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第十五話 ディルとセレーナ②



「ディル、忙しそうね」


扉の向こうからかけられた柔らかな声に、俺は一度手を止めて顔を上げた。セレーナがそっと微笑みながら立っている。けれど、その笑顔の奥にわずかな疲れが見えた気がして、胸がちくりと痛んだ。


「……もう少しだけ待ってて」


俺はそう答えて、再び机の上の山積みの書類に視線を落とした。ペンを走らせる手は止めない。公爵という立場がこれほどまでに過酷なものだと、就任したばかりの頃には想像もしなかった。


十四歳。まだ少年と呼ばれる歳でありながら、俺は家を、領地を、そして人々の命を預かっている。


治安の維持、税制の見直し、村の補修に関する協議、領民から寄せられる嘆願の数々。そのすべてに目を通し、ひとつひとつ判断を下していく。魔物の襲撃で家を失った者たちには補助金を。怪我を負った者には治療費を。たったそれだけのことにも、いくつもの承認と手続きが必要だった。


皇国会議や評議会にも参加する。名だたる貴族たちの中で、俺はたったひとり、幼い声で意見を述べた。誰もが聞き流すように扱っても、それでも俺は口を噤まなかった。


皇族との繋がりを保つための交渉。貴族同士の利害を調整するための婚姻の提案。すべてが終われば、舞踏会や祝賀会の準備に取りかかる。社交と儀礼、礼儀作法と駆け引きのすべてを十四の俺が担っていた。


本来なら大人がやるべき仕事だ。それでも、後見人のいない俺には、爵位を国に返すか、自ら引き受けるしか選択肢はなかった。


だから、俺は死に物狂いで働いた。ただひたすらに一人前になるために。そして──セレーナを公爵家に迎える、ただそれだけを希望にして。


「ふぅ、ごめん。待たせて。一旦休憩にするよ」


ようやく書類に区切りがついた頃、椅子から立ち上がってセレーナの元に向かう。彼女はぱっと表情を明るくし、まるで待ちくたびれていたことなどなかったかのように微笑んだ。


「ううん、大丈夫!! ディルに会えて嬉しいし」

「……ん、俺も嬉しいよ」


そっと手を伸ばして彼女の頬に触れ、小さく唇を重ねた。覚えたばかりの、子供のようなキスだった。ぎこちなくて、不器用で、でも何よりも温かくて、愛おしい。


それだけでは足りなくて、もう一度、そしてもう一度。繰り返しキスを交わす。


俺にとっては、このひとときが何よりも大切だった。けれど、今になって思う。──セレーナにとっては、公爵家にいるこの時間だけが、唯一心の休まる時間だったのだと。


もっと彼女を見てあげればよかった。もっと、抱きしめて、守ってやればよかった。


そう思ったのは、十五歳になった年。セレーナがもうすぐ四年生になる、春の出来事だった。


「ディル様!!セレーナ様が……!!」


悲鳴のような叫び声が屋敷に響き渡った。その瞬間、俺は手にしていた書類を放り出し、立ち上がった。胸の奥が嫌な音を立てる。足は勝手に動いていた。


玄関の先、倒れ込むようにして横たわるセレーナの姿が目に入った。


「……っ!!」


赤く染まったドレス。脇腹からは大量の血が流れ出していた。視線が合った瞬間、彼女の唇がかすかに動いた。


「ああ……ディル……っ」


駆け寄って彼女を抱きしめたとき、俺の中で何かが崩れ落ちた。


「セレーナ……ごめん、ごめんっ……俺、わかってたはずなのに……」


こんなことになる前に、守れたはずだった。彼女がどれだけの痛みに耐えていたのか、気づいていたのに。


「いやぁ……ははっ、いつ死んでもいいって……思ってた、けど……最期なら……ディルに……会いたくて……っ」


そう言って、彼女はまた微笑んだ。苦しげに、けれど確かに──笑っていた。


執事たちが叫び声を上げて駆けつけ、メイドたちがタオルや布を持って走り回る。止血の準備、担架の用意、必死の処置が行われる中、俺はただ、彼女の名を呼ぶことしかできなかった。


泣くばかりで、何もできなかった。


……それでも奇跡が起きた。


セレーナは助かった。傷は深かったが、魔法で貫かれた箇所がほんの僅かに内臓を逸れていたことで、命が繋がった。


安堵と同時に、俺はようやく理解した。今まで自分がどれほど無力だったか。守ると誓ったくせに、何一つ守れていなかったことを。


その夜、俺はペンを取り、セレーナの両親──ガルシア侯爵夫妻に宛てて手紙を書いた。


「セレーナは今、公爵家にいる。ハイルドからの日常的な暴力によって、命の危機に晒された」と。

「それを否定し、見て見ぬふりをするなら、あなた方も同罪だ」と。


怒りに任せて綴ったその文面は、後になって読み返せないほどの激情に満ちていた。


後日、セレーナの容態が安定した頃、彼女がぽつりと呟いた。


「私が悪いの……。ハイルドに、生きててほしかったから……」


その言葉に、俺は眉を寄せた。


「……どういうこと?」


セレーナは、窓の外に目を向けたまま、小さく息を吐いて続けた。


「ハイルドはね、親から……ひどい虐待を受けてたの。あのままだったら、死んでたのよ。だから私……絶対にダメなはずなのに生死に……触れてしまったのよ」


彼女の言っている意味は、正直、よくわからなかった。魔術的なことなのか、それとも何かの比喩なのか。ただ、ひとつだけ確かなのは──セレーナが自分を責めていること。そして、その痛みを誰にも理解されないまま、ずっと抱えてきたことだった。


俺は黙って、彼女の手を取った。


もう二度と、ひとりにはしない。

そう、心に誓った瞬間だった。



少し経った頃だった。

うちにガルシア侯爵が、突如として訪ねてきた。


黒いコートを脱ぎもせず、応接室に通された彼は、セレーナの姿を目にした瞬間、言葉を失った。


「……セレーナ……」


震える手を伸ばして、まるで幻でも見るように娘の頬に触れ、そして次の瞬間、大の大人がしゃくり上げて泣いた。


「気がつかなかった……なんで……なんで気がつかなかったんだ……!」


彼の声には、悔恨と自己嫌悪が詰まっていた。

娘の血にまみれた現実を、たった今ようやく真正面から突きつけられた男の姿だった。

許してくれ、何度もそう口にして、震える両手でセレーナの手を握った。


けれど、そんな中でも──セレーナは笑っていた。

いつもの、どこか作り物めいた、穏やかすぎる笑顔で。


俺は、その笑顔が少しだけ、嫌になっていた。


こんな時にすら笑う彼女の“本物”の笑顔は、いったいどこにあるのだろう?


「ディルくんも……信じなくて悪かったね……。ああ、もう“くん”なんて呼んではいけないね。アルジェラン公爵」

「呼び方なんてどうでもいい。オジさん、ハイルドのこと、どうするつもり?」


問い詰めるように口を開くと、侯爵は少しだけ目を伏せ、苦しげに答えた。


「……追い出したいよ。けど、妻も使用人も……ハイルドのことを信じ切ってる。お前の手紙のことを話しても、誰も聞こうとしなかった」

「それでも、侯爵はあなたじゃないか。家の主ならできるだろう、追い出すくらい」


俺の言葉に、侯爵は言い淀み、そして──


「いいよ、ハイルドは追い出さなくて」


静かに口を開いたのは、セレーナだった。

まるで全てを赦す女神のように、やさしく、穏やかに。


「ねえ、父様……私、このまま帰らず、ここにいてもいい? ふふ、私たち恋人になったの」

「え……それは……」

「ね!! そうしよ!! ディルと一緒にいられて嬉しいし!!」


場の空気が、ぱっと明るく塗り替えられた。

さっきまでの沈鬱な空気が嘘のように、セレーナの無邪気な声が部屋に広がっていく。


けれど、なぜ彼女はそこまでして、ハイルドに慈悲を与えるのか──。

その理由は、俺にはまだ分からなかった。


侯爵が帰った後、仕事をセーブしていた俺は、セレーナのベッドの脇に腰を下ろした。


「ディルがいてくれて、嬉しいなぁ。ベッドの上で本ばっかり読んでるの、退屈なのよ?」

「なぁ、セレーナ」

「んー?」

「結婚しよう」


言葉がこぼれ落ちるのに、ためらいはなかった。


十五歳。

まだ若すぎる年齢かもしれない。

けれど、血塗れになって命の瀬戸際にいた彼女をこの腕で抱きしめたとき、もう一秒だって手放したくなかった。


「……しよっか、結婚。ふふ、なんか照れるね」


頬を赤く染めたセレーナの笑顔は、俺の心に沁み渡った。


嬉しくてたまらなかった。

心から、彼女と家族になれることが、ただただ誇らしかった。


「ほんと、幸せ過ぎて……いつ死んでもいい〜!!」


その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。

だけど今は、ただ彼女の小さな身体を抱きしめて、笑い返すことしかできなかった。


挙式はせず、書類の提出だけで婚姻関係を結んだ。

まだ若い俺たちにはそれで十分だった。


「もう〜こんな大きな宝石がついてる指輪なんて要らなかったのにぃ」

「俺が、あげたかったんだよ」

「それにドレスも、ほら、こんなに! 私、体ひとつしかないのよ?」

「嫌だった?」

「ううん。嬉しい!!死んでもいいくらい……」


セレーナは、少しずつ回復していた。

傷も心も、少しずつ癒えているように思えた。


──暴力に怯えることなく、本当の笑顔で生きていける。

そう信じて疑わなかった。


「セレーナ、エミリオだ。キャメル伯爵の三男なんだが、今日から俺の側近になる。きっとこれからよく顔を合わせると思う」

「初めまして、セレーナ様!」

「初めまして、エミリオ様。ふふ、面倒で完璧主義なところあるから、大変だと思うけど、ディルをよろしくね?」

「は、はい……! セレーナ様、すごくお綺麗で──」

「もう見るな、減る」


冗談めかして、エミリオの前に立ちはだかるように俺が遮った。

エミリオは真っ赤になって視線を逸らす。


彼が側近についてくれたことで、仕事はぐっと楽になった。

その分、セレーナと過ごせる時間も増えた。


この時間のためだけに、俺はすべてを頑張れる。

もう、二度と──何もできなかった自分に戻らないために。


……そして、ある日。

彼女が十六歳になる少し前のことだった。


「は……なんて?」

「ディル、パパになるよって言ったの」


その言葉に、時間が止まった気がした。


「……それは……?」

「私たちに赤ちゃんが来てくれました」


彼女が恥ずかしそうに笑う。

その瞬間、俺は無言で立ち上がって、思いきりガッツポーズをした。


「っしゃああああ!!」


情けないくらい喜びを露わにして、彼女に駆け寄り、両手で彼女の手を握った。


「ありがとう、セレーナ……!! 本当に、ありがとう……!!」


自分と、愛した彼女の間に宿った命。

どれほど愛おしく、どれほど大切な存在になるか──想像しただけで、胸が震えた。


幸福の頂点にいたこのとき、俺はまだ知らなかった。

彼女が口癖の通り、本当にいなくなる日が近づいていたことを──。


つづきます

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