第百四話 勘違いと本音
少し長めです
ステラたちを見送ったあと、結局片付けは俺の魔法で全て行った。
その方が効率的だし、大切な書類を取り零す心配もない。
それに、なにより――早くステラの元へ行きたかった。
何も言わずに送り出してしまったが、きっとノベルトはステラを部屋まで送っていくだろう。
ステラの傍に男がいるというだけで、俺の不安や焦りはいや増しに膨らんでいく。
堪え切れず、転移魔法を発動させた。
足元に魔力が走り、視界が揺らぐ。すぐに景色が切り替わり、辿り着いたのはステラの部屋より少し手前の廊下だった。
「はい……よろしくお願いします」
目と鼻の先に、ステラの姿。
ノベルトと向かい合い、頬をわずかに染めながら何かを話している。
「じゃあ、結婚したら子供は何人ほしいとか希望は?」
「えっと……私はひとりっ子なので、理想は兄弟が多いと楽しそうなので四人くらいでしょうか?」
「そうですか。兄弟はいいものですよ。ただ、やはり多過ぎると母も大変ですからね。四人というのはちょうどいい数かもしれません」
落ち着いた声色、柔らかな笑み。
まるで彼女を未来へ導くかのような問いかけ。
その光景に、一瞬――俺は勘違いしかけた。
俺を差し置いて、ステラはその男との結婚の話をしているのかと。
胸の奥で何かが焼けるようにざわついた。理屈では分かっている。そんなはずはないと。
だが、理屈で抑えられるほど、心は簡単にできていない。
「そういえば、なぜアレス様と結婚が無理だと思ったのですか?」
「……それは、父が許してくれても彼は皇族だから」
切なげに伏せた瞳、寂しそうな声音。
ステラのその表情に、俺の心臓はひときわ強く跳ねた。
「身分は条件に合いますが、重いじゃないですか」
――重い。
その一言に、視界が揺れた。
(公爵令嬢に釣り合う身分は持っている。だが、その身分が……重い?)
頭の中で全てが繋がる。パズルの最後のピースがぴたりと嵌まったように。
つまり、俺は――皇子だからこそ、拒まれる?
重荷を背負わせる存在だから、彼女は「無理」だと言ったのか。
血が沸き立ち、胸が熱を帯びる。
今すぐ剣を抜き、目の前の男を斬り伏せたい――そんな衝動が喉元まで込み上げた。
どうやら、俺は義父に似てしまったらしい。
世間知らずで愛を知らなかった俺が、目の前で何年も見せつけられてきた「愛の形」は、いつの間にか俺の基準になっていたのだろう。だからか――胸の中で知らぬうちに黒い塊が膨らんで、理性より先に感情が昂ぶっていく。
魔力が湯気のように体のあらゆる場所から漏れ出していく。細い霧が空気を震わせ、指先からほの白い光が零れる感覚。ひとたび始まれば止めどなく、それが体外へと溢れていくのをただ感じていた。
その異常な気配に、ステラが振り向いた。
「――あ、アレス……! なんか気配がすごく濃い────」
「……アレス様?」
普通の人間並みの魔力しか持たないノベルトは、俺の周囲で爛々と踊る魔力には気づいていないようだ。だが、ステラにはわかった。彼女はぱっと顔を強張らせ、深く息を吸う。
胸が煮えたぎる。呼吸が浅く、苦しくなる。なんなんだ、この感覚は――。
「ノベルト様、走ってここから離れてください」
「え? どうして─────」
「いいから!! はやく!!」
ステラの声が張った。普段の柔らかい口調ではなく、命令のような厳しさを帯びていた。ノベルトは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「わかった」と小走りで廊下を駆け去っていく。まっすぐな背中が遠ざかるのを見送ると、ステラはすっと近づき、俺の手を取って自分の部屋へ引き入れた。
扉が閉まると、彼女は何も言わずに俺を包み込むように抱きしめた。柔らかな体温、いつもとは違うの髪の香りが鼻腔を満たす。俺の背中に掌を当て、ゆっくりと上下に撫でるその手の動きに、少しだけ理性が戻ってくる。
「アレス。大丈夫だよ、落ち着いて……ゆっくり呼吸してね」
そう言われて、ようやく自分が荒い息をしていることに気づいた。彼女の声は静かで、揺るがない。促されるままに、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。胸の奥で渦巻いていた熱が、少しずつ薄まっていく。
「うん、上手。目を閉じてもいいかも……ゆっくりリラックスしてね」
言われたとおりに目を閉じると、周囲のざわめきが遠のき、ステラの鼓動だけがはっきりと聞こえた。いつの間にか俺は彼女を強く抱きしめていたが、今はその密着がむしろ救いだった。彼女の指先が背中を滑り、荒れていた呼吸が整うにつれて体の中の魔力の乱れも収束していくのを感じる。胸の締め付けがゆっくりほどけていった。
「ふぅ、落ち着いたみたいだね」
顔を少し離したステラは、安堵で眉を緩めると、膝をついてどっと疲れを見せた。目の下にうっすら影ができている。彼女もまた、張り詰めていたのだろう。
「ほんっとによかった……ここでアレスレベルの人に魔力暴走起こされたら侯爵邸吹っ飛んでみんな死んじゃうところだった」
そう言って、ステラは小さく笑った。けれどその声には本気の安堵が滲んでいる。俺の胸の奥に、少しだけ温かいものが戻る。
「魔力暴走?」と返すと、ステラはくいっと眉を寄せて身を起こし、俺の手をしっかり掴んだ。
「え? 気が付かなかったの? 魔力が体の外に漏れ出して乱れてる気配が普通じゃなかったよ?」
彼女はしゃがんだまま真剣な目で俺を見上げる。白磁のような肌に夕闇の薄い影が落ち、細い声が耳に優しく響く。
「魔力暴走の原因は色々あるじゃん?身体に収まりきらないほどの魔力を抱えている場合とか、そういう病気的なものとか。でも一番多いのは――精神的な面だったよね……なにか、心に引っかかってることがあるんじゃない?」
慰めるためなのか、問いかけやすくするためなのか、ニコリと柔らかく微笑む。俺は、その笑顔の前で卑怯にも弱さをさらけ出してしまっている自分に気づいた。かっこ悪い――でも、どうしてもここでかっこつけられない。
ステラには、俺の弱いところばかり見せている。だからこそ余計に、彼女の前では強くありたい。義弟として見られるのではなく、守るべき男として見られたい。守る側でありたいのに、現実はいつだって俺が彼女を守れずにいる。
理想に近づこうともがくほどに、自分の足元が崩れていくようで、焦りが焦りを生む。それがいつの間にか内側で増幅して、魔力という形で外に現れてしまったのだ。
(もういいや、どうにでもなれ)
自嘲まじりに、そんな言葉が頭をよぎる。
「……俺を捨てないでくれ」
理性で選んだ言葉じゃなかった。胸から溢れ出た感情がそのまま口を突いて出ただけだった。
「捨てないわよ。捨てるわけないじゃない」
ステラの声は静かで、まっすぐだった。けれど俺の不安は収まらない。
「……俺以外と結婚すんな。もしするつもりなら、俺を殺してからにしてくれ」
「なぜそんなこと言うの? 私は……アレス以外と結婚する気なんてないわ」
その即答に胸が締め付けられたはずなのに、苛立ちが先に立った。
だって、さっきまでノベルトと未来の話をしていたじゃないか――。
「嘘吐き。あの、いかにも絵本の中の王子様みたいなやつとの子供を、四人ほしいんだろ? ……皇族の血を引く俺は、公爵令嬢のお前に相応しいけど……“重い”んだろ?」
投げつけるように吐いた言葉に、ステラは一瞬目を瞬かせた。次の瞬間――。
「ぷっ……ふふっ、あははははは!」
彼女は肩を震わせて笑い出した。
俺は絶句した。何も可笑しいことなんてない。むしろ俺は必死だったのに。
「なに笑ってんだよ」
声が荒くなる。するとステラは、笑いすぎて滲んだ涙を指で拭いながら首を振った。
「いや、ごめんごめん。……綺麗に勘違いしちゃってるなって。すれ違い、だね。昨日も似たようなことがあったから」
「すれ違い……?」
胸の奥に疑問と焦燥がせめぎ合う。
ステラはふっと笑みを収め、少し真剣な眼差しを向けてきた。
「ねえ、アレス。あのね──────」
そう前置きして、彼女は少し前にあった出来事を、丁寧に俺へと話し始めた。
◇◇◇
「そうでしたか。どんなお話を?」
「そ、それは……女性同士の秘密です」
「ははっ、そうですか。失礼しました」
ノベルトは穏やかな微笑みを浮かべ、ステラの歩調に合わせて廊下を進んでいた。
「私はてっきり、恋の話に花を咲かせていたのかと思ったんですがね……例えば、妹が大好きで仕方ない元公爵家のフレデリックの話とか、義姉弟の恋愛話とか……」
「き、気がついていたんですか!?」
ステラは立ち止まり、驚きで目を丸くする。
「はは、いやぁ……どうも勘が鋭い方でして」
ノベルトは苦笑まじりに肩をすくめるが、その瞳は冗談を言っているものではなかった。
「次いでに、アレス様って皇族だったりしますか?」
「え……!? あ、いやぁ……」
ステラの顔から一瞬で血の気が引く。
冗談半分に聞いたようで、けれど鋭く核心を突いたノベルトの言葉に、足元が揺らぐような感覚を覚えた。
◇
――ノベルトは本当に、勘のいい人間だった。
ステラが侯爵邸に来ると決まった時、ノベルトは父からこう言い渡されていた。
『アルジェラン公爵家の令嬢は未だに婚約者がいない。お前は侯爵家の次男だ。公爵は養子に爵位を継がせるらしいが、考え直して正式な血筋に継がせたいと思い直しかねない。令嬢に取り入って、公爵家の婿を狙いなさい』
どこまでも上昇志向を押しつける父の習性には、ノベルトも内心うんざりしていた。
しかし、かつて社交界の場で一度だけ交わした挨拶――そのときに見たステラの姿は、息を呑むほどに美しく、無垢で、誰もが守りたくなるような輝きを放っていた。
だからこそ、父の言葉を呑むことにしたのだ。
まだ十五歳の彼女に手を伸ばすには良心が痛んだが、自分は十九。
婚約から結婚、そして初夜を迎えるのは早くても彼女が十八になった頃だろう。その頃には今よりも大人だ。――そう見越して、子供であるステラの心を奪おうと思ったのだ。
そして、ステラが侯爵邸にやってきたその日。
出迎えの挨拶として跪き、手の甲にキスを捧げてみた。
だが、その瞬間。
アレスの険しい表情――嫉妬と怒りを押し隠しきれない瞳。
そして、無意識のうちにアレスを追うステラの視線。
その二つで、ノベルトは確信した。
ふたりはただの「義姉弟」などではない、と。
さらに――。
顔立ちは皇帝に似ていないが、陽光を宿したような黄金の瞳、そして淡く輝く氷の髪色。
そこから導き出される答えはただひとつ。
(……アレス様は、皇族だ)
◇
「やっぱりですか、公爵家に出自が非公開の養子と聞いていたので、ただ者ではないと思っていました。大体、出自が非公開の養子は私生児ですがね」
軽く冗談めかして言ったその声音とは裏腹に、ノベルトの眼差しは鋭かった。
その一言に、ステラの心臓は大きく跳ねた。
――気付かれてしまった。
アレスが皇子であることは絶対に隠さなければならない。
けれど、ニヴィアに続き、今度はノベルトにまで見破られてしまった。
(どうして私は……こうも嘘が下手なの……?)
自分の急な取り繕いの稚拙さに、ステラ自身が驚いていた。
隠し通す自信が、音を立てて崩れていく。
そんな彼女の不安を読み取ったのか、ノベルトは落ち着いた声音で言葉を重ねた。
「あぁ、大丈夫ですよ。多分、皆気づいていないと思います。彼と陛下の髪色は珍しいですが、少し青を足した髪色ならいくらでもいますし、瞳の色も……近くで注目して見れば煌めく黄金色ですが、会話する程度の距離なら、我々と同じ黄色の瞳と思われるでしょうから」
安心させるように微笑むノベルト。
その穏やかな笑みに、ステラはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「そうでしょうか……? でも、ニヴィア様には気づかれてしまいました」
弱々しく漏らす声に、ノベルトはすぐに頷いた。
「ニヴィアも、あれはあれで勘が鋭い。先々まで想像して、常に数手先を考える人間ですから」
「確かに……そうですね」
思わず笑みをこぼすステラ。
ようやく胸を撫で下ろした彼女を見て、ノベルトは満足そうに視線を細める。
しかし――その安堵が広がるより早く、彼は少しだけ調子に乗ったように、さらに踏み込んだ。
好奇心に光る瞳が、ステラを真っ直ぐに射抜く。
「それで、彼と結婚するのですか?」
「へ……!?」
ノベルトの穏やかな声に、ステラは目を見開き、思わず声を裏返らせた。
だが彼は冗談めかすでもなく、真剣そのものの眼差しを向けていた。
「だって、義理の姉弟でしょう。結婚を禁じる法律はありません。公爵にとっても好都合ではないですか。次期公爵である養子のアレス様と、アルジェラン公爵家の唯一の血筋のご令嬢が結婚すれば……全て丸く収まる」
さらりと言い切ったノベルトに、ステラは息を呑み、視線を落とした。
長い睫毛の影が頬に落ちる。
――ディルの顔が浮かんだ。
彼のことを思うと、今も胸の奥に哀しみが広がる。
そして、その哀しみが彼女に答えを選ばせた。
「ああ……お父様は、そういったことはあまり気になさいません。ですが……アレスとの結婚は、無理かもしれません」
かすれるような声。
それは、心の奥底に隠してきた諦めの片鱗だった。
(たとえ……お父様がいつか元に戻られたとしても、アレスとの結婚を許すかはわからない。
でも……結婚できなくても、私は彼の傍にいる。そう決めたの。……ただ、あの約束に間に合わなければ、私の人生は一年も経たずに終わってしまう)
そんな想いが胸を満たし、言葉にならずに沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、ノベルトの瞳が鋭く光った。
「無理かもしれない」という一言から、ステラとディルの間に何か深い諍いがあるのを直感していた。
だが、これ以上踏み込めば彼女を追い詰めてしまう。
ノベルトは瞬時にそう判断し、わざと明るい声を出した。
「そんなことはありませんよ」
ステラが顔を上げる。
「アレス様がステラ様を愛していることは……誰の目にも明らかです。心の底から、まっすぐに伝わってきます。……あなたも、そうでしょう?」
真摯な問いに、ステラは小さく、それでも確かに頷いた。
ノベルトは満足げに微笑むと、冗談めかした軽やかさを戻して言った。
「では、是非その時には――二人の結婚式に、ノヴァトニー侯爵家をお呼びください。お二人の行く末を、この目で見届けたいのです。……よろしいでしょうか?」
「はい……よろしくお願いします」
ステラは、頬をわずかに赤らめながらも素直に答えた。
――ここからは、アレスが見聞きした通りの場面だった。
◇◇◇
「だから、アレスが勘違いしていることなんてひとつもないんだよ。言葉が足りなかったの。“身分は条件に合うけど、重い”というのも、皇族からしたら婚姻を結ぶのに公爵令嬢という身分は条件に合うけど、責任が重いという話よ……」
ステラは落ち着いた声で告げた。淡い光が差し込む部屋の中、彼女の横顔には曇りがなく、ただ誠実さだけが浮かんでいた。
「正直、もしもマティアス殿下が何かで皇太子を廃位することになったら、皇太子はあなたでしょう。私は皇太子妃にも次期皇后にもなる自信はないわ……」
ステラは自分でも驚くほど素直に言葉を口にしていた。胸の奥でずっと考えていたことだったから。
マティアス殿下は今、聖女に心を奪われて皇太子としての務めをおろそかにしていると聞く。もし廃太子となれば皇子はアレスただ一人。必然的に、彼の妻は皇后となる。
皇位継承権の破棄がいつ許されるのかも分からない。場合によっては拒まれることだってあるのだ。
「大丈夫だ。俺は皇太子にはならないよ。皇位継承権の破棄ができなかったとしても、断固拒否する。次期公爵の身分を失ってもな」
アレスの声は低く、けれど迷いはなかった。
「そんなことできるのかしら」
「そんなことになるはずはないけど……なったとしたらどんな手を使っても皇太子になんてなれないようにしてやる。一切働かねぇよ」
「ふふっ、確かにそんな皇太子はダメね」
ステラは小さく笑った。彼の言葉は無鉄砲にも聞こえるけれど、不思議とその姿勢に安心する。
彼女はふと思った。きっと自分は考えすぎなのだと。死に戻る前、マティアスが廃太子になったことは一度もなかった。母が夢で見せてくれた未来では、リナが皇太子妃になっていたはずなのだから。
「俺は……ステラを失ったら生きていけないよ。自分はディルより心広いって面してっけど、本当は痛いほどあの時のあいつの気持ちがわかるんだ」
「うん」
「ステラを……狭い世界に閉じ込めているのは俺たちだってわかってるけど、怖いんだよ。広い世界で自分から離れていくお前を想像すると」
アレスの声は弱々しく、いつもの強気はどこにもなかった。プライドを捨てて吐き出す、支配にも似た本音。
最低だと自分で思いながらも、それを隠さずに伝えようとしていた。
けれどステラの返答は、やはり彼の予想とは違っていた。
「なぜ狭い世界で生きていくことが悪のような話し方をするの?」
「は? そりゃ、色んなことを知って色んな人間に出会って、その方がお前の可能性が広がんだろ」
「私はそんなの望んでいないわ。狭い世界だろうが、私は今の自分の世界が気に入っていて、大好きな家族がいて、恋もしている。友人だっているのよ? これ以上なにを望むの?」
ステラは優しく微笑んだ。その表情は揺らぎなく、アレスの胸に真っすぐ届いた。
「それに、私は結構その愛が心地いいのよ。不満があるとすれば……私はアレスとお父様、二人のどちらかを選べないから。お父様にアレスと離れることを強要された時は、しんどかったかな」
淡々とした声の奥に、苦しんだ記憶がわずかに滲む。だがその告白には迷いはなかった。彼女の中での答えは、もう決まっている。
アレスは息を詰めて彼女を見つめた。狭い世界が彼女にとって幸せなら、自分はその世界ごと守ればいい。そう胸に刻みながら。