第二十一話 しばしの別れ
いつもと同じ寝台なはずなのに、今夜のそれは妙にあたたかく、胸の奥までじんわりと満たされていくようだった。
すぐそばに感じる柔らかな体温。俺の腕の中で、灰がかったベージュの髪が少し邪魔そうに揺れ、ステラは眠たげにその髪を耳にかけた。
(……可愛い。本当に、どうして娘というのはこんなにも愛おしいんだろうな)
ステラから「一緒に寝てもいいですか」と、少し恥じらいながら頼まれたとき──俺は思わず、ひと呼吸おいてから返事をした。
だが内心では嬉しさで頭がいっぱいだった。顔には出さなかったが、思わず心の中で天を仰ぎ、ガッツポーズをしたほどだ。
それほどまでに、この瞬間は、俺にとって奇跡のような贈り物だった。
赤子の頃、俺はステラにほとんど触れることができなかった。抱きしめた記憶も、眠りにつく彼女の寝息を隣で聞いた記憶も、何もない。
一緒に眠るなど、夢のまた夢だった。
だからこそ、今、こうして腕の中で安心しきって眠ろうとしている娘の存在が、たまらなく愛おしくてたまらない。
このぬくもりを、過去の俺は何度も拒んできたのだ。
本で読んだ。娘への過剰な愛情は気持ち悪がられることもあると。
父親と娘の距離感は難しく、過度に触れれば嫌悪され、傷つけてしまう可能性すらあると。
だから、ずっと諦めていた。触れたいと願う気持ちすら、心の奥にしまい込んできた。
なのに……今夜は、どうだ。
彼女の方から差し出されたこの一夜を、俺は神から与えられた褒美のように感じていた。
(戦地に向かう前だからか……? いや、まさか本当に俺は……)
胸の奥に、ふと黒い影がよぎる。
死を意識するようになったのは、いつからだっただろう。だが今は、そんな思考すら吹き飛ぶほどに、ステラの存在が俺を満たしていた。
この子だけは、何があっても幸せにしなければ。
セレーナとの約束だ。いや、約束などなくとも、俺がこの命に代えても守るべき宝だ。
「お父様……寝づらくありませんか?」
眠たげな声が、肩口から聞こえてくる。
俺の胸元に頬を寄せながら、瞼を重たそうに伏せるその顔が、あまりにも幼くて、無垢で、守らなければと本能が叫ぶ。
「……ああ、大丈夫だ」
(むしろ、こんなにも心地がいい夜があるとは思わなかった)
俺が風呂に入り、寝る準備を整えているあいだ、ステラは静かに部屋で待っていた。
その時間が長かったのか、彼女の目はすでに虚ろで、今にも眠りに落ちそうだ。
「恥ずかしいです……もう十二なのに……」
か細くつぶやかれた言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「そんなことない。まだ十二だ」
「でも……もうすぐ、十三になります」
(……そうだな。時が経つのは、本当にあっという間だ)
かつてはまだ手のひらに収まるほど小さかったステラが、もう十三。
セレーナが逝ってから、もう十三年──あの日から、こんなにも時が流れたのか。
最初の数年、俺は時そのものを憎んでいた。
時間が過ぎれば、セレーナの声も、笑顔も、あたたかさも、少しずつ遠ざかっていった。
まるで、あの存在が最初からなかったかのように記憶が薄れていくことが、何よりも怖かった。
だけど……俺のそばには、セレーナを思い出させてくれる大切な存在がいた。
なのに、俺はそれに背を向けていた。
こんなにも愛おしい娘が、こんなにもそばにいたのに。
「きっと……ステラが歳をとって大人になっても、子供はずっと可愛いのだろうな」
俺の呟きに、ステラが微かに笑った。
「……孫はもっと……かわいい……」
ステラの呟きは、寝息に溶けて消えた。
だが俺の胸に、冷水をぶちまけられたような感覚が残る。
(孫……?)
ありえない。
子供を産むなんて──ステラまで、セレーナのように失ったら……。
(俺は、生きていけない)
あのときの光景が焼き付いて離れない。
血まみれの寝台、動かない手、冷えた唇。
生きていてくれるだけでいいんだ。ステラが、ただ生きて笑ってくれていれば。
「……孫なんていらない」
喉の奥で、かすれるように呟く。
言えば嫌われる。わかってる。それでも思ってしまう。
そっとステラの額に手を置いて、静かに寝室を出た。
廊下には、無言で控えていたダミアンの姿。
「ダミアン」
「……はい」
「広間にレッドを呼べ。今すぐだ。目立たないように連れて来い……連れてきたら誰も近付けるな」
「畏まりました」
◇◇◇
数ヶ月後──
皇帝陛下の外交努力も虚しく、サダーシャ帝国との戦争が確実となった。
それは、私が魔法学校に入学する二ヶ月前のことだった。
お父様はこの数ヶ月間で領地の仕事を整え、アレスに政務の手ほどきを済ませ、さらに魔法も剣術も徹底的に叩き込んでいた。まるで自分の全てをアレスに託すように。
お父様が隊長を務める騎士団と、公爵家を転移魔法で何度も往復しながら、身体を削るように働いていたことも知っている。
そのすべてが、私を守るため──私の未来のため──そう思うと胸がぎゅっと締めつけられた。
だから、そんな背中を見るのがつらくて、私はそっと執務室の扉をノックした。
「今日くらい休んではいかがですか?」
戦地へ向かう二日前。
日はとうに沈み、窓の外は夜の帳に包まれているというのに、お父様はまだ執務机の上の書類に目を通していた。
「アレスの負担を、少しでも減らしたいからな」
その声は変わらず落ち着いていたけれど、指先の動きに疲労がにじんでいる。
お父様は、とても真面目な人だ。
それゆえに、時として自分を犠牲にすることを厭わない。
目的の為とあれば、平然と自身を捨てるような危うさを、私は知っている。
「アレスも真面目ですから、きっと大丈夫です。一緒に休みませんか?」
そう言いながら、私はお父様の前に歩み寄り、机越しにその瞳を覗き込んだ。
「平気だ」
「私との時間を過ごすことも、父親としての大切な仕事ですよ。……まあ、我儘が多く含まれていますけど」
冗談めかして微笑んだ瞬間、お父様はふっと息をつき、顔を上げた。少しだけ驚いたように目を丸くしてから、肩の力を抜いたように笑ってくれる。
「そうだな……少し休もうか」
その言葉に私は自然と口元が綻び、思わず「はい!」と返してしまった。
それから私たちはソファに並んで腰掛け、お父様に休息を取ってもらうために密かに計画していた夜のティータイムにすることにした。
戦争が確定してからというもの、私は片時もお父様から離れなかった。
執務中は部屋の隅で本を読みながら、ときおりお父様の横顔を盗み見た。
アレスと剣を交えている時は、遠くから見学していた。
一度だけ、我儘を言ってレッドに護衛を頼み、アレスも連れて皇城の騎士団基地まで足を運んだこともある。
お父様が私に執着しているのは、わかっていた。
でも同じくらい、私もお父様に執着している。
……これは、あんまり良くない。
魔法学校に入ったら、私は恋をする。そう決めている。
それまでだから。お父様に甘えるのは、それまで。
自分にそう言い聞かせながら、それでも今は、ただ隣にいたかった。
お父様も、そんな私をいつも嬉しそうに見つめてくれていた。
……本当に、戦争に行かせてしまっていいのだろうか。
今も不安が胸に巣食って離れない。
「とうとう、二日後には戦争になるんですね」
「安心しろ。国際条約で、戦闘員以外に攻撃することは禁止されている。皇都も、街も、影響はないはずだ」
「そういうことではなくて……お父様の心配をしているんです」
静かに告げると、お父様は少しだけ間を置いて、柔らかく目を細めた。
「ああ、俺のか。……ありがとうな。俺を本気で心配してくれるのなんて、お前くらいさ」
「お母様もきっと、心配していますよ」
その言葉に、お父様はふと遠い目をして、少し寂しそうに目を伏せた。
「ああ……そうだな」
言葉の奥に、過去の痛みが滲んでいた。
その痛みに、私の胸も小さく軋んだ。
少しすると、使用人たちによってお茶とお菓子が出された。
白磁のカップには、ほんのりとした金木犀の香りが立ちのぼっている。
焼き菓子は、私が厨房でお願いして作ってもらったもの。胡桃のクッキーだ。
「これは……ステラが?」
「はい。厨房の方にレシピを伝えて。味見もしましたから、美味しいはずです」
「……ふふ、ありがとう」
お父様は一枚取って口に運ぶと、ゆっくりと噛み締めた。
言葉にはしないが、心から喜んでいるのが表情でわかる。
「お父様、少し痩せましたよね」
「そうか? ……戦の準備をしていたからな、仕方ない」
「だから、甘いものを食べてください。私のわがままの一つです」
「もっと壮大なわがままを言ってもいいんだぞ」
そう言いながら、お父様はもう一枚手に取る。
その仕草を見て、少しだけほっとする。
「……戦なんて、なければよかったのに」
ふと、ぽつりと漏れた私の言葉に、お父様の手が止まる。
沈黙が、ゆっくりと部屋に降りてきた。
「俺も、そう思ってる」
視線を落としたまま、お父様が言った。
その声音には、重く、深いものがあった。
「でも今は……守るべきものがあるから頑張れる」
「私……」
言いかけて、言葉が詰まる。
「お父様を守るために、私が何かできたらいいのに」
「お前が無事でいることが、何より俺を守ってくれる」
お父様はそう言って、私の頭に手を伸ばした。
優しく髪を撫でてくれる手は、どこまでも温かくて。
けれど、同時にどこか遠くへ行ってしまいそうな気配がした。
「私、ちゃんと待ってます。帰ってくるって、信じてます」
少し震えた声で言うと、お父様は小さく瞬きをしてから、ゆっくりと頷いてくれた。
「……ああ。必ず戻る」
その言葉は、まるで誓いのように深く胸に染み込んでいった。
けれど私は、なぜだろう、どこか胸の奥が冷たくなっていくのを感じていた。
お父様の目はまっすぐで、嘘などひとつもなかった。けれど、それでも。
この手の温もりが、今日が最後かもしれないと思ってしまうほどに、彼の背には覚悟が滲んでいた。
「私……強くなります。もっと……お母様みたいに、優しくて、強い女性になります」
不安を押し込めるように、そう言った。
私の中にお母様の記憶はない。
でも、以前お父様に聞いた話から、私はずっとその姿を想像していた。
「……お前はもう、セレーナのように優しく賢い」
お父様はふっと笑って、そう呟いた。
その声に、少しだけ寂しさが混ざっていたのを、私は聞き逃さなかった。
だから私は、そっとその手に触れた。大きくて、少しだけ荒れた手。
戦場に向かおうとする、その掌を、強く握りしめた。
「約束ですよ。絶対、戻ってきてください」
私の声に、お父様はもう一度、小さく頷いた。
「約束だ」
どこまでも優しい声だった。
けれどその優しさが、逆に胸に痛く響いた。
その夜、お父様は執務室を後にし、私の部屋まで一緒に歩いてくれた。
寝室の扉の前で立ち止まったとき、私は思わず背中に抱きついた。
「……おやすみなさい、お父様」
「おやすみ、ステラ」
それは、ほんの短い別れの挨拶だったはずなのに──まるで永遠の別れのように感じてしまった。
◇◇◇
次の日の朝のこと。
お父様は今日、軍事基地に泊まり、明日には戦地へと発つ。
私たちは公爵家の玄関前で、しばしの別れの時を迎えていた。
「馬車で行くんだな」
アレスが、いつも通りの口調で問いかける。
「ああ。“転移魔法は魔力の浪費だ”と言われてな。くだらん話だ。俺には大したことじゃないというのに……」
吐き捨てるように言いながらも、お父様はふっと目を伏せた。
その横顔には、諦めとも皮肉ともつかない表情が浮かんでいた。
「たまには揺られるのも悪くないさ」
「いや、時間の無駄だ」
短く言い切ると、ふと真顔になり、アレスの瞳をまっすぐ見つめる。
「……アレス。ステラを頼む。領地のことはどうとでもなるが──ステラのことだけは、頼んだぞ」
「わーってるって。何度言われたか分かんねぇくらい聞いたよ、もう」
それでも、何度でも言っておきたかったのだろう。
お父様は小さくうなずき、次は私の方を向いた。
「……ステラ」
その呼びかけは、まるで私を戦地に送り出す者の声だった。
戦いに行くのはお父様のはずなのに、どうしてこんな目で私を見るのだろう。
そんな顔をしないで。だって、私はただ、ここで待っているだけなのに。
「右手首に刻んだ守護魔法の紋……何かあった時は必ず使え。いいな。
使ってもその紋は消えない。それがある限り、俺は生きている。……だから、そんな顔をするな」
言葉の意味よりも、その声の優しさに、私ははっとした。
そうだ。私は今、不安と寂しさでいっぱいの顔をしているのだ。
「……帰ってきたら、また一緒に寝てくれますか?」
「もちろんだ。ステラが望むなら、いくらでも」
「じゃあ、それまで我慢して待ってます……」
「ああ、楽しみにしてる」
お父様は私の頭に手を乗せて、ふわりと撫でてくれた。
もう、十三歳。それでも、その温もりにしがみつきたくなって、思わず腕を伸ばした。
子供みたいに、お父様の胸に飛びついた。
「なに、短ければ半年で戻って来られる。……一生の別れじゃないさ」
「……わかってます」
「手紙も書く」
「私も、毎日書きます」
お父様はそっと私の肩を抱き、静かに力を抜くように、優しく私を引き離した。
「じゃあ、そろそろ行く」
「おう、またな」
「お父様、大好きです」
「──ああ。俺もだ……愛してるステラ」
そう言って、お父様は私の額に優しく口づけをした。
(どうか大した怪我なく帰ってこられますように)
馬車が見えなくなっても、私はその場から動けなかった。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、どうしても涙が溢れそうになってしまった。
あの背中は、やり直し人生を送る私のすべてだった。
私を守ってくれて、愛してくれて、それでもいつもどこか遠くて。
本当は──もっとそばにいてほしかった。
こんな風に思うなんて、六歳に戻った時には考えもしなかった。
今度は自分で立ち、前に進まなくちゃいけないのだから。
もうすぐ、私の魔法学生生活が始まる。
涙は拭いて、笑って、ちゃんと胸を張って。
だって私は、ディル・アルジェランの娘なのだから。
再構築家族編 おしまい
次章は魔法学校《一年生》編です。
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