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第百十話 アレスの母⑥

「本当に最低よね。どんな理由があろうと、あの子のそばを離れたことを……私は何度も、何度も後悔したわ」


アイリーン――いや、かつて長谷川彩花であり、アリシアでもあった彼女は、苦しげに唇を噛みしめた。


「会いに行こうと思ったこともあった。でも……もし、私のせいであの子が殺されてしまったらと思うと……どうしてもできなかった」


小さく震える肩。窓辺に置かれた手が、爪が食い込むほどに強く握りしめられている。


十八年間、身寄りもなく、ただ隠れて生き続けた時間。その間に背負った孤独と後悔が、今も彼女を蝕んでいるのだと痛感する。


(十八年ものあいだ……親子でありながら離れ離れなんて……どれほどの苦しみだったんだろう)


「私はあの子に恨まれて当然。自分の子供ひとり守れない親なんて……要らないわよね」


魔法で翠に染められた瞳が、夜の闇の中でひどく切なげに揺れる。


「でも……それでも今日まで生きていてよかった。アレスの顔をこんなに近くで見られるなんて……本当に……嬉しいの」


声は震え、涙が零れそうになるのを必死で堪えている。彼女は泣き顔を見せまいと、窓の外に視線を投げ、背を向けた。


言葉が出なかった。慰めの言葉すら、私には見つけられない。

正解だったのか、不正解だったのか。彼女の選択の答えはわからない。


けれど確かなのは、それを決めるのは息子のアレス自身だということ。


「やっぱり……アレスと、一度二人で話してみませんか?」


「そんなの無理よ。あの子はきっと嫌がる」

「それでも……ずっと亡くなったと思っていた母親が生きていたと知ったアレスは、今も気持ちを整理できていません。だから……例え恨まれたとしても、理由をあなたの口から伝えてあげてください」


私は深く頭を下げた。

それはアレスのためであると同時に、母である彼女自身のためでもあった。


どうか、謝罪の言葉を直接アレスに伝えてほしい。

過去を無視したまま親子がすれ違うのは、あまりにも悲しい。


そのときだった。


「ステラ、もういい」

低く澄んだ声が、静かな夜気を切り裂いた。


振り返ると、そこに立っていたのはアレスだった。


「アレス……いつからそこに?」

「さぁな」

影を背負うような表情で、彼はゆっくりと歩み寄る。


「なぁステラ、俺はこの人と二人きりで話すつもりはない」


鋭い声音。しかしその瞳の奥には、複雑な光が揺れていた。


「ただ……お前が一緒にいるなら。……それでいいなら、聞いてやらないこともない」


そう言って、アレスはギュッと私の手を握った。

その手のひらは熱く、指先はわずかに震えていた。


横顔を盗み見ると、それは憎悪に歪んだ顔ではなく――素直になれず拗ねる子供のような、不器用な表情にしか見えなかった。


「もちろん。二人さえ良ければ……私はあなたと話がしたいわ」

「ああ、聞くよ」


ぶっきらぼうなその声は、反抗期の少年そのものだった。十五歳──思春期の荒波の只中にいる彼なら、そう振る舞うのも道理だろう。


アイリーンはその少年めいた男を見つめ、深々と頭を下げた。肩に力の入った小さな震えが見える。目には決意と後悔が混ざった光が揺れていた。


「アレス、ごめんなさい……あなたを置いて、私だけ何のしがらみもなく自由に暮らしてしまって。恨まれてもいい。殴られても構わないわ」

「ただ信じて……私はあなたを一度だって忘れたことはないの。会えなくても、どこかで元気で、幸せに暮らしていてくれることだけを願っていたのよ」


言葉が詰まり、アイリーンは堪えきれずに涙を溢れさせる。その涙は、どこかアレスのものと重なり――顔立ちまで似ている母子の涙は、夜の薄暮に淡くきらめいた。


「許してほしいなんて言わない───」

「いや、許すよ。というか、許すとか許さないとか、そんな話じゃねぇよ……」


アレスの答えは意外に柔らかく、まるで日常の些細な喧嘩を片付けるような、肩の力の抜けたものだった。


「さっきの話は聞こえてた。別にあんたのせいでもないし、俺は不幸でもなかった。確かに六歳まで塔に閉じられてたけど、そこを出てからの九年でそれを取り戻すくらいの幸せを手に入れたと思ってる」

「俺にはステラがいた。だから、人生をやり直せるとしても、ステラと一緒になれるならこのままでいい」


アレスがそう言うと、その瞳がふっと柔らかくなる。炉の火のように落ち着いた温度のこもった光だ。彼の言葉には揺るぎない真実がこもっていて、私の胸へじんわりと届いた。


「そっか……あなたにはステラちゃんが必要なのね」

「ああ。いないくらいなら、死んだ方がマシだ」


その重い告白に、アイリーンの表情がふっとほころぶ。母としての安堵と喜びが混ざった笑みが、しわの刻まれた頬を柔らかくする。


「よかった。息子が幸せなら私はなんだっていいわ」


しかしアレスは、思い出したかのように言う。


「あ、そうだ。ひとつだけ頼みがある」

「なに?私にできることなら何でも言って?」


アレスは静かにステラの前髪をかき上げ、額の切り傷を見せた。白くもなりきっていない薄桃色の痕が、眠り顔にも似合わない違和感としてそこにあった。


「この傷、消してくれ」

「え、いいよ、消さなくて。私は受け入れてるし」

「俺のせいで付いた傷なんだ。ステラが気にしていなくても、女は顔に傷があると色々言われるだろ」

「そんなの気にしないよ」

「俺が気にするんだ……」


悔しさと不器用な優しさが混ざった瞳に、思わず私は彼の頭を撫でた。柔らかな髪の手触りが愛おしい。


「うん、じゃあ……お願いしようかな。いいですか?アイリーンさん」

「ええ、もちろんよ。息子の願いを叶えられるのは嬉しいわ」


そうしてアイリーンさんは、私の額にそっと手を重ねた。


ふわりとした温もりが広がり、心地よい光に包まれる。次の瞬間、皮膚を締めつけていた違和感がほどけていくのを感じた。傷が消えていく。


「はい、できたよ。でも……ここだけでいいの? ここの古傷も直せるわよ?」


指先で示されたのは、右手首に残る切り傷の跡。


(お父様との守護魔法……契約の紋……)


私は思わず手首をぎゅっと握りしめた。


「はい、これは……大切な傷なので」


額の傷は、お父様の殺意の中で生まれたもの。

でも、この手首の傷は守るためにつけられた。愛情を刻むように刻まれた、大切な傷。


「そう……わかったわ。じゃあ、あとはない?」

「あ、アレスの左腕の傷を──」

「なんでだよ、消さねぇよ」

「えっ、なんで!?」

「お前が“かっこいい”って言ったんだろ」


アレスはわずかに顔を赤らめ、照れ隠しのように顳かみをかいた。


確かに……。コリーヴ王国の宿でも、彼に「かっこいいだろ?」と得意げに言われて、「かっこいいかも」と答えたことがあった。


彼はその傷を思い出のように、服の上から押さえた。

私の右手首の傷と同じように。


――私にとって、忘れられない傷。

アレスの左腕を落としたとき、私は人を殺してしまった。


それでも、彼が心から「残したい」と思っているのなら……。


「そうだね。かっこいいかも」


私がもう一度そう言うと、アイリーンさんは微笑ましく二人を見守っていた。


少しだけ気恥ずかしかったけれど、何よりも――二人がわだかまりをなくせたことが嬉しかった。


◇◇◇


翌朝。

ほとんど眠れていないはずなのに、アイリーンさんはきちんと食卓を整えてくれていた。


「大したものじゃないけれど……」


そう言って差し出された温かい朝食には、彼女の誠意と、家族をもてなすような優しい笑みが添えられていた。

昨夜、あれほど涙を流していたのに……今の彼女の顔は、不思議と晴れやかに見えた。


アレスも「うまい」と一言だけ呟き、けれどその声音には、ほんの少し安心した色が混じっていた。


そして食事を終え、私たちが転移魔法でノヴァトニー侯爵家へ戻ろうとしたとき――。


「じゃあな」

「うん。元気でね」

「別に二度と会わねぇわけじゃねぇだろ」

「……どうかしら」


アイリーンさんは穏やかな微笑みを浮かべながらそう答えたが、その表情の奥に、決意の影のようなものが見え隠れしていた。


まるで――別れをすでに受け入れている人のように。


胸の奥がひやりと冷たくなる。

嫌な予感がしてならなかった。


――この人を、このまま一人にしてはいけない。

昨夜の涙も、今朝の笑顔も、どれもすべて儚くて……


背中を押してあげなければ、この人はきっとなにか間違いを犯してしまうそんな予感……


思わず、私は口を開いた。


「……あの。アイリーンさんも、一緒に行きませんか?」

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