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第百八話 アレスの母④


「え……っと」


静まり返った夜の空気の中、ステラは一瞬、時が止まったように固まってしまった。

カチリと音を立てるように喉が鳴り、胸の奥がざわつく。


「ごめんね。驚かすつもりはなかったの。ただ、この世界の人って日本食に馴染みはないでしょ? なのに、ステラちゃんは”お味噌汁とご飯”って言っていたし……それに、お箸も迷いなく持てていたわ」


アイリーンは穏やかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥は鋭く、探るように光っていた。


「それに──ふふっ、ダックルを“アヒル”って呼んだのもあなたくらいよ。私以外でそんな言葉を口にしたのは、あなたが初めてだわ……。だから思ったの。あなたも私と同じ、この世界に迷い込んだ聖女なのかなって」


静かな声に含まれる確信の色。

ステラの胸は大きく揺れた。


ステラとして生きる前の人生は、まるで霞がかった夢のようで、断片的な記憶しかない。

食べ物や生活の習慣、本の内容……そうした些細なことは鮮やかに覚えているのに、肝心の自分の人生は掴めない。

それでも──目の前の女性に同郷の匂いを感じただけで、心の奥底から言葉が溢れ出してしまいそうになる。


ステラは視線を伏せ、両手でグラスをぎゅっと握りしめた。手のひらがじんわりと冷たい水滴で濡れる。


「私は、この国で産まれています。だから……聖女ではありません……ただ……」


言葉の続きを飲み込んだ。

アレスにもまだ告げていない秘密を、この場で明かしてしまっていいのだろうか。

そんな思いが胸を締め付け、喉を塞いだ。


「……やっぱり、答えなくていいわよ」

アイリーンはふっと微笑み、力を抜いたように言った。

「初めて会った人に打ち明けるような軽い話じゃなかったわね。考えなしに聞いてしまったわ。ごめんなさい」


「いえ……ただ、一番最初に……アレスに話したいなと思って」


その瞬間。

出入口の影で立ち止まっていたアレスの肩が、小さく揺れた。

遅いステラの様子を見に来た彼は、思いがけず自分の名前が口にされたのを耳にし、咄嗟に足を止めて身を潜めていた。


──聞かれているとも知らず、ステラとアイリーンは会話を続ける。


「あの子を大切に思ってくれているのね」

母の面影を宿す瞳で、アイリーンは優しく微笑む。

その声音には、切実な想いが滲んでいた。


「もうひとつ……聞いてもいい?」

「はい」

「アレスは……あの子は、この十五年間、不自由なく暮らしていたかしら?」


その問いには、母が息子を想う気持ちがそのまま乗せられていた。

胸を締め付けられるような真摯な響きに、ステラは息を呑む。


けれど──答えは残酷だった。


「……いえ」

ステラの声は震えていた。

「アレスは六年間、皇城の塔で幽閉されていました。魔力が強すぎて制御できない……そういう名目でしたが、実際には皇后陛下の意向と思われます」


「……そんな……っ」

アイリーンの瞳が大きく見開かれ、両の手がわずかに震えた。唇が固く結ばれ、噛み締めるように小さな呻きが漏れる。


「アレスが六歳の時、塔から脱走して、公爵家に迷い込んだんです。それがきっかけで父が彼を養子に迎えました……けど、皇城から出たあとも刺客が送られるようになりました。基本的には父が護ってくれましたが……一度襲われ……私のせいで、左腕が落ちたこともあります」


「……っ……そうよね。私の考えが甘かった……。ジアーナ様は……私を憎んでいらしたもの……」


アイリーンの瞳は涙に濡れ、後悔と自責で滲んでいた。

その姿を前にして、ステラの胸はぎゅっと締め付けられる。


だからこそ、意を決して踏み込んだ。


「……アイリーンさん。この世界に来てから、なにがあったのか……教えていただけませんか?」


その問いに、アイリーンはしばし黙した。

やがて、夜空に一度視線を投げ、静かに頷いた。


◇◇◇


十八年前のこと──。

アイリーン……いや、長谷川彩花、十七歳。


彼女が目を覚ました時、そこは見覚えのない場所だった。

頬を撫でる風は甘く、草の匂いが心地よい。辺り一面は手入れの行き届いた広い庭園で、季節の花々が整然と咲き乱れていた。


「……え、なにここ。どこ?」


目の前には白亜の大きな邸宅。陽光を反射して輝くその姿は、まるで絵本や映画の中から抜け出してきたようで、現実味がない。


「何者だ」


背後から響いた低く威厳ある声に、彩花の肩はびくりと跳ね上がった。


「……あ、わ、わたし……っ気が付いたらここに……」


振り返った瞬間、息を呑む。

アイスブルーの髪が陽光に煌めき、金色の瞳が冷ややかに彼女を射抜く。武骨な軽装に腰の剣。美しくも恐ろしい、堂々とした男だった。


「我が家の別宅に入り込むとは……警備兵たちはなにをやっている」


不機嫌そうに吐き捨てながらも、彼は彩花の姿を見て眉を寄せる。

制服姿のような見慣れぬ格好。黒い瞳に黒髪。異質だった。


「お前……妙な装いだな。それに瞳も黒い……」


彼は彩花との距離をぐっと詰め、至近距離で覗き込む。

黄金の瞳がまっすぐに捕らえて離さず、彩花は心臓が破裂しそうなほど早鐘を打った。


「あ、あの……」

「もしかして聖女か?」

「せ、聖女?」


(聖女!?なにそれ、まるでラノベみたいな展開じゃん……!)


彼は腕に浅い切り傷をつけて差し出した。


「この傷を治してみろ」

「えっ?」

「いいから早く」


混乱しながらも、彩花は恐る恐るその手に触れた。

途端に──体の奥から温かく柔らかな光が溢れ出し、傷口へと流れ込む。


(な、なにこれ……!)


理解するより早く、みるみる傷は塞がり、皮膚は何事もなかったかのように元の滑らかさを取り戻していた。


「……え?」

「やはり……そうか」


彼の瞳が大きく見開かれ、次に安堵のような決意のような色を帯びた。


「よし。国でお前を保護しよう」

「ま、待ってください!わ、訳がわかりません。それに、あなたは……?」

「ああ、私はテオドール。この別宅の主だ」


名を告げた彼は続けて問いかける。


「お前の名は?」

「……長谷川彩花です」

「ハセガワ……アヤカ? ふむ。聖女の名は順序が逆になるのだったな。ではアヤカ。説明は屋敷の中でしよう」


彼は自分の外套を脱ぎ、彩花の膝にそっとかけた。


「その奇妙な服では寒かろう。少し我慢してくれ」


そして彼女をためらいなく抱き上げると、豪奢な邸の扉を押し開けた。


胸の鼓動が激しくて、彩花は声も出せない。現実感が崩れていく中、彼の腕の温もりだけが確かだった。


──その後、状況を説明されても不安は尽きなかった。

けれど、不思議と日々は穏やかに過ぎていった。


それは一重に、テオドールがそばにいたから。


彼は長く留守にすることもあったが、戻れば必ず彩花の元へ足を運び、些細な話にも耳を傾け、安心させてくれた。


いつしか二人は自然に惹かれ合い、寄り添い、触れ合うことが当たり前になっていった。

彼が差し伸べる手に、彼女は疑いもなく指を重ね──その温かさに未来を見出していた。


そして、彩花が来て半年後のこと───。


彼女は昼下がりの居間で新聞を広げていた。

言葉は同じでも、この世界の文字は日本とは違っていたはず。

それなのに、不思議と目に飛び込んでくる文字は理解できる。


「……へぇ、皇子様が生まれたのね。今代皇帝待望の第一子は男児……やっぱり、貴族制度のある世界は男児が良しとされるのね」


彩花は独り、記事をなぞる指先を止めた。


(テオって、貴族っぽいけど……爵位ってどのくらいなんだろう。こんな大きなお屋敷持てるくらいだし、相当偉い人なのかもしれないわ)


屋敷のメイドに尋ねようとしたが、彼女たちは決まって無言で頭を下げ、決して言葉を返さなかった。

「なぜだか、私と話すことは禁止されてるみたい……」彩花は胸の奥にわずかな寂しさを抱いた。


その夜、夕餉を共にしたあと、彩花は意を決して口を開いた。


「ねぇ、テオ。新聞で見たんだけど、皇子様が生まれたんですって……皇族や貴族ってやっぱり男の子を産む方が喜ばれるのね。テオも貴族なんだよね?」


テオドールは彩花をじっと見つめたあと、淡々と答える。


「……まあ、似たようなものだな」

「似たようなもの?それって、どういうこと?」

「時が来たら話すさ」


軽くはぐらかされるような言葉に、彩花は少し不満そうに唇を尖らせた。けれど、それ以上追及すれば、彼が嫌な顔をするような気がして、その夜は黙って引き下がった。


──それから時が流れ、彩花は十九歳になった。

そしてある日、彼女は妊娠していることを知る。


知らせを受けたテオドールは、目を見開いたあと、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「……本当に、アヤカとの子か」

その声音には確かな喜びが滲んでいて、彩花も胸の奥が温かくなった。


だが同時に、彼は何かを決意したように、重たい表情で告げた。


「アヤカ、言わなければならないことがある」


告げられた内容を聞き終えた瞬間、彩花の心臓は強く脈打ち、全身に怒りが広がった。


「意味がわからない……じゃあ、奥さんも子供もいるくせに、私とも関係を持っていたの?」


テオドールは苦しげに首を振る。


「皇后との婚姻は政治のためだ。愛しているのはアヤカだけだ。……それに、アヤカとも婚姻はできる。側妃としてなら───」


その言葉に、彩花の目は大きく見開かれた。


「側妃……? 二番目の妻ってこと? 要は、公認の愛人みたいなものでしょ。最低ね……!」


彼女は椅子を引いて立ち上がり、背を向けて歩き出す。


「おい、どこへ行く」

「もう、あなたとは一緒にいられない。この子は私が産んで育てるから……放っておいて!」

「待て、それは許さない!」

「あなたに私を許す権利なんてないわ!」


彩花は涙を浮かべながら叫んだ。


テオドールは必死に考えを巡らせ、ついに口を開いた。


「……私は、この国の皇帝だ。私の子を宿して姿を消すなど、大罪に他ならない。決して許されない」

「……今さら、そんなことを……最っ低」


吐き捨てるように言った声は震えていた。

彩花は初めて、自分が愛していた男が「ただの男」ではなく、世界を背負う存在だと知った。


その日を境に、事態は急速に進んだ。


彩花は平民のまま、異例中の異例として皇帝の第一側妃に迎えられることとなる。

高位貴族の養女となる準備さえ省かれ、逃げ道は徹底的に塞がれていた。


「今日からお前の名は……アリシアだ。聖女であることは決して知られるな」

「……はい、皇帝陛下」


唇は応えの言葉を紡いでいても、その胸の内では、長谷川彩花という名前が剥ぎ取られる痛みに血を流していた。

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