第百三話 旅の理由
「どうして……こないのよ」
豪奢なカーテンが重たく揺れる皇宮の一室で、リナは震える指先で魔法鳥から届いた手紙を握りつぶした。紙の端が指の間でしわくちゃになり、かすかなインクの匂いが鼻先に混じる。勢いよく握り潰したものを床に放ると、音が鳴って室内の静けさを破った。
「公爵、また来られないって?」と、そばにいるマティアスが静かに訊ねる。彼の声は温かく、低く、リナの焦燥をほんの少しだけ和らげた。だがリナの目は怒りと不安でぐっと細く尖っている。
「しばらく会えないって。理由もなしに――どういうことなの? 忙しいってこと?」
リナの言葉は震え、唇の端が引きつる。顔はすでに火照り、頬は微かに紅潮していた。言葉の端々には、ただの不満では収まらない感情が混じっている。
マティアスはため息混じりに近づき、優しくリナを抱き寄せた。銀の髪が柔らかく揺れる。彼はそのままリナの背中をそっと撫で、落ち着くように小さな声で囁いた。
「リナには俺がいるだろう。婚約の話も順調だし、公爵は皇室の忠実なる臣下だ。必ず戻ってくるさ」
その掌の温度と胸の鼓動が、リナの凍りついた心のどこかに触れる。
けれど、抱きしめられたリナは何も感じていないようだった。胸の奥は冷たく、満たされるはずの好意さえ他人事のように思える。彼女の瞳は遠くを見据え、口元はかろうじて笑いを作るだけだ。
異世界転移して最初に出会ったのがこの男だった。
(激メロ男……!! この世界に、こんなレベルが存在するの!?)
最初の瞬間に恋に落ちたのは、リナにとって衝撃そのものだった。容姿端麗、物腰柔らか、場を支配するような存在感――だがその出会いの甘さは長くは続かなかった。聖女として称えられる快楽と賞賛に浸るうち、リナの中にある種の慢心が芽生えたのだ。
そして、彼女の心を乱す存在が現れた。
ステラ――すべてを持っているように見える少女。
公爵家の令嬢としての立場、透明感のある美しさ、そして男たちの視線を集めるその存在自体が、リナの心に小さな苛立ちを、やがては飽くなき嫉妬を植えつけた。
リナはその嫉妬をただの羨望には収められなかった。
やがてそれは燃えるような憎悪へと変わり、理性を壊していく。
ステラがいるだけで胸が痛む。
あの女が笑えば腹の底が裂けるほど悔しく、男たちが彼女に向ける視線を思うだけで血の気が引く。
(マティアスと婚約するわけにはいかない。早く、早く、あの女からアレス様を奪ってあげなきゃ……!)
リナはぐっと拳を握りしめた。
掌の内側に爪の跡が白く浮かぶ。目の前の温もりと、握り潰した手紙の破片を交互に見つめながら、彼女は小さく、しかし確かな決意を胸に秘めるのだった。
外の灯りが窓に反射して、ふたりの影を長く伸ばした。
◇◇◇
そして、その頃――。
ディルはひとり、夜気の冷たい墓地に足を運んでいた。
そこは、セレーナが生前こよなく愛した花々が咲き誇る場所。季節ごとに色を変える草花をディル自信が魔法で手入れを続け、今なお彼女の面影を残している。笑顔と共に過ごした思い出が、風に揺れる花弁に息づいていた。
そこへステラの花をそっと手向け、ディルは両手を下ろしたまま動けずに立ち尽くす。
風が吹き、落葉が石の表面を擦るように転がっていく。沈黙に支配された空間で、彼は低く掠れた声を落とした。
「なぁ……セレーナ。俺は、自分がよくわからない……」
吐き出すように言った言葉は、墓石に反響して自分の耳に返ってくる。
「ステラは……お前の命を奪った子供だ。なのに、どうして俺は……あんなにも大切にしてきたんだ?」
彼は、ただただ自分の弱さを語る。
「聖女が言った……ステラさえいなければ、死の原因さえ取り除けばお前を生き返らせられるかもしれない、と。馬鹿げているのはわかっている……それでも、希望を……捨てられない」
視線が震え、墓石の上を虚ろにさまよう。
「お前を失った日のことが……まるで昨日のことのように蘇るんだ。あの瞬間から、時が止まったままだ……」
彼らしくない、ひどく弱々しい声が、夕闇に沈む墓地に溶けていった。
空はゆっくりと黒に染まり、やがて冷たい雨粒がぽつりと肩に落ちる。すぐに雫は増え、彼の頬を伝う涙と区別がつかなくなった。
ディルの心は崩壊寸前だった。
自分が何をしているのか、何を望んでいるのか――わからない。
ステラを守ろうとする気持ちも、憎しみも、愛おしさも、すべてが渦巻いて本心を覆い隠す。
リナに会えば、一時は心が軽くなる。だが同時に、彼女と過ごす時間はさらに混乱を呼び、理性を削り取っていく。
まるで、自ら心を蝕む毒を求めているような感覚だった。
「……セレーナ……」
闇に呟き、雨に打たれながら、彼はただ亡き妻の名を呼んだ。
墓石に縋りつくように膝を折り、額を当てる。
愛する人に会いたい。もう一度、その笑顔に触れたい。
――いっそ自分も、そちらに行きたい。
その願いだけが、崩れかけた心をかろうじて繋ぎ止めていた。
◇◇◇
昼下がりの執務室。
大きな窓から射し込む陽光が、山のように積み上げられた書冊の背表紙を淡く照らしていた。
私たち四人は、領民票が纏められた本型の資料を机いっぱいに広げ、まるで膨大な海を泳ぐかのように紙の上を目で追っていた。
「この登録日が十五年以上前のものは飛ばしてもいいよな? 俺が生まれた日付以降のを見ればいいもんな」
アレスが眉間を押さえながら言うと、私は頷いた。
「そうね。じゃあアレスの生年月日よりも前のものは戻しましょう」
「まあ、それならかなり整理できますわね。領民の十五年定着率は高いですもの」
ニヴィア様がきちんと分類を進めながら、淡々と答える。
――そう。私たちはアレスの母を探していた。
十七万人と聞いたときは、そのあまりの膨大さに思わず息を呑んだ。とても人力で探せるものではないと思った。
けれど、条件を絞って一つひとつ手を動かすうち、ほんの僅かでも終わりが見えてくるような気がしてきたのだった。
「……っていうかさ」
フレッド様が欠伸をしながら、半ば退屈そうにページをめくる。
「アイリーンって名前でも、年齢は誤魔化してる可能性ない? バカ正直に書かないんじゃない? 一、二歳、もしくはもっと盛ってる女性って、世の中多いし」
「……んー、たしかにそれはありますね」
私は苦笑しながら、指で項目をなぞる。
「なら、全部の年齢のアイリーンを洗い出すしかないか」
結局、その結論に至り、再び黙々と本に目を落とす。
紙をめくる音と、誰かの小さな吐息だけが、広い執務室にぽつりぽつりと響いていた。
目を凝らし続け、細かな文字を追いかけ、指先で領民票をひとつずつ確認する。
探して、探して、ひたすら探した。
――膨大な名の海の中に、果たして本当にその人はいるのだろうか。
そんな不安が、次第に胸の奥にじわりと染みていくのだった。
夕方頃だった。
長時間にわたる探索の末、私たちはようやく全ての領民票を確認し終えていた。四人で手分けをしたおかげか、〝アイリーン〟という名を持つ女性は何十人も見つかっていた。
「……あぁぁ!! つかれたぁ!」
フレッド様が椅子にもたれかかり、ぐったりと机に突っ伏す。
「なんでさぁ、魔法で『特定の文字を探す呪文』とかないわけ? 絶対需要あるだろ!」
八つ当たりのようにアレスへと矛先を向ける。
「何のために魔法石の管理があると思ってんだよ。使う人間がいない魔法は造られてねぇんだ」
アレスはソファに腰を沈め、項垂れるように答えた。疲労の色は隠しきれない。
私はそんな二人を横目に、そっと口を開く。
「でも、こうして全部洗い出せたんだから良かったじゃない。それに……今更だけど、よく侯爵様は領民票の開示を許してくださったわね?」
問いかけに、ニヴィア様は小さく笑った。
「……それは、アルジェラン公爵家を信頼しているからですわ。それと同時に……恩を売っておきたい、という下心もあります」
(……そうよね。貴族社会に、純粋な親切心なんて存在しない)
二度目の人生を歩んでいてもなお、こういう場面で胸に刻まれる。私は心の中でそう呟き、自らへの戒めとした。
フレッド様が乱雑に紙束を手繰り寄せながら、ぼやく。
「でもさぁ、思ったよりいるよな。二、三十代に〝アイリーン〟って名前がこんなに多いとは」
「名前にも流行りがありますからね」
ニヴィア様が柔らかく返す。その光景を見ただけで、私は昨夜の女子会を思い出し、頬がふわりと緩んだ。
そこで、アレスが顔を上げて言う。
「実年齢が近い順から回っていく。効率を考えれば、それが一番だ」
「でも……この人数、休みの間に馬車で回れる?」
フレッド様が眉をひそめる。
「俺とステラで行く。転移魔法を使えば効率的だ」
迷いなく言い切った。
「は!? お前……俺らここまで付き合ったのに? 最後だけ置いてけぼりってありえねぇだろ!」
「四人で一日に何十件も回るなんて、さすがの俺でも疲れる。だからここまで馬車で来たんだ」
「……でもなぁ……」
「それに四人同時転移なんてしたことない。もし一人でもどこかに落としたら助けらんねぇぞ。下手すりゃ他国に飛ばされる。リスクが大きすぎる」
理屈は正しい。
――これはアレスの母を探す旅であり、観光でも娯楽でもない。
ニヴィア様が、静かに頷いた。
「行ってきてください。私とフレデリック様は大人しく待っております」
「え!? ちょ、ちょっとニヴィアちゃん!?」
「フレデリック様。ノヴァトニー領には、美味しいものや娯楽が沢山ありますわ。一緒に楽しんで待ちましょう?」
彼女は少しだけ顔を赤らめながらも、真正面からフレッド様を見据えていた。
その真剣な瞳に、いつも飄々としている彼が、珍しく言葉を詰まらせる。
「……え? あ、うん……?」
「では、決まりですね! 明日から別行動です」
「ええ……ありがとうございます、ニヴィア様」
話が一段落着いたところで、小さなノックの音が響いた。
「皆様、そろそろ夕食の時間ですよ」
開いた扉の向こうにはノベルト様。
明かりを背にした穏やかな笑顔は、昼間の疲れを和らげるようで、見ているだけで安心感があった。
「お兄様、ちょうど終わったところだったんです」
ニヴィア様が嬉しそうに報告すると、ノベルト様は妹を労わるように頷いた。
「大切な書類だ。使用人たちには触れさせられないから、片付けはフレデリック様とアレス様に任せていただきましょう」
「……あ、でも。片付けくらいでしたら私も魔法で――」
思わず申し出た私の声を、ノベルト様がやわらかく遮った。
「いえ、レディは男に任せておくべきです」
断り方は優しかった。けれど、その一言には迷いがなく、まるで私が自然に守られるべき存在だと当たり前に言っているようで……胸が少しだけ熱くなる。
「じゃあ、二人ともよろしくね」
「おう」
「任せて任せて!こういうのは男の役目だから!」
「俺は魔法で片づけられるんだ。お前は本当にいらねぇ」
「なぁ!? なんでいつもそんな当たり強いの!?」
結局、アレス様とフレッド様はまたいつものように言い争いを始める。
私とニヴィア様は顔を見合わせて苦笑し、ノベルト様の「さ、レディたちは一度部屋に戻ろうか」という声に従って部屋を後にした。
「じゃあステラ様、また夕食の時に」
「はい」
ほど近い場所にあるニヴィア様の部屋の前で彼女と別れ、残ったのは私とノベルト様。
自然な流れで、彼が私を部屋まで送ってくれることになった。
廊下は夕暮れの光に照らされ、窓から差し込む橙色が長い影を作っている。
その静けさの中で、彼はふと私を横目に見た。
「……昨夜は眠れませんでしたか?」
「え……? あ、はい。昨日は朝方までニヴィア様と話し込んでしまって」
少し気恥ずかしく答えると、ノベルト様は眉を和らげて笑う。
「そうでしたか。どんなお話を?」
「そ、それは……女性同士の秘密です」
「ははっ、そうですか。失礼しました」
軽く肩を竦める仕草も、どこか絵になる。
問いかけはほんの冗談のつもりだったのだろうが、彼の声音は柔らかくて、まるで大切に扱われているような心地がした。
ノベルト様との会話は不思議と安心感がある。
笑い方も、話題の振り方も自然で、こちらが構えなくても笑顔になれてしまう。
――そういう空気を纏えるのは才能なのだろう。
けれど。
だからこそ、その優しさがどこまで本心なのか、どこまでが社交としての仮面なのか。
今の私には、測りかねていた。
だが後に少しだけ、アレスとの関係を揺らしてしまうことになるのだった。