第二十二話 魔法学校入学初日
お父様が戦場に向かってから、一ヶ月と少しがたった。
私はいつものように、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んでからベッドを抜け出し、すぐに新聞を広げた。窓から差し込む陽光が紙面を照らし、黒々とした活字が目に飛び込んでくる。
「アルジェラン魔法騎士団隊長の活躍を奏し、リンジー皇国が優勢……」
唇が自然に緩み、胸の奥に溜まっていた小さな不安が、朝露のようにじわりと消えていく。
「よかった。お父様、大きなお怪我はされていないようね」
今日もまた、無事でいてくれた。
そう思えることが、今の私にとって何よりの救いだった。
戦場に立つお父様の身を案じながら、私は毎朝こうして新聞を確認している。記事の行間に、無事の証を探すように。そして、心の奥では祈り続けている。今日も生きていてくれますように、と。
「お嬢様、お支度を整えさせてくださいませ」
部屋に入ってきたのは、いつもと変わらぬ落ち着いた声のレッドだった。銀色の髪を低く束ね、変わらぬ姿勢で私に一礼する彼女を見て、私はちょっとした悪戯心で笑った。
「ねぇ、レッド。今日はとびきり可愛くしてくれる?」
「……はい。今日から魔法学校だからでしょうか?」
「まぁ、それもあるけど……恋愛するためかなぁ」
そう言ってみせると、レッドはほんのわずかに眉をひそめて首を傾げた。理解不能、という顔。これがまた面白くて、私は声を上げて笑ってしまう。
「魔族だって、恋愛とかするでしょ?」
「いえ、魔族は魔力の産物なので生殖本能のようなものが存在しません。ですから、恋愛という概念は持ちませんね」
「えぇ~、それはなんか少しさみしいわ」
レッドはこの五年間、変わらず真面目に私の侍女を務めてくれている。左眼を覆う黒い眼帯は、私が彼女に背負わせてしまったものだ。今でもそれを見るたび、胸の奥にうっすらとした罪悪感が疼くけれど、レッド自身はあまり気にしていない様子で、むしろ誇らしげにさえ見える。
「そうだ、魔眼。使いたいんだけど……魔力を流すと赤くなっちゃうし、酔っちゃうから、使い所難しいのよね……何かいい方法ない?」
「そうですね……対面の時は目立ってしまいますし。ただ、本質を見たい相手がいましたら、遠くから観察するのが良いかと。あとは慣れです」
「遠くから、ね。わかるもの?」
「はい。魔眼は非常に万能です。使いこなすのは難しいですが、熟練すれば相手の心の内まで読み取ることも可能になります」
「それって、ちょっと怖いね?」
「そうですね。人の心の色を見るというのは、時に目を逸らしたくなることもありますから」
そう呟くレッドの声に、ふと重みを感じて私は言葉を止めた。彼女がここに来るまで沢山の人の黒い心を覗いたのだろう。
「……ありがと、レッド。今日も頼りにしてる」
「光栄です、お嬢様」
レッドは一礼し、支度を整えるための道具を手早く並べた。私はそのまま椅子に腰掛け、鏡の中の自分と向き合う。
化粧は薄く、でも愛らしく見えるように。髪はふわりと巻かれ、リボンがふたつ、耳元で揺れていた。今日のために仕立てた制服に袖を通すと、胸のあたりがきゅっと引き締まる。
──これが、私の新しい始まり。お父様にも見せたかったわ。
玄関ホールに降りると、アレスが整った制服姿で待っていた。魔法学校への入学という節目でも、彼はいつも通りの落ち着いた態度だったが、私の姿を見るなり、目を丸くした。
「……ステラ。今日なんか、すごい綺麗にしてんな」
「えへへ。でしょ? 今日から魔法学生なんだもん。可愛くなきゃ、恋は始まらないでしょ?」
「……あぁ……そういう理由か。なんとなく、納得したよ」
アレスは呆れたように微笑みながら、私の髪をひとつまみ指先でつまんでから、優しく離した。そんな何気ない仕草に、胸の奥がふっと温かくなる。
朝食は二人で、並んで取った。柔らかなスクランブルエッグに、焼きたてのパン、甘く煮詰めたリンゴのコンポート。ナイフとフォークを使いながら、私はちらちらとアレスの様子をうかがっていたけれど、彼は何も言わずに穏やかなまま食事を終えた。
「じゃあ、行こうか」
食後、アレスは軽やかに立ち上がり、私に右手を差し出した。私は頷いて、その手を取る。
「準備は?」
「もちろん大丈夫」
アレスが微笑むと、その足元に複雑な魔法陣が浮かび上がった。淡い光の粒が舞い、私たちの周囲に風が吹き抜ける。
「いってきます──」
その言葉と共に、視界が光に包まれた。
次に目を開けた時、私たちは魔法学校の正門前に立っていた。
空は高く澄み渡り、どこまでも青い。朝陽を受けた校舎の塔が金属のようにきらめき、まるで世界の始まりを祝福するかのように、美しく輝いていた。
「ありがとう、アレス」
「……あぁ。でも、ちょっと早く着きすぎたかもな」
「いいじゃない、少し散歩しようよ。こんな天気なんだし」
「それもそうだな」
この国に魔法学校はひとつしかない。
その代わり、敷地は途方もなく広く、校舎のひとつひとつが大聖堂のように荘厳だった。
(久しぶりだな……)
胸の奥で小さく波打つ懐かしさに、私はそっと目を細めた。
やり直しの人生を歩む私にとって、この光景は既視感というにはあまりに鮮やかで、痛々しいほどに懐かしい。
私はまだ一年生。十三歳。
原作ストーリーが始まるのは、二年の冬。
聖女リナが空から降ってきて──四年生になることなく処刑される。お父様の手によって。
……でも、もうあの結末は訪れない。お父様が私を殺せることはないだろうし、今の私はマティアス殿下の婚約者ではないから、リナから邪魔者として扱われることもない。
自由に恋をして、誰かを好きになって、生きたいと願える人生にするのだ。
今は執着の対象がお父様になってきてしまっているけれど……きっと恋をすることで、少しずつ親離れができるはずよ!!
「なんか、無駄に広くねぇか? ここ……」
アレスが立ち止まり、左右を見渡しながらぽつりとつぶやいた。
「広いわよ。一般校舎と貴族校舎が分かれてるし、敷地内に寮もあるし。魔法の研究所だって、この学校と皇城にしかないんだから」
「へぇ〜……なんでそんなに詳しいんだ、お前」
「た、たたた、楽しみで事前に調べてたのよぉ……」
「ふーん?」
やばい……。
今まではやり直し前と人生が違いすぎて、驚きも戸惑いも素直に出せた。
でも今は、知りすぎている事をごまかさなきゃならない。精神が削られる……
ごまかし笑いを浮かべながら、私は再び歩き出した。
──その時だった。
「ちょっとぉぉおお!! どいてぇぇぇええ!!!!」
けたたましい叫び声が響いた次の瞬間、猛烈な勢いで何かがぶつかってきた。
あまりの衝撃に、私は芝生の上に押し倒され、木の根元でごろんと転がった。
「お、おい!! ステラ、大丈夫か!?」
アレスの焦った声が聞こえる。でも、体が重くて起き上がれない。
「ごめ〜ん……ちょっと逃げてきたところでさ」
私の上に馬乗りになっていたのは──金髪の美女。
整った顔立ちに涼やかな目元、均整の取れた体……その美しさに、息を呑んだ。
「え、あ……はい、大丈夫です」
ようやくそう答えた時、ふいにその美女の指が私の顎を掴んだ。
「あなた……美しいね。めーっちゃ可愛い、タイプタイプ超タイプ。ねえ、婚約者とかいる?」
その饒舌さに、私は目を瞬かせた。なんか……妙な違和感がある。
脚に……なにか、当たって──
「よかったらさー──いでっ!!」
思考が混乱して何も言えないまま、状況が目の前で勝手に進んでいく。
そんな中、突如、魔法の力を帯びた球体が勢いよく飛来し、彼女の頭に直撃した。
「やめろ、フレッド。困ってんだろ」
低く鋭い声が響く。その声に応じて彼女……フレッドと呼ばれた美女が口を尖らせた。
「だってさぁ、マティアスぅ〜この子超タイプなんだもん。あっ!というか、俺がこの格好してる時は“フリエッダ”って呼べって言ってるだろ! 非公開なんだから!」
「もうバレてるだろ。彼女の顔を見ろ、引いてるぞ。ほら、立て。降りろ」
目の前に現れたのは──マティアス殿下だった。
断罪の記憶が、容赦なくよみがえる。
喉がひりつき、胸がぎゅっと締めつけられた。体が強ばり、うまく息ができない。
「フレッドが悪いな……顔色、悪いけど大丈夫? 立てる?」
彼が私に手を差し伸べようとしたその瞬間──その手が、鋭く横からはじかれた。
「……触んな」
ぞわり、と肌が粟立つほど低く冷えたその声は、アレスのものだった。
「…………お前、アレスか」
マティアス殿下の目がすっと細められる。
彼とアレスが過去に会ったことがあるのかどうか、私は知らない。でも、彼は即座にアレスだとわかったようだった。
「え?なに?知り合い?」
隣の美女──フレッド、あるいはフリエッダと呼ばれる彼が軽く言葉を投げかけたが、マティアス殿下はそれに応えず、私に視線を向けた。
「……てことは、君がアルジェラン公爵家のご令嬢、ステラ嬢か」
その一言に、私は条件反射のように背筋を伸ばした。
「はい。義弟の無礼、深くお詫び申し上げます。マティアス殿下」
咄嗟に頭を下げる。
アレスは「そんなことしなくていい」とすぐさま口を挟んだけれど、アレスの正体は本来隠されている存在。
ここで無闇な言動を取るわけにはいかない。
「顔を上げてくれ、ステラ嬢。詫びるのはこちらのほうだ」
「え? なんで? 俺──ゔゔんっ、私なんかした?」
フレッドが首を傾げたその瞬間、マティアス殿下の拳が彼の頭に落ちた。
「ぶつかって転ばせた上に、謝りもせず口説いたからだろ」
「いって!!仕方ねぇだろ!!可愛かったんだから!!」
「俺の婚約者候補だ。これ以上、面倒なことを起こすな」
その一言で、フレッド──もといフリエッダ様はずるずると引きずられていった。
「では、また。ステラ嬢」
短くそう言い残して、マティアス殿下もその場を離れていく。
私は──微かな息を吐きながら、芝生の上にそっと手をついた。
ただの登校初日。そう思っていたのに、すでに胸の中は、ざわついている。




