第十四話 ディルとセレーナ①
「ディル〜〜!!!!今度はなんの本を読んでいるの!?」
そう俺に聞くのは、グレージュの髪にローズピンクの瞳を持つ幼馴染の侯爵令嬢、セレーナだ。
「お前にはわからない本」
「えぇ〜、教えてくれないの?」
父親同士の仲が良く、領地が隣同士だったのもあり、どちらかの家で一緒に過ごすことが多かった。
俺とは正反対の性格で、突拍子もないことをしだしたり、虫や植物、悪意のある魔物の命でさえ奪おうとしない優しさ。
俺はずっと、そんなセレーナが好きだった。
俺が赤子の頃から魔法を使えてしまうことも、なにも気にしていなかった。
ただ、いつもそばにいてくれた。
そんな幸せな子供時代。
十二歳になった頃、彼女に二つ下のハイルドという義弟ができた。
ハイルドはセレーナの従弟で、ヤンチャな性格から家族に軟禁されていたところを、セレーナの父、ガルシア侯爵が引き取ってきたという。
「ちょっとヤンチャだけど、可愛い子なんだよ」
そういって、いつも笑って見せていた。
異変に気がついたのは、半年後のことだった。
彼女の長袖のドレスから、少しだけ見えた青紫色の痣。
「おい、セレーナ!!これどうしたんだ!!」
「あぁ~、なんかぶつけちゃって。私って昔からほんとドジだよねぇ、ははっ」
それから、会う度に痣が見え隠れしているのを見つけた。
「今回は階段から落ちちゃってさぁ~」
いつもいつも、笑っていた。
それが、見るに耐えられなかったある日――
「きゃぁ!!」
俺は、セレーナのドレスを破き、剥ぎ取るように脱がせた。
「ちょっとディル!!返して!!」
腕で隠すその身体は、痣となにかムチで打たれたような痛々しい傷だった。
「なんだよ……これ」
「階段から……」
「階段から落ちただけじゃ、こんなんにならないだろ!!」
俺の怒号に、セレーナは少し体をビクつかせた。
「悪い、悪いセレーナ……怖がらせるつもりは……」
「ううん、大丈夫だよ。心配してくれたんでしょ?」
そういって、いつものように笑った。
だけど、酷く辛そうな声色で、絞り出すように言った。
「ハイルドが……私のこと好きなんだって」
「は……?」
「嬉しいけどさ……義弟だし……そもそも恋愛感情で見てない相手とどうこうなれないじゃない?」
「どうこう……って」
「魔法使った取っ組み合いの喧嘩?みたいなのが増えてさぁ〜、いやぁ……さすがに男の子の魔法は力強いよね」
「でもまだ、私は私を守れてるから……」
その哀しみに満ちた表情で、俺はハイルドに怒りを向けた。
立ち上がって、ガルシア家に乗り込もうとした所で、魔法で足を止められた。
セレーナの魔法なんて、すぐに解ける。
だけど、セレーナの気持ちを蔑ろにするのは、ハイルドと同じなのではないかと――解かずに足を止めた。
「ディル……どこに行くの?」
「決まってるだろ、ハイルドを殺しに行く」
自分の声が、人生で一番低く怒っているのを感じられた。
「ダメ!!そんな事したら、みんな悲しむじゃない!!ディルだって捕まってしまうわ!!」
「でも、このままじゃセレーナが……!!」
「もうすぐ、魔法学校に入学するのよ私たち。私は家から通わず寮に入ることにした。それまでの辛抱なの……」
「だから、私のわがままを許して……ディル」
涙を零しながら、また笑う。
その表情は、自分をハイルドから助けて欲しいという表情ではなく――
俺にハイルドを殺さないで欲しいと願うために、無理やり作った笑顔だった。
本心からのこの願いを、聞かないわけにはいかなかった。
それから、魔法学校に入学するまでの数ヶ月。毎日侯爵家に足を運んだ。ずっと、ずっとセレーナのそばにいた。
子供だった俺は、侯爵家に住むことも、公爵家にセレーナを住まわせることもできなかった。
帰り、寝て、転移魔法で侯爵家に向かう。
いない間は、セレーナの部屋に何十もの結界をかけた。
「セレーナ、契約をしよう。俺の血をセレーナにあげる」
「こんな魔法があるの?」
「いや、自分で作った。結構時間かかったけど、原理的にはこれでいけるはず」
そうして、小さく切ったセレーナの手首に自分の血を流した。
そして、魔法学校入学まであと一週間となった日のこと。
「今日は暑かったな、汗かいた」
「お風呂でも入ってきたら?」
「あぁ、じゃあすぐ戻ってくる」
しばらくセレーナの怪我がなかったから油断していた。
すぐ戻れば大丈夫だと。結界魔法をかけるのを忘れたまま、一度公爵家に戻った。
「あ、父様に学校に提出する書類もらっておかないと」
タイミング悪く、セレーナが部屋から出た。
すぐに、セレーナはハイルドの部屋に引きずり込まれた。
そして、魔法によって身体はすぐに拘束された。
「セレーナ、なんであんな男と一緒にいるの?俺のこと避けてたでしょ?」
「別に……私はずっとディルといただけよ」
「セレーナは、いつも怖がらないよね。すごく強いその目が好きだよ」
「本当に好きなら、なぜ私にいつも暴力を振るうの?」
「ん〜、多分セレーナのいろんな表情が見たいのかも。俺も父さんや母さんにこうやって愛されていたし」
ハイルドは歪んでいた。
幼い頃から受けた両親からの虐待を愛情だと信じ込み、間違ったものとわかりながらも、八歳で魔法が使えるようになると、人を傷付けることで自分の気持ちを晴らしていた。
「俺、魔法練習したんだよ。セレーナがいなくて暇だったからさ」
そういって彼が魔法でしまっていた鉄の棒を取り出すと、その鉄にゆっくり魔力を込めた。
セレーナは魔法で縛られ、動けないまま。
どんどん、目の前の鉄が赤く染まっていく。
「これで焼印つけたらさ、ディル・アルジェランももうセレーナのことはいらないんじゃない?」
顔に近づく鉄に、セレーナは初めて強く願った。
――ディル、助けて。と。
その瞬間、膨大な魔力がセレーナを中心に爆発が起きたように、衝撃波となって広がった。
バリンッ、ガシャンッ!!
ガラスが割れ、部屋の本や家具が吹き飛ぶ。
ハイルドは弾き飛ばされ、自分が持っていた熱された鉄が左頬に当たった。
そして、強く頭を打ち、額から血を流して気を失った。
その時、ようやく俺はセレーナの部屋に戻ってきて、衝撃波の音を聞いたのだった。
すぐにハイルドの部屋に向かうと、セレーナがハイルドの傍に座り、震える体で泣いていた。
「ディル……っ! だずけてぇ!! ハイルドが死んじゃう……!!!!」
泣きながら、血まみれのハイルドの頬にそっと手を伸ばすその姿は、俺の心を切り裂いた。
彼女は、こんな目に遭わされてもなお――誰かを憎むより、ただ生きていてほしいと願う優しさを手放さなかった。
俺は、震えるセレーナの背に手をそっと置いた。
「……大丈夫、セレーナ。死んじゃいない。俺が、絶対に助けるから」
その言葉を聞いた彼女が、僅かに肩を震わせる。安堵なのか、絶望なのか、それとも他の感情かはわからなかった。
遅れてやってきた使用人たちが、混乱のなか侍医や、多少なりとも治癒魔法が使える神官を呼びに走っていく。けれど、そこに彼らが到着するまで、命の灯火は持たないかもしれない――そう感じるほどに、ハイルドの容体は危うかった。
血まみれの額からはまだ熱を持つ鉄の匂いと、血の生臭さが立ちのぼる。
助けたくない。
心の底からそう思った。
このまま死ねばいい。あんな奴、セレーナに二度と近づけないように。
でも、それでも――セレーナの泣き叫ぶ声が、俺の心を締めつける。
(セレーナの望まないことを、俺はしたくない)
そう思い直し、歯を食いしばってハイルドの額に手を置く。
治癒魔法は、神官や聖女のみに扱える術だった。俺の持つ魔力では使えない。けれど、今この場で何かしなければ、死ぬのは確実だった。
俺はただ、セレーナを少しでも早く安心させたかった。
その場しのぎの自己満足だったかもしれない。それでも――
額の裂けた傷口に、魔力を流し込むようにして編み上げた糸を通し、縫い合わせた。
それが正しい処置かどうかなんて、知る由もなかった。
ただ、止血しなければならない。
それだけは、痛いほど分かっていた。
数分後、駆けつけた侍医と神官の手で応急処置が施され、ハイルドの命はなんとか繋がれた。
左頬の火傷は深く残ったが、額の傷は俺が縫ったことで結果的にきれいに塞がったらしい。
けれど――
その一件の責任は、全てセレーナに負わされた。
「セレーナがハイルドの部屋に、熱した鉄を持って入ってきたと言っているわ。それは本当なの?」
「違う……私じゃない。私は、ずっとハイルドに暴力を振るわれていて……!」
セレーナは必死に否定した。
けれど、彼女の身体にあった痣や傷はすでに癒え、何一つ証拠は残っていなかった。
周囲は彼女の声に耳を貸すどころか、すぐに結論を決めつけた。
――嫉妬。
ハイルドが両親に可愛がられるようになったことを、セレーナが妬んで事件を起こした、と。
セレーナの「訴え」は、「狂言」として葬られた。
そのうち、セレーナは何も言わなくなった。
自分さえ我慢すれば、みんなは納得する。
そんな自己犠牲精神を持つ彼女はまた笑っていた。
「オジさん!!セレーナが寮に入れないって、どういうことだよ!!」
俺は怒鳴り込んだ。
「ディルくん……。セレーナは、悪いことをしたんだ。魔法学校からも、問題のある生徒の寮生活は認められないと通達が来ていてね……」
その言葉に、拳を握りしめるしかなかった。
セレーナの部屋に俺が通っていたことも、すべてハイルドによって密告されていた。
そして、魔道具によって転移魔法は封じられた。
俺とセレーナの間には、物理的な距離まで強制的に作られたのだ。
魔法学校に入学しても、俺は変わらなかった。
セレーナ以外には興味がなかった。セレーナの傍にいること、それだけが俺の目的だった。
けれど、それをよく思わない者たちはいた。
「セレーナ様ばっかり……顔がちょっと可愛いからって、調子に乗ってるのよ」
「そうよね。義弟に大怪我させるような女なのに……」
そんな陰口すら、俺は最初気づかなかった。
セレーナが誰かに悪く言われているなんて、思いもしなかった。
「ディル、せっかく学校に入ったんだし、友達でも作ったら?」
「いいよ。セレーナがいれば、それでいい」
セレーナに新しい傷が増えているのを見るたびに、俺は感情を抑えるのに必死だった。
何度も、ハイルドを殺してやりたいと思った。
でも――
学校だけが、今のセレーナに残された居場所なら。
俺はそれを守るために、何も言わず、魔法で傷を冷やすことしかできなかった。
そして、十四歳。
魔法学校二年の春。しばらく経った頃だった。
――俺の両親が、事故で亡くなった。
悲しみに押し潰されそうな中で、俺を支えてくれたのはセレーナだった。
辛い日々を過ごしていたのは、彼女の方なのに。
「俺は……セレーナがいなきゃ、生きていけない。好きだよ、セレーナ。俺から、離れないでくれ」
泣き言に近い言葉だった。
情けなくて、最低で、縋るような告白だった。
けれど、セレーナは何も言わず、俺の頭に手を置いて、優しく微笑んだ。
「私も、ずっと好きだから。そばにいてあげるね」
その一言で、俺は救われた。
両親を失い、公爵位を継ぐことになった俺は、膨大な業務を背負うことになった。
魔法学校には通えなくなり、三年になる前に退学した。
けれど――
セレーナは三年になり、再び地獄のような現実に引き戻される。
あの男、ハイルドが入学してきたのだ。