足げに頷いて、手紙のインクを軽く乾かすと、封筒に差し込んだ。
毎日欠かさず、お父様に手紙を書いている。
たわいもない日常の報告を綴るだけのようなものだが、それが嬉しいのだと、以前のお返事に書かれていた。
お父様からの手紙は、週に一度。戦争の最中なのに、それでも筆をとってくれる。
内容はいつも短く、戦況や近況はほとんど記されていないが、「ステラを愛している」「寂しがらなくても大丈夫だ」と、まるで私を抱きしめるような言葉が並んでいた。
どれほどの安堵とぬくもりを、あの手紙がくれることか──。
「お父様に……会いたいな」
ぽつりと呟きながら、蜜蝋を垂らして封を閉じる。
指先に魔力を込めると、淡い光を纏って魔法の鳥が手のひらに現れた。
その小さな鳥に手紙を託すと、静かに窓の外へと飛び立っていく。
これが最近の、私の日課だ。
「さて……そろそろ、寝ようかな……」
椅子から立ち上がり、眠気を感じながらベッドへと向かおうとした、そのとき──
──「ステラ・アルジェラン」
脳髄に直接響くような、低く重たい声が落ちてきた。
誰かが呼んだ。それだけは確かだった。
「……え?」
思わず振り返ったが、部屋には誰もいない。
なのに、瞬き一つしただけで。
目を開けた次の瞬間、私は──
「……っ!」
真っ暗な森の中に、ひとり立っていた。
冷たい空気が頬を撫でる。
地面は湿っていて、足元からひやりとした感触が靴越しに伝わる。
「え……なんで……? どういうこと……?」
自室の床が、カーペットではなく土に変わっている。
混乱しながら辺りを見回すと、森の奥、漆黒の闇の中で、かすかに何かが光っていた。
(……光?)
よく目を凝らして見る。光源ではない。あれは……
(……ちがう。あれは──瞳)
暗闇の中で、だんだんと視界が慣れてくる。
その正体が、徐々に浮かび上がってきた。
……それは、獣だった。
狼のようであり、獅子のようでもあり、何より異形だった。
巨大な体躯に、銀に光る毛並み。
額にはカーブを描いた長い双角があり、背には光と闇の羽根を揺らしていた。
一目でわかった。
これは、ただの魔獣ではない。
(あれは……高位以上……いや……)
「ステラ・アルジェラン……私と契約しないか」
今度ははっきりと、声が頭の中へ流れ込んできた。
この声は──目の前の魔獣のものだ。
「契約って……あなた……」
私は動けずに問いかける。
魔物召喚の通路など、開いていない。
なのに、これは私を目指して現れた。
「……最高位、Sランクの魔獣ね」
「“人間”は、そんな風に順位をつけたがるのだな」
静かに、魔獣が一歩、また一歩とこちらへ歩みを進めてくる。
その巨体は私の数倍。
まるで神話から抜け出したような神聖で、どこか哀しい風格を漂わせていた。
月の光が、その姿を照らす。
「……綺麗ね、あなた」
思わずそう呟いた。
それほどまでに、目の前の魔獣はこの世のものと思えない美しさをしていた。
毛並みは黒に銀が差し、夜の風を受けて揺れる。
目は金と青が混じり合い、私を真っすぐに見つめている。
「お前は、私が怖くないのか?」
静かに、魔獣が問う。
「……そうね。もうこの世でいちばん怖い思いはしてしまったの。だから、恐怖の感覚が……麻痺してるのかもしれないわ」
それは、言葉では語れぬ、私の過去。
誰にも信じて貰えず、実の父親に処刑される、あの絶望の地獄。
だからこそ、目の前のこの魔獣すら、恐怖の対象にはならなかった。
「ふっ……やはりお前は、セレーナの娘なのだな」
魔獣が、ふと、懐かしむように言った。
その名を聞いて、私は目を見開いた。
「お母様……を、知っているの……?」
魔獣は、星空を見上げる。
まるで、遠い記憶を手繰るように。
「……ああ。私は、お前の母……セレーナの仕えていた」
「──え……?」
風が止まった。
星が瞬きをやめたような、静寂の中。
その言葉だけが、夜に溶けていった。




