第二十話 寂しいけれど。
「は……えっ、と。お父様……? 今、なんて言いました……?」
お茶会を終えた夜のことだった。
アレスと私は、お父様に呼ばれて執務室に来ていた。
「サダーシャ帝国と戦争になる予定だと言った」
「その後です!!」
「俺は、戦地の前線で戦うことになる。だから、長く家を空けることになる」
──カツン、と心の奥で何かが砕ける音がした。
頭の中が、ガンガンと何かに殴られているような感覚。
お父様の言葉が、現実のものとは思えず、脳に染み込まずに弾かれていく。
(前の人生では……サダーシャ帝国と戦争なんてなかったじゃない。なのに、どうして……?)
私は強く拳を握った。爪が手のひらに食い込むほどに。
体が、止まらず震えていた。息が詰まり、言葉が喉でつかえる。
なにを言えばいいのかわからない。
お父様が戦地へ行く?
死と隣り合わせの場所に、自ら足を踏み入れるというの?
──こんなに苦しくて、こんなに怖い気持ち……私は知らない。
そのときだった。
そっと、私よりも背が高くなっていたアレスが、黙って私の背に手を置いた。
その温もりが、かろうじて現実に引き戻してくれる。
「……いつ、行くんだ?」
低く抑えた声で、アレスが尋ねた。
「今すぐというわけじゃない。確実に戦争になると決まったわけでもないしな」
「でも……俺たちに話したってことは、もう決まったも同然なんだろ?」
「……ああ」
アレスの様子は、いつにもなく落ち着いて見えた。
けれどそれは、おそらく私の取り乱した姿に対して、彼が無理をしているからだ。
アレスは、昔からそうだった。養子になることが決まった夜はあんなに泣いていたのに。
あれから一粒だって涙を見せない代わりに、泣いてばかりの私をいつも落ち着かせてくれる。
「安心しろ。俺が戦場で死ぬことはないさ……ただ、ステラが心配だ」
「俺の心配はねぇのかよ……」
苦笑まじりに返したアレスに、お父様がわずかに微笑んだ。
「お前はもう、自分の身くらい守れるほどには強くなっただろう」
確かに、アレスは日々お父様と魔法剣術の鍛錬を重ね、森へ魔物討伐にも行き、今やレベルは100を超えている。
もう、誰かに守られるだけの存在ではない。
でも私は──
私は、まだ……お父様にそばにいてほしい。
ただそれだけでいいのに。
(お父様が死ぬはずなんてない……そんなの、わかってる。頭では、わかってるのに……)
けれど、“戦争”は、ただの戦いじゃない。
血が流れ、命が奪われ、心が壊れていく。
せっかく、人の温かさを取り戻したお父様に、どうしてもそんな場所に行ってほしいと思えない。
例え、最強で最恐である魔法騎士だとしても
そして、もう置いていかれるのは、嫌だった。
また、あの時みたいに。
寂しくて、ただ生きることだけが続いた、あの時間を思い出してしまう。
「……悪いな、ステラ。お前にそんな顔をさせたくはなかった」
お父様が静かに言葉を紡ぐ。
「けれど……俺が戦地へ行かなければ、この国の治安は崩れる。それでは、お前も安心して暮らせないだろう?」
「…………お父様が傍で守ってくださればいいのです」
心の中から、幼い願いのような言葉が漏れた。
けれど、それを否定しないで欲しかった。わがままだって、今だけは。
「……そうしたいところだが、ずっと付いていてやることは現実的に難しい。俺は……お前にただ、笑って生きてほしいんだ」
一歩、お父様が私に近づく。
「皇帝のためでも、国民のためでもない。──ステラ、お前のためだけに俺は戦う。だから、どうか……許してくれ」
言葉と共に、お父様は机から立ち、私の前に跪いた。
私の手を、あたたかく、大きな手でそっと包み込む。
(前は……お父様が傍にいないのなんて当たり前だったのにな……)
涙が、止まらなかった。
唇が震えて、声がうまく出せなかったけれど、私は必死に搾り出した。
「……はい」
小さな声だったけれど、確かに届いたと信じたい。
「アレス、お前には俺がいない間の領地経営を頼みたい。それから、ステラのことも……」
「……あ、ああ。わかった」
アレスの声は少しだけ掠れていた。けれど、それでも目は逸らさなかった。
「くれぐれも、“義弟”として。な?」
「わかってるよ……!」
「ステラを泣かせたり、暴力を振るったら……たとえお前でも殺──」
「わかってるってば!!そんなことするかよ!!」
アレスが慌てて叫ぶと、お父様が少しだけ笑って、私の手をそっと離した。
その笑顔は、とても強くて、とても優しくて
── 守るべきものを持った父親としての、揺るがぬ覚悟が滲んでいた。
私は、その手の温もりを忘れないように、ぎゅっと目を閉じた。
◇◇◇
夜になった時、私の部屋の扉が控えめに鳴った。
「はい……どうぞ」
軋む音と共に扉が開く。そこに立っていたのは、お父様だった。
「お父様……」
もう寝る時間だというのに、まだ服も着替えておらず、お風呂にも入っていない様子だった。きっとまた仕事に追われていたのだろう。髪は乱れ、マントの裾には乾いた埃が残っている。そんな姿を見ると、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
そりゃぁ……ずっと私の傍にいられないのも、当たり前よね。
なのに、私は……。
私はなにを言ってしまったのだろうか。あのときの私の言葉は、きっと棘のように彼の胸に刺さってしまった。
「ステラ、さっきは……悪かった」
お父様の声は低く、どこか哀しげで、でも優しさに満ちていた。ほんの少しだけ眉を下げたその表情には、後悔の色が滲んでいる。
「なにが……ですか?」
問い返す私の声は、小さな反響となって部屋の静寂に溶けていく。
「俺は、ステラをなるべく置いていきたくないと思っていたんだ。それこそ、一度お前を置いて離れたから……同じ思いは、させたくないと」
お父様の言葉には、昔の影が色濃く宿っていた。
あの頃──赤子の私を残して行ってしまったあの日々のこと。
親が全てだと思い込んでしまう年頃に、あの仕打ちは、まるで真冬のように冷たく、寂しく、孤独だった。
「わかってます。お父様が、全て私のために行動してくれていること……さっきの言葉は忘れてください。……それに、昔と違うことだってあります」
「違うこと?」
「はい。アレスがいてくれます。お父様が戦場に行ってしまわれるのは心配ですし、寂しいですが……置いていった、なんて思いません」
私の言葉に、お父様は少しだけ表情を和らげた。けれど、その瞳の奥には、まだどこか寂しげな色が宿っていて──それは、私よりもずっと深い孤独を抱えているような、そんな気がした。
「ステラは本当に……聡明で、美しいな……」
「お母様に似てますか?」
そっと問いかけると、お父様はふっと短く笑った。
「ふっ、ああ。そっくりだ。……魔法学校に行かせるのが心配だな。男が皆、寄ってきてしまう」
「まあ、それは恋愛するのに好都合ですわね?」
唇に微笑を乗せて返すと、彼はぐっと言葉に詰まり、渋い顔をした。
「……アレスに見張りを頼んでおく。恋愛させる気はないからな」
思わず噴き出しそうになったけれど、私は笑わずにその言葉を胸に抱きしめる。ただ少し話しただけで、こうしていつもの調子が戻ってくる私たちは、誰が見ても仲の良い父娘そのものだ。
……嬉しい。たまらなく、嬉しい。
昔とは違う。帰ってきてもまた、月に一度の食事から始まるような距離感じゃない。
今はこうして、お父様が夜の訪れと共に私の部屋に来てくれる。
だから、今だけは──今だけは、甘えてもいいよね?
「お父様……お願いがあります」
私の声に、彼は優しい眼差しを向けた。
「なんだ? なんでも聞くぞ」
その言葉に、私はほんの少しだけためらい、そして一歩、彼に近づいた。
「私と── 一緒に寝ていただけませんか?」




