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第百九話 アレスの母⑤

皇宮に入ってからの彩花は、もう「アリシア」として生きていくしかなかった。


だが、その先に待っていたのは華やかな暮らしなどではなく、冷酷な現実だった。

側妃アリシアの味方となる者は一人もいなかったのだ。


今代の皇帝は側室を取らず、皇后だけを愛している──それが民や宮廷の誰もが誇る美談だった。

皇后は男児を産み、皇子マティアスは健やかに成長している。すべてが順風満帆に見えた。


だからこそ、人々は噂した。

「平民の女が皇帝を誘惑し、子をなして、傲慢な願いで側妃にまで上り詰めたのだ」と。


そうして囁かれる悪意の渦は、日常のあらゆる場面に形を変えて現れた。


アリシアに付けられた侍女たちは、仕事を放棄していた。

食事だけは運んできたが、それは泥が盛られていたり、わざと床に落としたものを拾って皿に盛り直したものだった。


「お食事でございます、側妃様」

声音は丁寧でも、伏せられた瞳には軽蔑の色が滲む。


アリシアは一度、食器に盛られた黒ずんだシチューを見下ろし、唇を結んだ。

(……まぁ、どうせ体調悪くて今は食べられそうにないし)


嫌悪を顔に出せば、彼女たちの思う壺だとわかっていた。

だから何も言わず、ただ目を伏せて過ごすしかなかった。


心を殺して耐える。

お腹の中の子供だけが、彼女の心をつなぎ止める希望だった。


──だが、それでも最も辛かったのは、皇后ジアーナと顔を合わせるときだった。


同じ宮に住む以上、全く会わずに済むはずもない。

あるときは、すれ違いざまに突然平手打ちを受けた。乾いた音が廊下に響き、アリシアの頬が赤く腫れた。

またあるときは、皇后付きの使用人たちがわざと足を引っかけ、豪奢な絨毯の上に転ばされた。


「ドブネズミが入り込んでいるというのに……皇帝は退治を許してくれないなんて。どうなっているのかしら」

「お前がいなければ、私がこんな惨めな思いをすることはなかったのに」


ジアーナの声は氷のように冷たく、憎しみが滴っていた。

アリシアは唇を噛みしめ、何も言い返さなかった。


──知らなかったとはいえ、テオドールがすでに結婚していたことは事実だ。

ジアーナに恨まれるのは当然だと思った。


皇后の姿を目にするたび、そして時折、愛らしい皇子マティアスを見かけるたびに、自責の念が胸を締めつけた。

(私のせいで、この人たちを傷つけてしまった……)


そんなある夜、部屋を訪ねてきたテオドールが声をかけた。


「アヤカ……食事を摂っていないんじゃないか?」


扉の向こうから響く低い声に、アリシアはゆっくりと首を横に振った。


「……その名で呼ばないで。あなたが、私から名前を奪ったくせに」


テオドールは眉を寄せ、悔しげに言葉を継いだ。


「……エルンスト公爵家から聞いた。お前に付けた侍女はすでに解雇した。皇后のことも、俺から話しておく」


「皇帝陛下には……何も言わないで。あの方には、恨まれて当然なの」


アリシアは強く言い返しながらも、声の端が震えていた。

彼女にとって、ジアーナの憎悪は「罰」のように思えたのだ。


二人の距離は、もう戻ることはなかった。

日本で生まれ育った彩花にとって、複数の妻を持つ制度など、どんな理屈をつけられても受け入れられるものではない。


「何度も言うけど……もう本当に来ないで」


閉ざされた扉の向こうに、少しの沈黙があった。

やがて、押し殺したような声が返ってきた。


「……また明日くる」


その言葉と共に、足音が遠ざかる。

アリシアは胸に手を当て、声を殺して涙を流した。


それからの日々、彼女はなるべく部屋にこもった。

けれど、毎晩のようにテオドールは訪ねてきて、扉を叩いた。


だが、アリシアがその扉を開けることは、二度となかった。


そして、時が経ち──出産間近のアリシアに、事件は起きた。

その日、彼女は静かな神殿に足を運んでいた。


古びた本の匂いが漂う書庫。聖女が残したという一冊を読み終え、ふぅと小さく息をついたそのときだった。


外から、鋭い声が聞こえた。近衛騎士二人の声だ。

しかし、それはほんの一瞬で途絶え、すぐに不気味な沈黙が訪れる。

やがて、ざわめきと金属音が神殿の中にまで響いてきた。

清らかなはずの場所が、血の匂いを孕んだ恐怖で満たされていく。


(なに……?なにが起きているの……!?)


背筋を氷柱で撫でられたように冷え切り、アリシアの心臓は狂ったように跳ねた。

命の危険が迫っている──本能でそう理解する。


そのとき、書庫の奥。扉を軋ませ現れたのは、剣を持った狂気的なひとみの男だった。

冷たい刃を手に、ゆらりと現れる影。

狙いは一目でわかった。彼の瞳は、迷いなく大きなお腹を抱えるアリシアへと注がれていた。


「……っ」


喉が凍り付いたように声が出ない。

必死に息を吸い、ようやく搾り出した。


「やめて……」


弱々しい声は、血と殺気に満ちた空気に掻き消される。

次の瞬間、背中に焼けるような痛みが走った。切り裂かれたのだと理解するより早く、温かい液体が背を伝って流れ落ちていく。


「……っあ……!」


だが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。

守るべきは、自分ではない。お腹の子──その一つだけ。


(逃げなきゃ、この子だけは……!)


歯を食いしばり、ふらつく身体を引きずるように出口へ走る。

しかし刺客は容赦なく追いつき、刃が脇腹を切り裂いた。

衝撃で身体が痙攣し、下腹部で何かが弾ける感覚。


(……え……破水……?)


頭の奥で鐘が鳴るように混乱し、涙がにじむ。

もう動けない──そう悟った瞬間、再び剣が振り上げられる。

迫る死の影。


(……ごめんね……守れない……)


お腹に手を添えたまま、アリシアはぎゅっと瞳を閉じた。

産まれたがっている命を前に、母親でありながら何一つ守れない。悔恨が胸を裂いた。


だが、その刃が振り下ろされることはなかった。


耳に届いたのは、剣戟の音と、短い断末魔。

そして、血飛沫を散らし倒れ伏す刺客。


「……え?」


震える声を漏らしたアリシアの視線の先に立っていたのは、血濡れの剣を握る一人の男。

周囲にはすでに神官たちの屍が転がり、血溜まりが石床を赤く染めている。


虚ろな瞳で立ち尽くすその姿に、アリシアの背筋が粟立った。

彼の目に宿るのは絶望と空虚。光が一片もなかった。


「……アルジェラン公爵……?」


かすれる声で名を呼ぶ。


その名を口にした瞬間、胸の奥に微かな記憶がよみがえる。

彼と顔を合わせたのは、ほんの一度だけ。

皇宮に入る時、テオドールが「聖女」として紹介した三大公爵家の最も若い当主だった。


どうやら私用で訪れていた彼は、入口で無残に倒れる近衛の姿から異変を察し、この場に踏み込んだらしい。

そして一瞬で、刺客を斬り捨てたのだ。


だが、アリシアにはもう時間がなかった。

自分が死ねば、この子も道連れになる──それだけは絶対に許せない。


彼に縋るように、声を張り上げた。


「ねえ!!今すぐ私のお腹を切って子供を取りだして……!!」


血に濡れた頬を震わせ、必死に叫ぶ。

だが、公爵の表情は変わらない。氷のように冷え切った瞳が、ただ彼女を見下ろしていた。


「なぜ?」


低い声。


「このままじゃ、私は死ぬ。死んだら……皇帝の子供まで死んでしまうわ」


卑怯と知りながら、その言葉を口にする。

それでも、どうしても守りたかった。


「私は死んでもいい……この子だけは……っ」


ぼやける視界。

床に落ちる血が、赤い湖のように広がっていく。

最後にお腹へと手を当て、必死に願った。


(どうか……生きて……)


そうして、アリシアは闇に沈むように意識を手放した。


気が付けば、知らない小さな部屋に眠っていた。


どこもかしこも焼けつくように傷が痛んだ。だが、傷口には包帯が巻かれ、治療された痕跡が残っていた。

そして──何よりも、腹のふくらみが消えていることに気付いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


「……っ!」


痛みに耐えきれず呻き声を漏らしながら、アリシアは勢いよく身を起こす。

視界が揺れる。けれど、すぐ隣に置かれた小さな籠が目に入った。


その中には、布に包まれた赤子が眠っていた。小さな胸が上下し、かすかに吐息がもれる。

淡い髪色は、紛れもなくテオドールと同じ色を宿していた。


「……あ……」


喉がつまる。言葉にならない声が漏れた。

涙が勝手に頬を伝い落ちていく。


その時、転移魔法の光が部屋を照らし、ひとりの少年が現れた。

血の匂いを纏い、冷たい光を宿した瞳──アルジェラン公爵、ディルだった。


「え……あ、公爵……この子……」


声が震えた。恐怖と安堵が入り混じり、問いかけるように彼を見た。


「……あれから、辛うじて生きていた大神官の知識のもと、あなたの言うとおり腹を切り、魔法で赤子を取り出しました。傷口も、子を取り出したあとの身体も、彼が神聖力のすべてを費やしたことで……ようやく死を免れ、かろうじて回復へと向かう状態になったのです」


低く、淡々と告げられる言葉。だが、その声音の奥に微かな疲弊が滲んでいた。


「……あ、ありがとう……っ」


アリシアは嗚咽を堪えきれず、籠の中の赤子を抱き上げた。

温かい。小さな命が確かに腕の中にあった。

その温もりを胸に押し付け、力いっぱい抱き締めると、涙が止めどなく流れ落ちた。


「……今、神殿での事件は“側妃の誘拐”として扱われています。王都中の兵を挙げ、皇帝陛下はあなたを探しておられる……ですが、あなたに刺客を送ったのは皇后陛下です」


「……え、皇后陛下が……」


聞きたくなかった言葉だった。けれど、薄々気づいていたことでもあった。

アリシアの肩は小刻みに震え、赤子を守るようにさらに強く抱き込む。


ディルは冷静に続けた。

「皇后は、どんな手を使ってもあなたと第二皇子を殺そうとするでしょう。ですが、一つ……あなたと第二皇子を助ける方法があります」

「な、なに……!?」


掠れた声で縋るように問いかける。

その瞬間だけは、恥も誇りもなかった。ただ母として子を守るために。


「……あなたを“死んだこと”にして、第二皇子のみを皇宮に返す」

「な、なんで!? 私とこの子……二人とも死んだことにしてくれればいいじゃない! そしたら、二人で静かに生きていくわ!」


アリシアの声は悲鳴のようだった。

その必死の叫びに、ディルは短く息を吐き、淡い影を瞳に落とした。


「……第二皇子は、神殿で生まれたことに起因するのか……原因は分かりません。だが、生まれながらに神の加護を受け、膨大な魔力を解放している。八歳まで、目立たずに生きるのは難しいでしょう。それに、定期的な魔力整理を施さないときっと、魔力暴走を起こします」

「え……?」


言葉の意味がすぐには理解できなかった。だが、赤子を包む温もりがひどく儚いもののように思え、心臓が締めつけられる。


「それに……皇后は必ずまた、あなたを殺そうとする。子供の前で親の死に姿を見せるべきではないと……私は思います」


なにか含みを持たせる言い方だった。

その声音には、年齢に似つかわしくないほどの深い痛みが滲んでいた。

まるで、自らがそれを体験したかのように。


「陛下には、あなたが生きていることも伝えましょう。皇后は証拠を残さない。近衛騎士を二人も殺す実力の刺客を雇うほどです。それに……元は大国の王女ですから。きっと陛下にも簡単に裁くことは出来ない……」

「……」


死んでもいいから離れたくない。でも、この子の目の前で死ぬわけにはいかない。


魔力のことは何とかして、二人でひっそり隠れて暮らせば笑っていられるはずだ。

けれど、自分一人では十分に守れないという不安も消えない


——彼は今ここで決めた選択をいつか知った時。どんな顔をするだろうか。


矛盾した想いが胸の中で折り重なりながら、アリシアは小さな体をぎゅっと抱き締めた。


でも、覚悟を決めた。


「この子を……陛下の元にお願いします……」


その瞬間、胸の奥がずたずたに裂けるような痛みに襲われた。

自分から、我が子を手放す未来など想像もしなかった。

これが罰なのだと──心のどこかで悟った。


(……テオならきっと、この子に愛情を注いでくれる……)


「陛下に言伝を……“アレスをよろしくね”……そう伝えてください」

「……わかりました」


返事をした彼の瞳は、変わらず冷たかった。


アリシアは、せめて名前だけは自分でと願い、この世界に来てからテオドールが贈ってくれた本の中で好きだった物語の主人公の名を与えた。


不器用でも優しく、勇敢に前へ進む彼のように育ってほしいと。


「ごめんね……っ、バイバイ……アレス……」


転移魔法の光に包まれ、ディルとアレスは消え去った。

残された部屋で、アリシアは涙が枯れるまで泣き続けた。


あまりの衝撃に、その後数ヶ月の記憶は途切れ途切れになり、どう生きていたのかすら思い出せない。

ただ──半年から一年に一度だけ、ディルから届く簡素な手紙があった。


「子供は生きている」


たった一文。それだけが彼女の生きる希望となった。

いつか、きっとアレスに会える。生きてさえいれば、ひと目でも。


アリシアはそう祈りながら、身を隠し続けた。

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