第百六話 アレスの母②
「父を……知っているんですか?」
「ええ。私を生かしてくれたのは、彼なのよ」
その言葉に、アレスよりも私の方が強く反応してしまった。
椅子から勢いよく身を乗り出し、声を荒げる。
「な、何があったんですか!?」
隣でアレスが眉をひそめ、短く遮った。
「……ステラ、やめとけ。そんな話よりディルを正気に戻すためのヒントを聞くべきだ。この人も聖女なんだろ」
声は静かでも、そこに滲むのは明らかな拒絶。
彼は、この話を耳にしたくないのだ。
(……そうよね。どんな事情があったとしても、アレスはあの皇城の塔に六年間も幽閉されてきた。存在すら隠されていたのに、素直に受け止められるはずがない……)
私は深く息をつき、話題を切り替えることにした。
「そうですね。……アイリーンさん、聖女のことについてお聞きしたいんです。最近こちらに転移してきた聖女様のことなのですが──」
私はこれまでに起きたことを一通り説明した。
アイリーンさんは頷きながら、静かに、ただ真剣に耳を傾けてくれる。
「……事情を話してくれてありがとう。公爵がそんなことになっていたのね」
「はい。魅了魔法のようなものじゃなければ説明がつかないくらい、不自然なんです」
私の言葉に、彼女はしばし考え込んだのち、静かに告げた。
「魔法じゃないわ。似ているけれど、あれは聖女が持つ精神干渉の能力よ」
「魔法じゃない……?」
「ええ。説明できる言葉がないの。ただ、『聖女の力』としか言えない。……それも、この世界に馴染む時に消えるのよ」
「じゃあ……その力で、お父様や皇太子殿下は……」
「そう考えるのが妥当ね」
アイリーンは言葉を区切り、少し声を落とす。
「ただね、記録に残っていた過去の聖女の力と、その聖女は少し違うの。普通は男女どちらにも作用するのに……話からするとその聖女の力は、男性にしか及ばなそうだわ」
「……!」
私は思わず息を呑む。
なるほど……だから彼女は私に能力を使わなかった。
使わなかったのではなく――使えなかったのだ。
「あともうひとつ、絶対に覚えておいて。能力が消えた時、掛かっていた人間は本来の精神に強烈に引き戻される。その反動は苛烈よ。……公爵のように愛していた娘を苦しめたとなれば、自分を許せず、強い嫌悪に陥ると思うわ。最悪の場合……自ら命を絶つ人もいる、と記録されていたわ」
「……あ……」
その瞬間、胸に閃いたのは、あの悪夢。
父が国を滅ぼし、最後に自害する光景。
胸が痛い。呼吸がうまくできなくなる。
私は慌てて深呼吸を繰り返し、心を鎮めようとした。
「ステラ……?」
アレスがすぐに気づいて、椅子を離れ私の横にしゃがみ込む。
彼の手が私の手を包み込み、そこから暖かな魔力を感じ彼の脈音が響く。
じんわりと広がるぬくもりに、乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「……どうした? 顔色が悪いな」
低く、心配そうな声。
私はかろうじて頷き、水を差し出してくれるアイリーンさんからの気遣いに感謝しつつ、喉を潤した。
(わかっていたはずなのに……。でも、あの夢が現実味を帯びてきた瞬間、こんなにも……苦しい……)
一度目の人生、私は父と暮らしてはいなかった。
思い出もほとんどない。
それでも、私にとってはたったひとりの父だった。
だから処刑されるその時、最後に必死で信じてほしいと縋った。
そして……父もまた隠し続けていた愛があったのだと、このやり直しの人生で知った。
終戦後からずっと遠くで見守り、私の幸せを願ってくれていたのだと。
お互い気が付かぬも繋がっていたその絆を、リナが引き裂いた。
私たちを最悪な結末へと追いやった。
黒い感情が心を覆い尽くそうとしたその時、アレスの声が響いた。
「……なぁ、俺からもひとつ聞いていいか?」
初めて、アレスが真正面からアイリーンさんに声をかけた。
きっと、私にばかり重荷を背負わせまいとして。
「……っ、ええ」
「さっきから“書いてあった”とか“見た”とか……その能力のこと、なにかに記してあるのか?」
確かに、彼女の言い回しは本から得たような響きを持っていた。
「ええ、そうよ」
アイリーンはゆっくりと頷き、姿勢を正した。
「……質問に答えるより、私が持っている情報を最初から全部お話しした方が早いわ」
そう言うと、彼女は深く息を吸い、淡々と語り始めた――。
◇◇◇
十五年前。
出産を間近に控えていたアイリーン──当時はアリシア側妃と呼ばれていた彼女のもとへ、皇都の大神官から一通の手紙が届いた。
「時が来たら、神殿にお越しください」
短い文面だった。
当時、アリシアが聖女であると知る者は、皇帝、皇后、三大公爵家当主、そして大神官カンデル・ミュラーのみ。
極秘の中で、皇帝の許しを得たアリシアは大きなお腹を抱え、神殿へと足を運んだ。
そこで彼女に差し出されたのは、一冊の古びた本だった。
「これは、私共には読めません。ここに辿り着いた聖女様のみが読むことを許されます」
静謐な神殿の空気の中、アリシアは息をのむ。
皇帝から聞かされていた。
聖女はこれまで幾人もこの国に現れてきた。だが、かつて聖女の力を巡って国内で争いが相次ぎ、その存在は厳重に秘されるようになった。
今では、ただの伝説のように語られるのみ――。
(ここに辿り着けた聖女……私のほかに、一体どれほどいたのかしら)
恐る恐る本を開いた瞬間、アリシアの目が見開かれる。
「……っ! これは……日本語……」
それは、かつてこの世界に召喚された聖女が残した、能力に関する記録だった。
“私たちが持つ力は二つ。
一つは治癒能力。どんな怪我や病でも、聖女の神聖力によって癒やすことができる。ただし、その強さは聖女自身によって異なる。
もう一つは精神干渉能力。これは扱いに注意を要する。
相手の精神に干渉し、自分の思い通りに操ることができるが、本人の意に大きく反する行為を強いれば命に関わる危険すらある。
本能的にその力を察知するだろうが……決して軽々しく使うべきではない。”
アリシアは胸の奥がざわつくのを感じていた。
――わかっていた。この世界に来た時から。
自分が癒やしの力を持ち、人を意のままにできる危うい力を抱えているのだと。
だが、彼女は決して使わなかった。
思い通りにできるからといって、人の心を操るなど許されるはずがない。
平民から側妃へと上り詰めた立場で、どれほどの中傷を浴びようと。
どんな毒を盛られようと。
アリシアはただ、毅然としてその力を封じ続けた。
そして――貪るように次の言葉を追った。
“そして、精神干渉の能力は初めての同衾を行ったあと直ぐに失われ、今までかけた能力も解けるようだ。どうやら突然この世界に来た私たちを馴染ませるための能力らしい。
ここからは、私に起きた出来事を書き記していく。”
――ページをめくると、そこにはその聖女がこの世界へ来た経緯、年齢、そして生涯にわたる出来事が丁寧に記されていた。
その中の一節に、目を引く記録があった。
“国家高技術魔法使いの友人ができた。彼女に頼み込み、私と同じような神聖力を持つ存在の記録を自動的に残せる魔法を作ってもらった。八年もかかってしまった。ほんとうに申し訳ないと思うが、これで突然この世界に来てしまった私のような女の子たちの、少しでも参考になるはずだ。
この本は皇都で最も大きな神殿に収めることにする。大神官に頼み、次代の聖女が現れたらここに導き、本を手渡して欲しいと。代々、大神官にその約束を伝えていってほしいと。
これで私の出来ることはすべてやり尽くした。”
“この世界で最も調べた元の世界への帰り方――それは、どうやら存在しないらしい。けれど、少しでも『聖女』と呼ばれるみんなが、この場所で幸せな人生を送れるよう祈ろう。”
最後には淡々と、友人に頼んだ記録で自動的に記録された自らの最期の記録で締めくくられていた。
“八〇六年 春の初月 二十日 二時五十八分 佐伯 幸 病により死去”
(……正義感の強い、立派な女性だったのね)
アリシアの目から、ひとしずく涙が零れ落ちた。
自分だけが異邦の苦しみに苛まれているのではない。
先人は、自らの人生を費やして未来の少女たちへ道を残してくれていたのだ。
(きっと、多くの聖女が……この記録に救われたはず)
胸に温かな光を抱きながら次のページをめくった瞬間、アリシアの心臓は大きく跳ねた。
“八二〇年 秋の中月 一日 八時二十五分 齋藤 真希 現し”
“八二〇年 秋の中月 一日 二十三時八分 齋藤 真希 魔物に喰われ死去”
「……え?」
ページに刻まれた、冷酷なまでに簡潔な二行。
そこには、聖女として現れた少女の名と、あまりにも短すぎる命の記録が残されていた。
アリシアの指先が震える。
インクの跡は乾ききっているのに、まるで血のように生々しく感じられて――彼女は言葉を失った。
その後の頁を追うと、数多くの名前が淡々と並んでいた。
だが、そのほとんどが――あまりにも短い人生で幕を閉じていた。
この世界に降り立つ瞬間、聖女は自分の降下地点を選ぶことができない。
唯一共通しているのは、「リンジー皇国のどこかに現れる」ということだけ。
だが、その「どこか」は――森の奥深くかもしれないし、他人の家の寝室の中かもしれない。
あるいは、増水した川の中という不運も。
運の悪い聖女は、姿を見られた途端に「不審者」として貴族に捕らえられ、そのまま命を奪われることもあった。
また、戦場に落ち、現れたその瞬間に斬られた者。
頼る者もなく食べ物を得られず、幼いまま餓死してしまった少女も。
アリシアの唇から、震える声が漏れる。
「ひ、酷い……」
目の前の文字はただの記録。けれどそこにあったのは、確かに生きた少女たちの、あまりにも理不尽な死の痕跡だった。
それでも――中には、過酷な環境を生き抜いた聖女の記録も混じっていた。
皇室はやがて、妙な衣服をまとい、暗く珍しい瞳の色を持つ女性が突如現れた場合――その者を「保護対象」と定めるようになったのだ。
神聖力を計り、聖女だと認められれば、一生国家の庇護のもとで生きられる。
記録の中には、庇護され、結婚して家庭を持ち、子供を授かったという例もあった。
それは短命な記録の中で、唯一希望の光のように輝いて見えた。
そして、そこに綴られていた一行が、アリシアの視線を釘付けにする。
“一二〇一年 春の終月 十二日 二時五分 木村 菜々子 女児出産 精神干渉は無効”
「……え?」
アリシアの胸にざわめきが走った。
精神干渉が“無効”。
子を産んだ聖女は力を失っているはず。
生まれた子も干渉を受けない。
つまり――聖女の力に抗える存在が生まれる。
(なぜか……今お腹にいるこの子と、自分に関係がある気がする……)
アリシアは震える手で本を閉じた。