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第二話 ずっとこうして欲しかった



前世の私が大好きだった漫画、『恋を知った大聖女』。


それは、前世の私が暮らしていた日本から、リナという女性が突如異世界に転移してくるところから始まる物語だった。


異世界に転移してきた者は、“聖なる力”をその身に宿しているとされ、古くから「聖女」と呼ばれてきた。リナもまたその一人で、異邦の民でありながら、まっすぐで純粋な心と癒しの力を持つ聖女として国民から慕われていく。


宮廷に迎えられたリナは、浄化や治癒といった聖なる魔法を学び、限界を超えるまで自らを酷使し、病める人々や傷ついた兵士たちを救い続けた。


瘴気に蝕まれ、人が住めなくなった土地にも赴き、己の命をすり減らすように浄化を行った。魔力が尽きて倒れ、生死の境をさまようことすらあった。


それでも彼女は笑っていた。──宮廷の人々の優しさに報いるために。国民のために。美しく、健気なその姿に、人々は涙し、祈り、尊敬を深めていった。


そして彼女に心惹かれていった一人の男がいた。皇太子、マティアス・ヴィン・リンジー。


本来ならば公爵令嬢であるステラ・アルジェラン──つまり“私”との婚約が決まっていた彼は、日に日にリナに心を奪われていった。


その関係に嫉妬し、逆上したステラは、嫉妬とプライドに狂い、怒りの矛先をリナへと向ける。


魔法学校では毎日のように彼女を痛めつけ、辱め、心を折るような暴言を浴びせ、苛烈ないじめを繰り返した。


リナは次第に心を閉ざし、聖なる力を使えなくなっていった。


──けれど、マティアス殿下はそんな彼女を助け、支えた。


陽だまりのような笑顔で外へ連れ出し、楽しいことを一緒にたくさんして、何度も何度も「君を愛している」と伝え続けた。


やがてリナは再び力を取り戻し、マティアス殿下はついに決断する。ステラとの婚約を破棄し、リナと新たな人生を歩むことを。


婚約破棄の準備は整い、いよいよ明日、その事をステラに告げる──という日のことだった。


リナの部屋に運ばれた紅茶に毒が盛られ、彼女は昏睡状態に陥る。


一週間もの間、意識を失った彼女の命は風前の灯だった。


捜査の結果、毒入りの小瓶が私――ステラの部屋から発見され、使用人に小瓶の中の液体を入れるように支持したことがわかった。


そして、私の父であり最強の魔法騎士のディル・アルジェラン公爵の手によって、私は処刑されたのだ。


その後、リナはゆっくりと回復し、マティアス殿下と婚約。献身的な努力を続け、大聖女の称号を授かり、国を導きながら幸せな人生を送った──というのが、漫画の中で語られた“美しい物語”だった。


……だが、


「ぜんっっっっっっっっぜん違う!!!!」


バンッ、と鋭い音が部屋に響いた。私は思わず書きかけの紙を握りしめ、ぐしゃぐしゃに丸めて、六歳の小さな身体の力をありったけ込めて壁に投げつけた。


「リナは努力して治癒や浄化を行ってたどころか、むしろ!困ってる国民に大金を要求して、それが払えなければ平然と見捨ててたじゃない!!」


あの女が国民に優しくなんて──そんなの全部、嘘っぱち。


マティアス殿下やお父様、重臣の前だけで“清らかな聖女”を演じていただけで、その他大勢の前では、まるで別人だった。


「……マティアス殿下とお父様に関する描写だけは、まぁ、合ってるけど……ステラとリナなんて、そもそもほとんど接点なかったんだから!!」


そもそも、いじめなんてしてないし、毒なんか盛ってない。証拠とされた小瓶だって、誰かが置いたに決まってる。なのに、どうして私は……。


悔しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。


──お父様とリナがどういう関係だったのか、当時の私は詳しく知らなかった。けれど、リナがお父様に特別な感情を抱いていたのは、明らかだった。


あんな性格の女が、お父様の前ではしおらしくなってたんだから。


……まぁ、無理もないけど。だって、うちのパパ、顔がめちゃくちゃ良いから!!!


物語の中でも父・ディル・アルジェラン公爵は重要人物として描かれていた。


寡黙で感情をあまり表に出さないけれど、努力家なリナにだけは微笑みを見せ、聖なる魔法の扱いを教え導いた。


そのこともあってか、実の娘が罪を犯したにも関わらず、公爵家は罰されることはなかったらしい。多分、リナの浮ついた心から来る"自称"慈悲心ね。


もしかしたら、処刑人にお父様を任命したのはリナだったのかもしれない。


きっと全部……リナの筋書き通りだったんだ。


そんな思考を巡らせていると、コツンコツンと扉が叩かれ、侍女のサリーが入ってきた。


「失礼します、お嬢様。明朝、旦那様は皇都の屋敷にお戻りになるそうです」

「えっ、もう?」


驚きの声が思わず漏れる。


「はい。今回もいつも通り、月に一度一泊されて、お戻りになるそうです」


そうだった。お父様は、私をこの領地の公爵邸に住まわせ、自分は皇都の本邸に暮らしていた。月に一度、領地の視察という名目でやって来ては、一泊だけして翌朝には帰っていく。


皇都に近い領地だから、日帰りでも充分なはずなのに……わざわざ一泊していくのは、父のせめてもの“親心”なのだろうか。


(……まぁ、その夕食の時間、私に一言も話しかけないんだけどね)


空気は冷えきっていて、言葉が凍りつくような沈黙が続く。正直、胃が痛くなる時間だけど──


でも。


でも、今しかない。


今夜の夕食こそが、私にとって唯一の“チャンス”だ。

もし今を逃したら……次は、また一ヶ月後になってしまう。


私は小さな手をぎゅっと握り締め、息を吸い込んだ。


(絶対に、逃さない)


そう心に誓い、夕暮れの空を見つめた。


◇◇◇



そしてやってきた、夕食の時間。


長い食卓の端と端に座るのは、私とお父様のふたりだけ。

広すぎる食堂には、カチャカチャとナイフとフォークが皿に当たる音だけが虚しく響いていた。

背後に控える使用人たちでさえ、その静けさに気まずそうに眉をひそめている。

誰ひとりとして言葉を発する者はおらず、まるで空気そのものが凍りついているかのようだった。


(……お父様は、そんな空気に気まずそうな顔一つしないわね)


まあ当然だ。

自ら「月に一度だけは会う」と決めた義務的な滞在なのだから。


それでも、私はほんの少しの希望を胸に抱いていた。

ほんの少しでいい──普通の、親子のように会話がしたかった。


私はナイフとフォークを静かに皿の上に置くと、胸の奥でぎゅっと固まっていた緊張を手で押さえ、そっと息を吐いた。


「……お父様。明日、帰られてしまうのですか?」


お父様は食事の手を止めることなく、私に目も向けずに返す。


「ああ」


その無機質な返事が、胸の奥にズシンと重くのしかかる。

それでも、引き下がるわけにはいかなかった。


「……どうしても、帰らなければならないのですか?」

「なぜだ」


短い一言が、突き放すように返ってくる。

私の問いには何の感情も込められていなかった。


お父様は相変わらず、私を見ない。皿を見つめ、ただ淡々とナイフを動かしている。


その様子に、胸の奥がズキズキと痛んだ。

これは……この体の、六歳の私の感情だ。


寂しい、悲しい、つらい。


ずっと、ただ見てほしかった。

話をしたかった。

私が「ここにいる」と、認めてほしかったのだ。


……もう、我慢しなくていい。

六歳の私のためにも、この気持ちは伝えなくちゃ。


「……寂しいのです。お父様がそばにいない、この広いお屋敷は」


言葉にすると、喉の奥が熱くなった。

それでも必死に抑えて、震える声で続ける。


「……今まで、そんなこと言ったことはなかっただろう」

「……言えなかったのです。お父様の迷惑になってはいけないと思っていたから」

「なら──」

「それでも、もう少しだけ一緒にいたいです」


一瞬、お父様の手が止まった気がした。


「……お父様は、お母様に似た私の顔や髪色を、見たくないかもしれませんが──」


そう言った瞬間、お父様の動きがぴたりと止まる。


沈黙が落ちた。


やがて、お父様は音もなく立ち上がる。

皿の上にはまだ食事が残っていた。


「……食事を終えたら、私の部屋に来い」


それだけを言い残し、お父様は部屋を出ていってしまった。


「……えっ」


ぽかんと口を開けたまま、私はお父様の背中を見送った。


(……お、怒らせた……!?)


部屋を出ていく直前、一瞬だけ見えたお父様の横顔が、心なしか沈んでいたように見えた。


……まさか、本当に母のことを思い出させるような発言は禁句だった……?


(あああ、まずい……! 怒られるかも……いや、怒るってどんなふうに!? 叱られる? 睨まれる? それとも……無言で無視!?)


頭の中が混乱でぐちゃぐちゃになる。

目の前に出されている豪華な夕食の味なんて、もう何も覚えていなかった。


◇◇◇



食事を終え、私はすぐにお父様の部屋へ向かった。

重厚な扉の前に立ち、胸の前で手を組んで深く息を吸う。けれど、吐き出した息は緊張で震えていた。


(どうしよう、怖くはないけれど……心の準備が……)


何度も深呼吸を繰り返しながら、そっと手を伸ばそうとするも、なかなかノックができない。

すると、不意に目の前の扉が音もなく開いた。


「さっきから何をしている……はやく入れ」


いつものように無表情なお父様が立っていた。

でも、その声にはどこか呆れと、ほんの少しの柔らかさが混じっているように感じた。


「は、はいっ……!」


(ば、バレてた……!? 恥ずかしい……っ)


顔が熱くなるのを感じながら、私はそっと部屋の中に足を踏み入れた。

部屋は広く、壁際には本棚が並び、シンプルながらも気品ある家具が整然と並んでいる。

その一角にあるソファに、お父様がゆったりと腰を下ろしていた。

私はその向かいの席に、少し躊躇しながらも小さな身体でよいしょ、と飛び乗るようにして座った。


再び、沈黙。

大きな振り子時計の針の音だけが、部屋の中にコチコチと響く。


(長い……沈黙が、こんなにも長く感じるなんて……)


たった数秒のはずなのに、心臓の鼓動がひとつ鳴るたびに時間が引き延ばされていくようだった。

やがて、静けさを破るように、低く落ち着いた声が部屋に響く。


「……ずっと、あんなことを思っていたのか?」


思いがけない問いかけに、私はお父様の顔を見上げた。

視線はまだ合わない。でも、声の調子がわずかに揺れているように感じた。


「はい……。私の家族は、お父様しかいないから……。さっきは、お母様のことを思い出させてしまって……ごめんなさい」


声が震えないように、精一杯堪えながら言葉を紡ぐ。

ドレスの裾をキュッと握りしめ、視線を下に向けた。


また、少しの沈黙。


お父様は、言葉を慎重に選んでいるようだった。

そして、ぽつりと呟くように言った。


「……お前を見ていると、セレーナを思い出す。それは、間違っていない」


(……やっぱり。お母様にそっくりだもの、私)


「だが、セレーナを思い出すのが嫌なわけではない。……忘れたくない。むしろ……忘れるのが、怖いんだ」


その言葉に、私はハッと息を呑んだ。

お父様の拳が、無意識に強く握られているのが見えた。

きっと、心の底に沈めていた、本当の気持ち。


十六歳という若さで、最愛の人を失った――その悲しみが、どれほど深いものだったのか、ようやくわかった気がした。


「お前がセレーナによく似ているのは……本当は、嬉しいんだ。けれど……似ているからこそ、関わるのが怖かった。今にも消えてしまうような幻のようで……」

「……はい」


私はただ、頷いた。

お父様の声が、少しだけ震えているように感じた。


「私は……嫌われているのかと思っていた」

「そんなこと──っ」

「いいや、そう思われて当然なんだ。父として、お前に何一つ、してやれなかった」


その口調には、深い悔恨が滲んでいた。

十六年間、どこかで感じていたお父様の不器用さが、ようやく言葉になってこちらへ届いた。


「このままだと、セレーナに怒られてしまうな」


静かに、そう呟いたお父様はふっと笑った。

それは、私が初めて見る微笑みだった。


(ああ……お母様は、きっとこの笑顔に惹かれたんだ)


どこか儚げで、それでいてあたたかい──そんな笑み。


「お前……ステラさえ良ければ、これから父としてお前のそばにいたいと思っている」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

初めて──名前を呼ばれた。初めて、真正面から見つめて、そう言ってもらえた。


私の瞳から、堰を切ったように涙があふれ出す。


これは……六歳の私の感情。

けれど、本当は十六歳だった私だって、ずっと、ずっと欲しかった言葉。


ああ、どうして、前の人生ではあんなにもすれ違ってしまったのだろう。


「お父様……っ、ぎゅってしても、いいですか……?」


声を震わせながらそう問うと、お父様はすぐに立ち上がり、私の目の前に歩み寄る。

そのまま、私の身体を軽々と抱き上げ、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。


初めて知る、お父様の温もり。

想像よりもずっと大きくて、ごつごつとした腕。でも、そのすべてが優しかった。


「六年も……一人にして、悪かったな」


低く、けれど確かに胸の奥に届く声でそう言いながら、私の背中をぽんぽんと優しく叩いてくれる。


私はもう、言葉にならなかった。

しゃくり上げる声を止められず、ただただ子どもらしく、お父様の胸の中で泣き続けた。


その涙には、六歳の私と、十六歳の私──ふたつの想いが重なっていた。


──ずっと、こうしてほしかった。


そう、心の中で何度も繰り返しながら、私は父の温もりに包まれていた。


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