第百十二話 家族を想う①
ふわりと温かい布団の中で、優しい夢を見る。
春の陽だまりのように、胸の奥がじんわりと温かくなる夢だ。
自分と同じ碧い瞳をした赤子を、セレーナが柔らかな腕に抱いていた。
白い頬にかかるグレーにも見えるベージュの髪が陽光を受けて淡く光り、彼女の笑みは眩しいほどに穏やかだった。
「見て、ディル。ステラったら、こんなにしがみついてきて……寂しがり屋さんなんだから」
その声は春風のように軽やかで、俺の心の奥深くまで届いた。
セレーナの胸元にしがみつく赤子――ステラ。
彼女の小さな指がセレーナの服をぎゅっと掴んで離さない。
俺はその光景を、ただ愛おしさで満たされた目で見つめていた。
「……セレーナによく似ている」
思わず口にしたその言葉に、彼女は微笑んで振り向く。
「あら、私はこんなに寂しがり屋さんじゃないわ」
「そうだったか?」
少し挑発するように言うと、セレーナはふふっと喉を鳴らして笑った。
その笑い声に赤子が反応して、嬉しそうに声をあげる。
「たしかに……ディルとステラがいないと、私はもうダメだわ」
そう言いながら、赤子を抱いたまま俺の肩に頭を預けてくる。
セレーナの髪が頬に触れ、かすかに花の香りがした。
愛おしい妻。
愛おしい娘。
(……これが、幸せというものなのだろうな)
穏やかに流れる時間の中で、ふたりの温もりが心に染みていく。
胸が満たされていく感覚に、俺はそっと息を吐いた。
――その瞬間、世界が薄れていく。
陽光が遠のき、あたたかさが冷たさに変わる。
次の瞬間、目が覚めた。
◇
外はまだ真っ暗だった。
窓の外では風が冷たく鳴り、月は雲に隠れている。
「……また、この夢か」
思わず頭を抱え、深く息を吐いた。
心臓がまだ夢の中のまま鼓動を刻んでいる。
あの夢は、決まって夜明け前に見る。
セレーナとステラ。三人で過ごす穏やかな時間。
幸せすぎて、目が覚めたときの痛みが耐えがたいほどになる。
(……まるで、誰かがわざと見せているみたいだ)
手を額に当て、ゆっくりと目を閉じた。
その夢をなぞるように、まぶたの裏でセレーナの笑顔が浮かぶ。
愛おしい。
なのに、目を覚ませばその愛しさが胸を締め上げる。
ステラの笑顔を思い浮かべるたびに、
胸に無数の針が突き刺さるような痛みが走る。
彼女を愛おしいと感じるその感情さえ、
「間違いだ」と心が否定してくる。
「……はぁ。おかしくなりそうだ」
重たい声が部屋に落ちた。
誰もいない部屋で、自分の声がやけに冷たく響く。
ベッドから降り、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
薄いカーテンを指先で押しのけると、
黒い夜空にうっすらと星の光が瞬いていた。
(ステラは……今、どう過ごしているだろうか)
矛盾だらけの感情が胸を締めつける。
けれど、思わずにはいられない。
窓の外に伸ばした手を、そっと握りしめる。
誰にも届かない想いを、夜空へと吐き出すように。
「……ステラ」
声にならない呼びかけが、静寂の闇に溶けていった。
◇◇◇
私たちがノヴァトニー侯爵家に到着した頃。
どこか疲れた様子のニヴィア様とフレデリック様が出迎えてくれた。
「ようこそ……」
小さな声に微かな息が混じる。
よく見ると、二人の目の下にはうっすらと隈ができていた。
一瞬、普段の凛としたニヴィア様の姿からは想像もできないほど、どこか眠たげで。
(眠れなかったのかしら……?)
その疑問が胸に浮かんだが、口には出さずに微笑みを返す。
そんな静かな空気を破るように、フレデリック様がいつもの調子で口を開いた。
「いやぁ、アレスくんにそっくりだなぁ!」
「驚きました……領地を回るときにひと目見たら気づきそうなものなのに……。領地のどこに住んでおられたのですか?」
まるで疲れなど忘れたように、2人は興味津々に話を続けていく。
その光景に、アレスも少しだけ苦笑を浮かべた。
「領地の北にあるリンズの森の前です。……ごめんなさい。私、年齢を偽って領民申請を出していて……」
アイリーンさんは申し訳なさそうに視線を落とし、そっと頭を下げた。
その動作には、どこか長い年月の重みと、母としての覚悟が滲んでいる。
ニヴィア様は一瞬だけ目を見開き、すぐにその表情を引き締めた。
そして、毅然とした声音で静かに言う。
「……領主の娘としては然るべき対応を取るべきですが……王族に関わる事情に、私が触れることはできません」
凛としたその言葉の奥には、領主としての責任と、人としての優しさが混じっていた。
重たい空気が一瞬流れる――が。
「年は何歳って申請していたんですか?」
空気を読まず、フレデリック様が悪びれもなく口を挟んだ。
「フレデリック様っ……!!」
ニヴィア様が思わず声を上げ、頬を少し膨らませる。
しかし、アレスがすぐに横からあっさりと答えた。
「二十九。六つサバ読んでた」
「……言い訳の言葉も出ません」
アイリーンさんの反省の一言に、フレデリック様が肩を震わせて笑いを堪える。
そのやり取りを見て、私はふと、胸の奥が温かくなった。
まるでずっと前から知り合いだったかのような自然さ。
本当に初対面の親子とは思えない。
アレスが、まったくアイリーンさんを恨んでいないのが伝わってくる。
(きっと、アレスも心が軽くなったのね)
そう思うと、なぜだか涙が出そうになった。
「そっか、実年齢は三十五歳ですもんね。それにしても二十九歳と言われても、二十代前半に見えるくらい若いですね。美しいですし」
フレデリック様の口は相変わらずよく回る。
恥ずかしげもなく、さらりと褒め言葉を口にするその姿に、ニヴィア様が呆れたように息をついた。
「あら、口が上手いのね。神聖力が強いと、自らの細胞も治癒してしまうから老化が遅いみたいなのよ。寿命は変わらないみたいだけど」
「羨ましいです……だからそんなにお綺麗なんですね」
「ありがとう。アレスのお友達は、みんないい子たちなのね」
アイリーンさんは柔らかく微笑んだ。
その笑みはどこか懐かしく、あの森の陽だまりのように優しかった。
アレスは少し照れたように、視線を落として小さく「うん」と答えた。
それを聞いたフレデリック様が、なぜか嬉しそうにアレスの肩を抱き寄せる。
「アレスくん、よかったじゃないか! お母さんに褒められたぞ!」
「うるせぇよ!」
少し赤くなった顔でアレスが突き放すと、フレデリック様はケラケラと笑った。
賑やかで、どこか家庭的なその光景に、
長い間離れていた親子の距離がほんの少しだけ近づいた気がした。
――まるで、ずっと前からここにあった家族のように。
◇◇◇
夜。
私たちは少し早めに部屋に戻った。
静まり返った廊下を抜け、アレスの部屋に入ると、ほの暗い灯りがゆらゆらと壁を照らしていた。
私は今朝のアイリーンさんの様子を話すために、彼の部屋を訪れていた。
「アイリーンさん、楽しそうでよかった。無理やり連れてきちゃっかなって心配だったんだ」
ソファに腰を下ろしながら、私はそっと笑って言った。
けれどアレスは、少し頭をかきながら真剣な眼差しを向けてくる。
灯りに照らされた横顔はいつになく険しく、笑みを返す余裕はなかった。
「いや、無理矢理にでも連れてきてよかった。なんか、あいつ置いていったら多分───」
「うん、わかるよ……アイリーンさん、多分」
私たちの声が重なった。
言葉の続きを待たずに、視線が交わる。
けれど出てきた答えは、まるで違っていた。
「皇后陛下を殺そうとしていたと思う」
「自死でもしていたかもしれない」
重なったはずの声が、すれ違った。
その瞬間、二人の間の空気がぴんと張りつめる。
思いもしなかった方向からの言葉に、私は思わず瞬きをした。
「え……アイリーンさん絶対、息子を狙ってる人間は消すって覚悟の顔だったよ!!」
「はぁ? 皇后をどうやって殺すっつーんだよ。もう“思い残すことはねぇ”って顔してたじゃねぇか」
「神聖力って万能そうじゃない、治癒だけじゃなくて……」
言いかけたところで、私は口を閉じた。
胸の奥で、ひとつの嫌な予感が形を取り始める。
アレスが眉を寄せ、静かに私の名前を呼んだ。
「ステラ?」
灯りの明滅に照らされる彼の瞳が、まっすぐ私を捉えている。
私はその視線を受けながら、ゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、アイリーンさんってさっき“自己治癒の影響で歳を取らない”って言ってたわよね?」
「ん? ああ」
「それって……例えば毒物を飲んだとしても、自己治癒して効かなかったりするのかな……?」
アレスの目がわずかに見開かれた。
私の強ばる表情を見て、彼もすぐに何かを悟ったのだろう。
部屋の空気が重たく沈み込む。
「お前が一度処刑されたって理由って……」
「ええ。聖女リナに毒を盛った罪よ。処刑時にも、聖女は毒により伏せっているとマティアス殿下が言っていた」
自分の声がどこか遠くから聞こえるようだった。
もし、毒が効かないのだとしたら——。
リナは、自ら詐病を使っていたということになる。
詐病のために、みんなで私を殺したなんて。
毒を盛ったのは私じゃない。きっと、リナが仕掛けた。
けれど……まさか、毒そのものが効かない体質だったなんて。
「マティアス殿下やお父様は、詐病を見抜けないほど馬鹿じゃない」
唇が震えた。
「わかっていて、処刑を実行したんだわ……」
静かな怒りと悲しみが、胸の奥から込み上げる。
アレスは拳を強く握りしめていた。
机の上に置かれた蝋燭の火が、彼の指の影を震わせる。
その沈黙の中に、悔しさや無力感が滲んでいた。
「今更……リナが詐病を使っていたことを知ったところで、なんだと言うのかしらね」
私は笑おうとしたけれど、声は掠れた。
「でも……せめて、本当に毒に伏せっていたリナに唆されて、お父様やマティアス殿下が私を処刑したと思っていたかった……」
喉の奥から、悔しさがこみ上げる。
灯りの明かりがぼやけて見えた。
アレスは黙っていた。
拳を握ったまま、歯を食いしばるようにして、私を見ている。
その瞳の奥に、どうしようもない怒りと、自分への無力感が見えた。
——そばにいてあげられなかった。
彼の心から、そんな言葉が零れ落ちそうだった。
そして、彼は静かに問う。
「……ステラ、お前はそれでもディルと離れたいとは思わないのか?」
「え?」
「今からでも、二人で遠くに行けばきっと追って来ることはない。例え今の人生と違ったとしても……お前を殺す為に動いたディルを、また同じことをしようとしているあいつを……許そうとしなくてもいいんだ」
声は低く、けれど痛いほど真剣だった。
私は何も返せずに、ただアレスの瞳を見つめ返す。
その奥に、私を守りたいという強い意志が宿っていた。
けれど——胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
離れたいと思えば、どんなに楽だろう。
灯りの火が、ふっと揺れた。
夜の静寂が、私たちの間に深く降りてきた。




