第十九話 揺れる茶会と戦の前触れ
「そういえば、マシェリ伯爵夫人、愛人がいることがバレてしまって、今大変なんだそうですわよ」
紅茶の香りの向こうから、妙に鼻につく声が飛んできた。
「まぁ、なんてはしたない。大人にもなって……みっともないですわね」
「私のほうは婚約者が決まっていますから、生涯夫だけを愛しますわ」
……まだ十二から十四歳のご令嬢たちから「愛人」「夫」なんて言葉が飛び交う光景に、私はただ静かに紅茶を啜った。
(……本当に、子供らしくない会話)
秋の風がそっと吹き抜ける昼下がり。我がアルジェラン公爵家の広い庭園では、日差しを避ける真っ白な天幕のもと、ティーカップを手にした貴族令嬢たちの声がひらひらと舞っている。
──なぜこんなことになっているのか。
◇◇◇
二週間ほど前のことだった。机の上で山のようになっていた封書を整理していた時、私はふと息をついた。
「……お茶会の招待状が多いわね」
貴族令嬢たちからの茶会の招待状。それが届くようになったのは、ちょうど十歳を迎えた頃からだった。
私はアルジェラン公爵家の娘。周囲が子を使ってでも繋がりを作ろうとするのも、ある意味当然のことなのだろう。
ただ、私は一人で他家に出向くことをお父様があまり好まないことを知っていたし──お父様が同席などしたら、それはそれで気まずくて地獄絵図でしかない。
(……だったら、いっそ)
気軽な気持ちで、自宅で一度茶会を開くことにした。入学前の顔合わせも兼ねて。招待状は、以前から手紙をくれていた伯爵家や侯爵家の令嬢たちに送った。
……その結果が、今のこの状況である。
(想像以上に……会話の内容がキツい)
場に馴染めず、口を挟むこともできずにいた私に、ふと向かい側から声がかけられた。
「失礼ですが、ステラ様……気になることがありまして、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
言葉を選びながら問いかけてきたのは、ノヴァトニー侯爵家のご令嬢、ニヴィア様。品のある整った顔立ちに、淡い銀の巻き髪が揺れていた。
「ええ、どうぞ」
彼女は少しだけ眉をひそめ、慎重に言葉を紡ぐ。
「……わたくし、八歳までは四大公爵家にはご令嬢が一人もいないと聞かされていたのです。でも、ある時を境にアルジェラン公爵家にご令嬢がいるという噂が立ちはじめて……その、何かご事情があったのでしょうか?」
一瞬、場の空気が止まった。
ほかの令嬢たちも、戸惑いの表情を浮かべながらも、ニヴィア様の言葉を否定する様子はなかった。
(……ニヴィア様が八歳の時。つまり、私が六歳……その頃まで、お父様は私の存在を公には伝えていなかったの?)
胸の奥に、ひやりとした冷たい風が吹き抜ける感覚があった。
「……皆さんが私を知らなかったこと、今初めて知りましたわ。確かに私は六歳まで、皇都に住むお父様とは離れて暮らしておりましたの」
そう説明すると、ニヴィア様は小さく息を呑み、真摯に頭を下げた。
「そうでしたの……失礼なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
「いえ。お気になさらず。教えてくださって嬉しかったですわ」
口元に微笑みを浮かべながらも、内心では混乱していた。
(やり直し前の人生では、こんな話は聞いたことがなかった……)
お父様が私を……意図的に隠していた?
記憶のどこを探っても、そんな素振りを見たことはなかった。だとしたら──今の私の人生は、やはり前と違う道を歩みはじめているのかもしれない。
(……今は気にしないでおきましょう。せっかくの茶会ですもの)
気持ちを切り替えようとした瞬間、別の話題が飛び込んできた。
「そうですわ、ステラ様はマティアス殿下の婚約者候補って本当ですの?」
「え? 私はマーリン公爵家のフレデリック様が推されていると聞きましたわ」
「ダーツロー侯爵家のマリウス様というお話もあるとか……」
「ふふっ、すべて噂にすぎませんわ」
口角を保ちつつも、内心では悲鳴を上げていた。
(き、きつい……)
私はこの類の話に絶望的に慣れていない。
もちろん、やり直し前の人生でマティアス殿下と政略的な婚約を結んだことはある。だが、それはあくまでも形式的なもの。
そして今は、マティアス殿下以外の名までもが噂されている。フレデリックに、マリウス……どれも、やり直し前には関わりのなかった名前たち。
(未来が少しずつ、変わりはじめているのね……)
「私は、まだ公爵家からあまり出ませんので……どの方ともお会いしたことはございませんの」
「そうですわよね。私たちとも今日が初めてのお顔合わせですものね」
「では……魔法学校に入学したら、婚約者が決まるのでしょうか?」
「……ええ。そうかもしれませんわね」
私は静かに、紅茶に映る自分の瞳を見つめた。
魔法学校の入学まで、あと半年。
その先で、私は──誰と出会い、誰と心を通わせるのだろう。
やり直し前にはなかった出会いが、果たして幸せを運んでくれるのだろうか。
風が、紅茶の香りをひとひら揺らした。
◇◇◇
「これ以上、サダーシャ帝国との戦争は避けられまい……っ」
静まり返った会議の間に、皇帝陛下の悔しげな低音が響いた。
その言葉に場の空気が一層重く沈む。天上から吊るされたシャンデリアの煌きすら、どこか陰りを帯びているようだった。
発端は──六年前。
俺が、我が娘ステラを誘拐し、殺そうとしたアレスに差し向けられた刺客を始末した時に遡る。
刺客は二人。どちらも容赦なく、迅速に……俺の手で始末した。あの時、ステラの命が危うかったのだ。確認などしている余裕も理由もなかった。
だが、殺した刺客のうち一人が、サダーシャ帝国の出身者だった。
国境に存在する無法地帯・デスラの領有権を巡って睨み合いが続く中、皇国と帝国の間では“暗黙の協定”が存在していた。捕らえた暗殺者は原則として本国へ送還する──そういうルールだ。互いに破ることがあっても、黙して語らずが常識だった。
なのに──誰かが、俺が仕留めた刺客の身元をわざわざ洗い出し、サダーシャ帝国に密告したのだ。
その結果、帝国は「皇国にデスラを押しつける」という形で強硬な姿勢に出た。
だが、皇国はそれを拒否した。
さらに悪いことに、帝国は「皇国から刺客が皇帝に送り込まれた」と発表し、両国関係は急激に悪化。
以来、四年もの間、戦争という最悪の事態をギリギリで食い止めている──そんな不安定な綱渡りが続いていた。
「はぁ……まったく、誰が帝国に刺客など送ったのだ」
皇帝陛下は頭を抱え、肩を落とす。戦争を回避したいという気持ちは痛いほど伝わってくる。
それもそのはずだ。デスラの引き取りを拒否したのは、国内の治安が乱れると見越しての判断。実際、デスラは犯罪と魔物の温床。皇都にあの地の負債を持ち込むわけにはいかない。
だが、次の瞬間、会議の扉が音を立てて開いた。
「まあまあ、陛下。そんなに深刻な顔をなさらなくても──うちには“最恐”とまで言われるアルジェラン公爵が控えているではありませんか」
艶やかな声と共に現れたのは、皇后・ジアーナ。煌びやかな衣装に身を包み、厚化粧で顔を塗り固めたその姿は、どこか仮面のようで……不気味ですらある。
「ジアーナ。政は男の役目だ。ここに入ってくるでない」
「まぁ、失礼。あまりにも皆様が深刻そうでしたから……ねぇ、陛下? こんなことになるなんて──思いもよらなかったでしょう?」
その目が、あからさまに俺へと向けられる。
まるで、全てを予見していたかのような視線。
「相手は帝国だ。魔法を持たぬ国とはいえ、軍事力は皇国を上回るだろう。短期で終わらせるには……戦力の集中が必要だ」
皇帝が呟くように言った時、隣の老臣が身を乗り出した。
「そんな……!! 陛下、戦を避けたくば、デスラの引き取りを受け入れ、刺客を送った者を突き止めて処刑し、帝国に詫びる他に道はありません!」
「……とはいえ、近頃の帝国は皇国を明らかに侮っている。甘い顔ばかり見せていれば、付け上がるだけですぞ」
別の老爺が鼻を鳴らすように言った。
これが現実か──。
自ら戦場に出るわけでもない老人共が、戦をまるで賭け事のように語る。
勝てば自分たちの手柄。
負ければ兵士の責任。
この国は──いや、この会議の空間は、腐っている。
けれど、仮に帝国の要求を呑めば──皇国は、いや、皇都は今以上に治安が乱れるだろう。ステラを危険に晒す可能性も、飛躍的に高まる。
……それだけは、絶対に避けたい。
「元々の原因は、アルジェラン公爵にありますゆえ……」
先ほどの老耄が、にやりとした口元で言った。
「責任を取っていただく意味でも、最前線で戦っていただくのが筋ではありませんかな?」
──そう来ると思っていた。
「……ふっ、いいでしょう」
俺は静かに立ち上がり、冷たい床の音を響かせながら皇帝の前へ進み出た。
「陛下。戦争となれば、アルジェラン公爵家──このディル・アルジェラン。命を賭して最前線に立ちましょう」
俺の言葉に、会議の間は一瞬、息を呑んだように静まり返った。
その沈黙を破るように、ジアーナ皇后が口角を吊り上げた。
「ふふ……頼もしいことですわね」
まるで、思い通りに事が進んでいるかのような笑み。
いいさ。望むところだ。
俺は──ステラを守るためなら、いかなる修羅の道だろうと、進む覚悟はある。