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第百五話 アレスの母①

なんだか、心が軽くなったような次の日の朝。

澄み切った空気の中で吐く息は白く、庭に差し込む朝日が窓硝子をきらきらと照らしていた。


私とアレスは自然に手を繋ぎ、並んでフレッド様とニヴィア様の前に立っていた。

その手の温かさがまだ残る不安を静かに溶かしてくれる。


「ねぇ、ほんとに置いていくの?アレスくんのママとかマージで気になるんだけど……」


フレッド様は身を乗り出すようにして不満を漏らす。金の髪を揺らしながら、子供のように頬をふくらませて。


「そんな動機で来ようとすんなよ」


アレスは眉間に皺を寄せ、呆れたように一蹴した。


「せめて通信魔法とかないの〜? 繋いでおいてよぉ」


通信魔法――それは現実世界でいうところの電話のようなもの。

けれど、この世界ではあまり好まれていない。盗聴は容易、変声の魔法と組み合わされれば、誰が本物で誰が偽物か分からなくなる。

だから、今は造形魔法で生み出した小さな魔法鳥に印章付きの手紙を託す方が主流なのだ。


「フレデリック様、アレス様たちにも赤裸々に知られたくないことがありますわ。控えましょう」


ニヴィア様は静かにたしなめるように微笑んだ。その落ち着きに場の空気が少し和らぐ。


「ニヴィアちゃんは思わない? 俺らこんなに協力したのにさぁ」


フレッド様はまだしつこく食い下がる。大きな瞳をわざとらしく潤ませ、必死に懇願する仕草さえ見せて。


そんな様子にアレスは深くため息をついた。彼の横顔には、わずかに逡巡の影が走っていた。

協力してもらったのに、なにも知らせないのは確かに心苦しいのだろう。


「……聞いて欲しくないところはこっちで止める。それならいい……ステラもそれでいいか?」

「う、うん。アレスがいいなら」


驚いた。アレスがフレッド様の願いを聞き入れるなんて、これまでほとんどなかったのに。

少しずつ、彼の心も柔らかくなっている――そんな気がして、胸の奥があたたかくなる。


「よっしゃ!」

フレッド様は子供のように拳を握り、満面の笑みを浮かべた。


アレスは無駄な言葉を足さず、すっと片手を掲げる。

柔らかな光の膜が揺れながら二人を包み込み、こちらの音が相手に届くように、けれど相手の声は一切こちらに返さないように魔法を施す。


「今日見つかれば、繋ぐようにしておく。どこにいても勝手に聞こえてくると思うから」

「オッケー!」

「私まですみません、アレス様」

「いや、ニヴィア嬢には感謝してますから」

「え、“には”って? 俺は?」


アレスは相変わらずフレッド様を軽く無視し、魔力を練り上げていく。空気がわずかに震え、床の影が揺らめいた。


「……行くぞ」

彼の声は静かだったが、手を握る力が少しだけ強くなった。


私はふたりに笑顔を向けた。

「行ってきます」


眩しい光に包まれ、世界が切り替わるその瞬間まで――私の胸には確かな温もりと、ほんの少しの心強さが灯っていた。



◇◇◇


「ここでもなかったね……」

「はぁ、ほんと年齢いくつ誤魔化してるんだよ」


ため息混じりの声が、冷たい夕風にさらわれていく。

あれから二十三人ほど――“アイリーン”という名を持つ領民を訪ね歩いた。


アレスの母の実年齢に近い順からひとりひとり。

だが、三十五歳から四十歳にも、三十歳から三十五歳の間にも、“アヤカ ハセガワ”の名は見つからなかった。


「次は二十九歳。領地の中でもだいぶ田舎に住んでいるな……田舎は魔法があると言っても夜は相当暗い。日も暮れそうだし、ここで最後だな」

「そうね。アレスも転移魔法使いっぱなしで疲れたでしょう。ありがとうね」

「ステラのためになんなら、別にいい」


そう言うアレスの声は少し掠れていて、鼻を啜る音が混じった。

彼はそれを隠すように私の手をぎゅっと握り込み、そして迷いなく転移の魔法を発動させる。


「ここ?」

「そうみたいだな……ほんっとにえらい田舎だぜ」


辿り着いたのは、木々が深く茂る森のすぐ傍に建つ、小さな家。

傍らにぽつり、ぽつりと他の家も点在していたが、人の気配は薄く、あたりは不気味なほど静まり返っていた。

家の窓は暗く、灯りは一切漏れていない。


「いねぇっぽいな」

「うん……」


二人で小さく扉を叩き、窓から覗いてみたが、中に人影はなかった。

けれど、家具の整い方からは、ここに確かに人が暮らしている気配が残っている。


「でも、中は人が住んでいそうだったから、また明日来てみよう」

「そうだな。今日は帰──」


アレスが言いかけたその時――。


「待ってぇ……ダックルぅ……」


風に混じって、息を切らした女性の声が聞こえた。

足音が近づく。


「あなた、どうしてこんなに足が速いの……? あひるの癖に……っ」


声と共に姿を現したのは、鳥を追いかけて走ってくるひとりの女性だった。

長く伸びた薄ピンク色の髪をひとつに括り、頬を紅潮させ、額に汗をにじませながら。


私もアレスも、思わず息をのんで立ち尽くした。

彼女はまだこちらに気づかず、必死にあひるを追いかけている。


「ほら、お家に帰りましょう。私もお腹が──」


その声が途切れた。

ふと顔を上げた彼女の瞳が、こちらを捉えたからだ。


瞬間、世界が止まったように思えた。

その顔立ちは、あまりにもアレスとよく似ていて――。


「……」


呆然と立ち尽くす私たちを、彼女はしばらく見つめていた。

やがてその表情がふっと柔らかくほころぶ。


ゆっくりと歩み寄りながら、まるで再会を待っていたかのように、笑顔で告げた。


「いらっしゃい、よく来たね。中に入って」


夕暮れの光が彼女の背を淡く染めていた。

アレスの手のひらが強く震えたのを、私は握ったまま気づかないふりをした。


私たちが誰かなんて聞く必要もないと言わんばかりに、彼女はそれだけを告げ、自分の家の扉をゆっくりと押し開けた。中からは温かな空気がふわりと漏れ出し、どこか懐かしい香りが鼻をかすめる。


「お邪魔します……」


遠慮がちに声を掛けて上がろうとしたその時、彼女はすぐに振り返り、柔らかく制した。


「ちょっと待って」

「え?」


彼女は微笑みを浮かべながら、少し申し訳ないように言った。


「靴、脱いで。ごめんね、慣れないよね」

「あ、いえ……」


私は慌てて裾を少しだけ捲り、動きやすいように履いてきたブーツの紐へと手を伸ばす。

けれど、その動きを遮るようにアレスが目の前にしゃがみ込み、私の手を取った。


「立ってろ。俺がやる」

「え、いいよ」

「いいから。……これじゃやりづれぇだろ」


アレスはそう言って、町娘に扮した私のドレスを指差した。裾が床に広がってしゃがみにくいことを気遣ってくれたのだ。


「ありがとう」


器用な指先で紐を解き、片方ずつ丁寧にブーツを抜いてくれる。

その仕草を、家の主である彼女は微笑ましそうに見守っていた。


「すぐにご飯にするから、手を洗って待っていて」

「はい」


促されて向かった水場には、小さくなった石鹸がぽつんと置かれていた。

高級品であるはずのそれは、使い込まれて角がすっかり丸くなっている。彫刻や装飾はなく、ただ質素な塊。けれど、平民の家でこれを見ること自体が珍しかった。


(……平民は手を洗う習慣がないはず。それでもこうして置いてあるのは、きっと彼女が落ち着かないから。十五年以上経っても、日本で身に沁みついた習慣が抜けないんだわ)


そう考えながら手を洗い、拭ってから居間に戻る。

家の中央には小さな木の机と椅子が二脚。私とアレスは並んで腰を下ろした。

会話はなく、静けさの中で聞こえるのは鍋の煮える音と、漂うだしの香り。日本を思わせるその匂いが、逆に切なさを胸に広げていく。


やがて彼女は、湯気の立つ器を机に置いた。


「はい、どうぞ。お待たせ」


差し出されたそれを見た瞬間、思わず声が漏れる。


「わぁ……お味噌汁とご飯」


炊き立ての米、焼かれた魚、湯気の立つ味噌汁――。

この国ではほとんど食卓に並ぶことのない光景が、目の前に広がっていた。

懐かしいはずの香りに、胸の奥がじんと締めつけられる。


私の日本での記憶はぼんやりとしている。けれど、この人は違う。突然異世界に飛ばされ、それでもずっと日本を忘れずに生きてきたのだろう。きっと――日本が好きだったから。


「いただきます」


木で作られた箸を手に取ると、アレスの低い声が割って入った。


「食べんなよ。何が入ってるかわかんねぇだろ」


冷たくも鋭い声に、私は動きを止める。


「なにも入っていないわ」

「だとしても、俺らはここに飯を食べに来たわけじゃねぇだろ」

「そうだけど……」


険しい空気が漂ったその時、彼女が穏やかに口を開いた。


「私に聞きたいことがあれば、なんでも答えるわ」


――核心をつく言葉だった。

今さらながら、これが一番確認すべきことだと思い至る。


「あなたは……アイリーンさんですか?」

「ええ、今はそうね。もしあなた達が元側妃のアリシアを探しているのなら、それも私よ」

「……ハセガワ アヤカ。それも、あなたの名前ですよね?」


問いかけに、彼女は一瞬目を見開き、驚きを隠せない顔をした。

しかしすぐに伏し目がちに表情を和らげ、静かに頷いた。


「……私の本当の名ね。久しぶりに聞いたわ。……でも、よかったら今はアイリーンと呼んで。過去の名前は捨てたつもりなの」

「わかりました。……アイリーンさん」


私がそう答えると、彼女は穏やかな目でこちらを見て続けた。


「あなた達のことも、教えてくれる?」

「私は、ステラ・アルジェランと申します。彼は……」


彼女はきっと、アレスが自分の息子だともう分かっている。

それでも誰も口にしない。言葉にできない沈黙が胸を満たし、私は彼の名を呼ぶのをためらった。


けれど、その迷いを断ち切るようにアレスが自ら名乗る。


「……アレス・アルジェラン」

「……そう。二人とも、アルジェラン公爵のお子さんなのね」


アイリーンは安堵したように、心からの笑みを浮かべた。

その微笑みにほんのわずか涙がにじんでいるように見えたのは、私の錯覚だったのだろうか。


「父を……知っているんですか?」

「ええ。私を生かしてくれたのは、彼なのよ」


――その言葉に、アレスの肩がわずかに揺れた。

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