第十六話 ディルとセレーナ③
「あぁ、いま……痛い、っ」
セレーナの腹の中で、我が子は静かに、確かに、育っていた。
そして──その日はやってきた。
強く張ったお腹を抱えるようにして、ベッドに身を横たえたセレーナは、痛みに顔をしかめながらも、どこか楽しげに笑っていた。もうすぐ、私たちの子に会える。その思いだけが、彼女の不安と痛みを支えていたのだろう。
「腰、さすってるからな……少しでも楽になれば……」
俺にはそれくらいしかできなかった。
陣痛の波は容赦なくセレーナを襲い、時に彼女は身をよじって痛みを耐える。俺はただその背を摩り、汗を拭き、彼女の手を握り続けた。情けないほどに、無力だった。
男は、なんて無力なんだ。
どれだけ剣を振るえようと、どれだけ魔法を扱えようと──命を生み出す前には、何ひとつできない。ただ祈ることしかできない。
「多分ね……この子、ディルに似てると思う」
「どうしてそう思う?」
「陣痛が始まってから、すごい魔力が……溢れてくるの」
「じゃあ……男、か?」
「ふふ、そこまではわかんないけど」
そんな会話も、今となっては遠い過去のように感じられる。
助産婦が部屋に入り、時間が静かに、でも確実に進んでいく。
「全然まだよ、これからが本番。もっと痛くなるからね!」
「ええ~、これ以上? 痛みに強い方だと思ったのに、これは……きっついなぁ……」
「俺ができることなら、なんでもするから! だから、セレーナ……」
「うーん……でも、いざ産まれるってなったら、ディルに見られたくないかも」
「えっ……?」
「冗談よ、冗談。……でも、ちょっとだけ本気」
そうして数時間後。
「ほら、産まれるよ!いきんで!」
「ゔぅ……っ、痛いっ……痛いぃぃっ!」
「頑張れ……! もう少しだ、もうすぐ……!」
「ホギャァァ!!」
生まれたのは、女の子だった。
赤子の泣き声が、静かな部屋に響き渡る。か細くて、でも確かな命の証。ああ、これが俺たちの……命の繋がりなのだと、胸が熱くなる。
赤ん坊はセレーナにそっくりだった。小さな唇、柔らかそうな頬。けれど、瞳だけは俺と同じ蒼。真っ直ぐで、透明で……俺の中にあった何かがほどけていく気がした。
「かわいいな……」
「はぁ……本当に……可愛い」
「セレーナ、ありがとう……!」
頬に涙が伝ったのを感じた。こんなにも幸せで、嬉しくて、息が詰まりそうだった。
まだ十六歳。親になるにはあまりに若すぎるかもしれない。でも、それでも――俺は彼女となら、生きていけると思っていた。
「……あれ、なんか寒い……」
「セレーナさん、もう少し頑張って!」
その時だった。
お産が終わったと思った矢先、空気が一変した。
医者と助産婦が慌ただしく動き出し、何かを言い合っている。だが、その内容は俺の耳には届かない。いや、届いていたのに、受け入れたくなかったのかもしれない。
セレーナの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。さっきまで赤子を抱いて微笑んでいたその頬が、驚くほど早く白くなっていくのが怖かった。
「セレーナ!? おい、大丈夫か!? なぁ、しっかりしてくれ……!」
「……うーん、眠い……」
「ダメだ、寝ちゃダメだ! なぁ、名前……名前決めよう! この子の名前!」
「……ん……女の子だったらって……考えてて……」
「そうだな……だから、寝るな、セレーナ……!」
「……ステラ、がいい」
「ステラ……?」
「お花の……名前……小さな……強さ……。愛らしい、家族愛……そんな花言葉、素敵でしょ……?」
ぽつりぽつりと呟いたその言葉が、彼女の最後だった。
「セレーナ!? セレーナ!! 返事してくれ……! なぁ……!」
「ディル……ステラを……よろしく……」
目を閉じた彼女は、二度とその瞼を開けることはなかった。
それでも医者は諦めなかった。助産婦たちも、震える手で処置を続けていた。けれど……その必死の努力のすべてが、虚しく、そして静かに打ち消されていくのを俺は見ていた。
セレーナの腕に抱かれた小さな赤子――ステラが、力強く泣いていた。
「オギャァァ……ホギャァァ!!」
その声だけが、生の証として響いていた。
「……もう、いい。……下がってくれ」
「……申し訳ありません、力及ばず……」
医者の言葉は、まるで遠くの鐘の音のように、現実味がなかった。
後から知った。
若い女性の出産は、産後の出血が多くなることがあると。知らなかった……
いや、きっと調べようともしなかった俺が悪いのだ。守ると言ったのに、誓ったのに、俺は──セレーナを死なせてしまった。
その事実だけが、冷たく俺の胸に突き刺さっていた。
ステラは小さな掌を動かして、今にも消えてしまいそうな温もりを、母の亡骸に求めていた。
俺はその手を包み込み、泣き声を聞きながら、彼女の名を心の中で何度も叫び続けた。
「……セレーナ……セレーナ……」
そして、ただ静かに──その夜、俺は初めて父になり、そして、最愛の人を喪った。
命の誕生と引き換えに、命が消えていった。その現実が、あまりにも理不尽で、受け入れがたくて、息をすることさえ苦しくなった。
ステラを見る度に、セレーナによく似た顔がそこにあって、どうしようもなく胸が締めつけられた。
まだほんの赤子だったステラは、目をぱちぱちと瞬かせて、俺を見上げる。その瞳は、俺と同じ蒼だった。セレーナのように笑って、セレーナのように泣いて、それでもどこまでも小さくて弱い命だった。
自分に似た瞳が、ただ、怖かった。
つい昨日のように思える。あの夜、二人でステラの未来を語り合った。お腹の子はどんな子になるだろうか、名前はどんな響きがいいだろうか。セレーナが「早く三人で暮らしたいね」と微笑んで言ったあの声が、耳から離れない。
未来を夢見たはずだった。三人で笑いながら生きていく、そんな当たり前の光景がすぐそこにあったはずなのに。
今はもう、隣に彼女はいない。
ステラを抱きしめるたびに、セレーナの不在を突きつけられる。
(セレーナに、ステラをよろしくって……頼まれたんだ。しっかりしないと……)
そう思って、最初のうちは毎日ステラに会いに行った。何度も何度も揺り籠を覗き、眠るその顔にセレーナを重ねた。
小さな手が、俺の指をぎゅっと握ったとき、胸が熱くなった。
でもその幸せの瞬間が、次第に俺の心を壊していった。
四ヶ月が経った頃だった。
ある日、皇都の外れを歩いていたとき、偶然目にした光景。薄暗い路地裏で、男が一人、嫌がる女性に無理やり手をかけようとしていた。
その光景が、セレーナとハイルドの過去と重なって見えた。
声が出なかった。ただ、全身が勝手に動いた。
気がつくと、俺は剣を抜いていた。そして、その男を、魔法も使わず、ただこの手で……何度も、何度も突き刺していた。
刃を通して伝わる温もり。肉を裂く音。血が跳ねる感覚。
止められなかった。ハイルドの面影をそこに重ねて、俺は――ただ、殺した。
……それからだ。
俺は、自分の手で人を殺したという現実から、ステラに触れることを自ら禁じるようになった。
この手で触れてはいけない。あの子を穢してしまう気がした。
会わない理由を、いくつも、いくつも探して、無理やり納得して、やがて俺は領地を離れた。ステラを屋敷に残したまま、タウンハウスに身を移した。
心に空いた穴を、剣術で、魔法で、戦うことでしか埋められなかった。
時間のすべてを稽古に費やした。体が壊れてもいいと思った。むしろ壊れた方が、楽になれるような気さえした。
戦争の第一線で戦う魔法騎士団にも、自ら志願した。どうせなら命を削る場所にいたかった。戦争の足音が近づいていることは、既にその立場から知れていた。
十八になったとき、ついに戦争が始まった。
相手は海の向こうの軍事国家。魔法を持たぬ代わりに、圧倒的な数と規律で攻めてくる鉄の軍団。
その戦いで、俺は人を何人も、何十人も、何百人も殺した。
命の重みなんて、とうに感じなくなっていた。人の感覚というのは恐ろしいほどに慣れてしまう。
殺しても、何も感じなかった。
ただ、戦場のどこかで──ふと思った。
(……こんなにも簡単に殺せるのに……どうして、あの時、ハイルドを殺さなかったんだ)
直接的な死因にハイルドは関係ない。それはわかっていた。それでも誰かを恨んでいないと、心が壊れてしまいそうだった。だから、俺はずっと、あいつを恨んでいた。
戦争が終わったのは二十歳になった頃。勝利した軍として国へ戻ってきた俺の耳に、ある病の流行が届いた。
子どもがかかると重症化する病。最悪の場合、命を落とすとも言われていた。
ステラの顔が、浮かんだ。
(もし、ステラが……)
もう四年近く会っていない。
今さら自分が父親だと名乗る資格があるのか――そんなことすら、わからなかった。
それでも、気がつけば、俺は転移魔法陣を組み、領地へ向かっていた。
どうしても、いてもたってもいられなかった。
“あの子がもし病気で死んでしまったら”――たったそれだけの想像が、今の俺を動かすには十分すぎる理由だった。
逃げ続けてきたのに。
見ないようにしてきたのに。
なのに、あの子のことを考えると、恐ろしくて仕方なかった。
──また、家族を喪うかもしれないという現実に。
そして、四年ぶりに対面した。
「……おとーさま?」
透き通るような、高く澄んだ声だった。
まっすぐに俺を見上げるその瞳は、まるで、何の迷いもなかった。
そこにいたのは、赤子だった頃の面影をそのまま残しながらも、数倍に成長し、しっかりと自分の足で立つ少女だった。
セレーナによく似た、どこか儚げで優しい顔立ち。
けれど、その瞳だけは──俺と、まったく同じ色をしていた。
俺の中で、何かが決壊する音がした。
胸の奥から、せき止めていた感情が一気に溢れてくる。
懐かしさとも、後悔とも、愛しさとも言えぬ何かが、喉の奥を詰まらせた。
(……ステラの傍に、いたい)
そう思った瞬間、罪悪感が背中を突き刺した。
今さら何を、と思った。
屋敷に金だけ送り、顔すら見せずに過ごしてきた四年間。
その間、ステラはどれだけ孤独だったか――考えるだけで、胸が苦しくなる。
それでも、願ってしまったのだ。
この子の傍に、いたいと。
自分のどす黒い感情すべてを抱えたまま、それでも、父でありたいと。
それほどに、ステラは俺の心に、最初から深く、深く、刻まれていたのだ。
あとからサリーに聞けば、「瞳と同じ色がおそろいだったのよ」と呼んだのだと言っていたらしい。
たったそれだけで、俺を父と呼ぶなんて……
……情けないほど、救われた。
すぐにタウンハウスへ連れて帰ることも考えた。
だが、それはあまりにも自分勝手すぎると思いとどまった。
だから俺は、月に一度、ステラと食事をすることから始めることにした。
たったそれだけのことすら、決意しなければできなかった。
ステラにとって、あまりにも不十分な父親だった。
そして、思っていたよりも、自分は“父親”という役目にあまりにも不慣れだった。
いざステラを前にすると、どう接していいのかわからなかった。
子どもに向けるには冷たすぎる口調。
そんなことは自分でもわかっていた。
けれど、どう変えたらいいのかも、どんな言葉をかければいいのかも、わからなかった。
優しい父親を演じようとすればするほど、不器用さばかりが目立ち、ぎこちない態度が浮き彫りになってしまった。
それでも──ステラに会うたび、俺の中の何かが確かに変わっていった。
あの子の存在が、長い戦争で麻痺していた“人の心”を少しずつ蘇らせていった。
ふとした笑顔に救われ、些細な言葉に胸を打たれ、俺は――あの子を守りたいと思うようになった。
だが、結局、俺にできたのは月に一度、食事をするだけだった。
◇◇◇
「六歳になって……ステラが、はじめて“寂しい”って言ってくれるまで……結局、俺は何もできなかったんだ」
そう呟いたお父様の声は、どこか遠くを見つめるように掠れていた。
「こんな膨大な力を持ちながら……好きな女一人、守れなかった。命懸けで娘を産んでくれたあいつに、俺は……何一つ応えられなかったんだ。ステラのことだって、放って……」
その間、お父様は一度も私の顔を見なかった。
いや──見られなかったのかもしれない。
強さの象徴とされたこの人が、自分の過去を語るたびに、少しずつ言葉を絞り出すように目を伏せる姿を見て、ふと思った。
目の前にいるのは、国で最強と謳われ、魔物すら怯む“魔法騎士”ではなかった。
ただ一人の娘に向き合おうとしている、二十四歳の――未熟な父親だった。
きっと、ずっと自分を責め続けてきたのだろう。
誰よりも強くあろうとして、誰よりも人間らしい弱さを抱えていた。
やがて、お父様はゆっくりと、ためらいがちに私の方へ視線を向けた。
目の奥に浮かぶのは、不安と、怯えと――少しの期待だった。
「……嫌いになった、だろう?」
その言葉とともに浮かんだ表情に、胸がぎゅっと締めつけられた。
それでも──私が願っていたこと、想像していたことは、やはり本当だった。
やり直す前も、お父様は私のことを、ちゃんと愛してくれていたんだ。
それが、どこで狂ってしまったのかはわからない。
でも、その愛が確かにあったという事実だけで、
あの頃の私の心は──たしかに救われた気がした。