第百十三話 家族を想う②
ステラの悔しさに滲む声色。
その震える横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと捩れた。
――こんなふうにステラを苦しめるものが、この世に存在していいはずがない。
その衝動のまま、俺はそっとステラの手を握った。
いつもと変わらない細くて温かい指。それでも今は、ひどく頼りなげに思えた。
しっかりと向き合い、輝く碧い瞳に訴える。
「一緒に逃げよう。ステラ……そしたらもう、苦しまなくてもいいんだ」
自分の声が震えていないのが不思議だった。
わがままだということぐらい、自分だってよくわかっている。
ステラにはステラの思いがあって、ずっとディルに向き合ってきた。
でも――こんなふうに泣きそうな顔をされて、思ってしまった。
俺と二人でどこかに行けば、ずっと笑わせてやれるのに。
強い魔法が使える俺なら、働き口なんて選り取り見取りだ。
金に困ることもない。
苦労なんてさせない。
どこか遠くで、二人だけでのんびり暮らしたっていいじゃないか。
ディルのことが嫌いなわけじゃない。
あの塔から出してくれた恩は、今でも俺の中にある。
剣も、魔法も、生き方も――全部ディルから教わった。
……だけど、
今のディルは大嫌いだ。
そして俺は練武場で痛感した。
“今の俺には、ディルからステラを守れない”と。
俺が一番恐れていること――それはただひとつ。
ステラを失うこと。
賭けに負ければ、ステラは本当に殺されてしまう。
ステラの母親をディルに会わせられる保証なんて、どこにもない。
そんな俺の想いを知ってか知らずか、ステラはふっと微笑んだ。
「アレス……ありがとう」
そのまま、ふわりと俺に抱きついてくる。
肩口に額が触れた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
「でもね、逃げないよ。私……」
ステラの声は震えていた。
その奥に、なにか“まだ言っていないこと”が隠されているのがわかる。
(いったい……お前が死ぬ以外に何があるって言うんだよ)
胸の奥で嗤うような不安が蠢く。
「それに、アイリーンさんも言っていたでしょう? 聖女の能力はいつか解かれるはずよ……リナがだれかと愛し合いさえすれば───」
ステラの表情は不安で満ちていた。
薄い灯りに照らされた横顔が、まるで泣き出しそうに歪む。
「それは、お前とディルがした賭けの期間内にできると思うか? でないと、母親に会わせられなきゃ、お前……」
「うん。お父様に殺されてしまうわね」
淡々と言う声が逆に恐ろしくて、胸がざわつく。
「俺の命を懸けたとしても、ディルからだけはお前を守りきると言い切れねぇ」
「わかってるよ。お父様は戦争時“最恐騎士”様だもの……誰であっても勝てないわ」
震える声と、僅かに震える肩。
ステラは、明らかに“何か”を思い出して怯えている。
「でもね、一度殺されてあんなにも恐ろしい思いをしたのに……ふと、お父様は今どうしているかな?って想ってしまうの」
なにか失いたくないものでもあるかのようにステラは手に力を込めていた。
「おかしいのかな……?自分を殺そうとしている父に元気でいて欲しいと思うなんて……」
無理やり微笑む彼女に、俺は彼女の抱えているものを問うことにした。
「……なぁステラ。お前が言う一度目の人生で、他に何があったんだよ……」
腕の中で、ステラの身体がビクリと反応した。
俺は彼女の背に手を回し、静かに囁く。
「……どんなことでも受け入れるから、話してくれないか? 俺に話していないこと、少しずつでいい」
ステラは強く俺を抱きしめた。
しばらく震えながら、それでもゆっくりと頷く。
抱きしめる腕が離れ、ステラは伏し目がちに口を開いた。
「……私が死んだ後のこと、断片的にだけど……ヴァルとお母様が私に見せてくれたの」
握った手は冷たく、微かに震えていた。
視線は床に落ち、言葉を探すように沈んでいる。
「マティアス殿下とリナが結婚して……多分すぐのことだと思う……。お父様が掛けられていた聖女の能力が解けたの」
「……ああ」
「それでね……」
ディルは“生きていけないだろう”とは思っていた。
六歳以前からずっとステラを見守ってきたのだから。
自分の手で愛娘を殺したと知れば、再起なんてできるはずがない。
けれどステラの口から出たのは、予想していたものより最も腑に落ちるものだった。
「お父様……リンジー皇国を滅ぼしてしまうの……
それで、その後……お父様も……」
ステラは目を強く瞑り、肩を震わせていた。
美しい長いまつ毛が影を落とす。
「……うん、ディルらしいな」
思わず零れた小さな声に、ステラが顔を上げた。
「アレスは……驚かないのね」
「お前が死んでしまった後の事だろう? なら、別にいい」
静かに返すと、ステラは苦しげに眉を寄せる。
「……でも、この国のみんなが犠牲になったのよ?」
「どうでもいい」
即答だった。
自分でも驚くほど迷いはなかった。
「フレッド様やニヴィア様、それに……アイリーンさんだって……」
「ステラが生きていてくれるのなら、それ以外はどうだっていい。俺にはお前が……全てだから」
言葉にすると、改めて自分の愛情の重さが胸に圧し掛かる。
“魔力が強いほど愛情が重い”
母親の言葉がふとよぎった。
「悪い、重かったな」
反射的に首元に手をやり、顔を逸らす。
けれどステラはすぐに俺の頬を両手で包み、正面へ戻した。
「ううん。嬉しいよ」
灯りの揺れに照らされたステラの笑顔は、あまりにも綺麗で――
胸の奥が焼けるように熱くなる。
まるで惹き寄せられるように、俺は彼女の髪に指をかけ、耳の後ろへそっと流した。
近づけた顔の距離は、あと指一本分。
息が触れ合うほど近くて、ステラの瞳に俺が映っている。
――このまま触れてしまいたい。
理性が必死に悲鳴を上げて、ぎりぎりで踏みとどまった。
「あっぶね、しそうになった」
声が掠れる。
ステラもぱちぱち瞬きしながら頬を真っ赤に染め、胸元を押さえている。
その仕草さえ可愛くて、心臓が苦しい。
俺は慌てて距離を取り、両手で顔を覆った。
「悪い。今は恋人じゃないからって言ったのは俺なのに……あぁ〜本能的に動いちまうの、まじで良くねぇな……」
天井を見上げ、深呼吸を繰り返す。
落ち着け、俺。落ち着け。
そのとき――
控えめな力で、服の裾をちょん、と引かれた。
「それなんだけどさ……もう一度、恋人になりませんか?」
「は?」
完全に油断していた俺は、間抜けな声を出してしまった。
ステラは恥ずかしそうに俯き、指先をもじもじ絡めながら続ける。
「お父様がね、今の状態になった時に言っていたの。“あの男と領地で好きに暮らせ”って。
だから……ちょっと卑怯だけど、今のうちに、もう一度恋人になりませんか?」
頬は桜色。
不安と期待が混ざった目で俺を見上げてきて――
たまらなく愛しい。
その瞬間、理性なんて吹き飛んだ。
気づけば、ステラの身体を強く抱き寄せ、唇を塞いでいた。
触れた瞬間、ステラの息が震えて、俺も呼吸を忘れそうになる。
胸が潰れそうなほど熱くて、切なくて、苦しいくらい嬉しい。
やっと唇を離したあと、額をそっと重ねる。
「ステラ……愛してる」
震えるほど真剣な声で囁くと、ステラも同じ熱をこめて微笑んだ。
「うん、私も」
近すぎる距離で交わす想いは、もう誤魔化せない。
彼女の吐息が頬に触れ、胸が跳ねる。
「恋人残して死ねないから、私、頑張るね」
まっすぐ見上げてくる瞳には、強い光が宿っていた。
「ああ……俺も全力でお前を守るよ」
(ディルから直接守ることは出来ずもと、いざとなれば……)
互いの呼吸が混じり合う距離で、そっと手を重ねる。
ステラの手は温かく、少し震えていて――その震えすら愛らしく思えた。
窓の外から入り込む風は冷たく、冬の匂いが近い。
でも、抱き合った体温はどこまでも心強かった。
なによりも家族を想うステラはきっと、これからも恋人の俺より、家族の俺やディルを最優先で動くだろう。
でも――そんなステラだからこそ、俺はたまらなく愛おしい。
約束の冬の初月まで、あと一ヶ月。
――絶対に、生き抜く。
そして、ステラを死なせなりはしない。
俺に出来ることはなんでもしよう。
そう心に強く言い聞かせ、目を伏せたのだった。




