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第百一話 将来を想像して

侯爵邸の豪奢な内装は、目に映るものすべてが新鮮で、私は思わず胸を高鳴らせていた。

天井から吊り下げられた煌びやかなシャンデリア。壁を彩る豪華なタペストリー。赤い絨毯はふかふかで、歩くだけで靴音すら吸い込んでしまう。


「侯爵邸へようこそ。どうかごゆっくりなさってくださいませ」


にこやかに、しかし堂々とした所作でニヴィア様が私たちを迎えてくださる。

友達の少ない私にとって、公爵家で見慣れた豪邸とはまた違う作りや配置の貴族の家を訪ねるのは、とても楽しいことだった。


その時、階段の上からすらりと背の高い青年が姿を現した。

と整えられた長髪に、ニヴィア様と同じ飴色の髪。まっすぐな黄色の瞳は、太陽の光を宿したように明るく澄んでいる。


「ニヴィア、少し早かったな」


堂々とした声が吹き抜けに響く。


「お兄様! 今日は十八時頃にお客様がいらっしゃるから、お出迎えをとお願いしたはずですのに!」

「……あぁ。すまない、時間を誤認していた」


飄々とした答え方さえも、どこか優雅で隙がない。

ノヴァトニー侯爵家の令息にふさわしい気品が漂っていた。


私は、社交界で挨拶を交わした時のノヴァトニー侯爵家を思い出した。デビュタントを迎えている三人の他にもさらに四人いらっしゃるとか……


「ノヴァトニー侯爵家って確か───」と私が言いかけると、ニヴィア様が振り返り、青年を紹介する。


「はい、うちは八人きょうだいでございます。そのうち、こちらは次男のノベルトです」


名を呼ばれた彼は、迷いなく私の前に進み出て、片膝をついて跪いた。

私の瞳を真っ直ぐに見つめ、その表情には柔らかい微笑みが浮かんでいる。


「……?」


少し驚いている私の手を、彼はそっと取った。

熱すぎず冷たすぎず、優しく包み込むような手のひら。


「ステラ・アルジェラン公爵令嬢……再びあなた様にお会いできる日を、ずっと心待ちにしておりました」


その声音は甘やかで、絵本の中の王子様の囁きのように耳に残る。

続けざまに、彼は私の手の甲へ恭しく口づけを落とした。


「お兄様!!」


ニヴィア様が慌てて声を上げる。

けれども私は、少し驚きつつもすぐに気を持ち直した。少し前の貴族社会では紳士が女性へこうした挨拶をするのは珍しくなかった。


──ただ、隣で拳をギリギリと握りしめ、今にも飛びかかりそうなアレスの表情がそれどころではなかったけれど。


「おい……アイツ殺していいか?」

「やーん、アレスくんストップストップゥ〜」


面白がって止めるフレッド様に、アレスは露骨に苛立ちを見せている。


私はそんな二人を気にも留めず、公爵令嬢としての微笑みを浮かべた。

「素敵なご挨拶をありがとうございます。しばらくお世話になりますわ」


ノベルト様は目を細め、私に好意を隠そうともしない優しい笑みを向ける。

「ええ、どうぞ思う存分、我が家でおくつろぎください」


立ち上がると、今度はアレスの前に歩み寄り、恭しく一礼した。

「お初にお目にかかります。アレス・アルジェラン公爵令息様。姉君への無礼、どうかお許しくださいませ」


「……ああ」


アレスは短く、不機嫌さを隠そうともせず答える。

だがその返答さえ意に介さず、ノベルト様は最後にフレッド様へ視線を向けると、その眼差しが鋭く変わった。


「マーリン元公爵家の人間が、よくものこのことノヴァトニー侯爵家に来られたものだな」


「あっ……」そうだった、と私は思い出す。

かつてフレッド様とニヴィア様の婚約が取り沙汰されていた頃、マーリン公爵家の告発があったせいで、ノヴァトニー侯爵家も疑いをかけられたのだ。


睨まれたフレッド様は、気まずそうに頭をかき、いつもの飄々とした雰囲気が消えている。

「その節は……ご迷惑をおかけしました」


「お兄様! もうそれは、私たちの間でとっくに話は済んでいるでしょう? 楽しい場で蒸し返すのはやめてくださいませ」


ニヴィア様が強く諫めると、ノベルト様は少し肩を竦めた。

「ふむ、それもそうだな。……今日はお疲れでしょう。夕食を召し上がったら、お部屋でゆっくりとお休みください」


最後まで王子様のように振る舞う彼の仕草に、アレスがますます不機嫌になっていくのが、横からでもひしひしと伝わってきた。


案内された客室でほんのひと息つくと、すぐに夕食の席へと招かれた。

広間に足を踏み入れると、長いテーブルには白いクロスがかけられ、煌めく燭台の明かりが食器に反射して美しく輝いていた。


「皆さん、紹介させてください」

にこやかに立ち上がったニヴィア様が、順番に弟たちを示す。


「先程紹介した次男のノベルトお兄様に、こちらが三男の弟カイサル。双子で四男のアークに五男のアーウィン。そして、六男のイェルトです」


呼ばれた少年たちは一斉に立ち上がり、背筋をピンと伸ばした。まだ幼さの残る顔立ちにもかかわらず、誰一人として緊張に負けていない。侯爵家の血を引く者としての誇りが自然と姿勢に現れていた。


「皆様、ノヴァトニー侯爵家へようこそお越しくださいました」

一歩前に出たのは、端正な顔立ちの少年──三男のカイサル。まだ声変わりも終わらぬ若さだが、堂々とした口調は大人顔負けだった。

「ニヴィアお姉様の弟のカイサルです。来年から魔法学校に入学致します。どうぞよろしくお願いします」


真剣そのものの表情に、思わず私の頬も緩む。


「丁寧にありがとう。しばらくの間、お世話になります」


そう返すと、カイサルは満面の笑みを浮かべ、胸を張って答えた。


「はいっ!!」


その可愛らしい返事に、周囲の空気が少し和やかになった。


そして、すぐに食事の時間が始まった。

侯爵家の食卓は華やかでありながらも威圧的ではなく、食器の触れ合う音や子どもたちの小さな笑い声が心地よく響く。


フレッド様は珍しく口数が少なく、終始グラスを弄んでいた。けれども、場が沈まないのは一重にノベルト様のおかげだった。

彼は自然な笑みを浮かべながら、政治的な話以外にも軽やかに話題選び取っては、時に子供たちに話を振り、時に私とアレスへと話を回す。その絶妙な采配で、誰一人として置き去りにならない。


(……さすが侯爵家の次男。領地の家を任されているだけあるわ)


私が感心していると、ふとノベルト様がこちらへ視線を送る。その黄色い瞳はどこまでも真っ直ぐで、綺麗だった。


「あ、そういえば……」私はグラスを置き、思い出したように口を開いた。

「社交界の時は七人きょうだいだとお聞きした気がします。八人きょうだいって、もしかして……」


問いかけに、ニヴィア様が嬉しそうに頷く。

「はい。長男は皇都の父の元にいて、今日はご紹介できませんが……実は、先月、七男になる弟が産まれたのです」


「まぁ、それはおめでとうございます!」


ニヴィア様の言葉に、弟たちの顔が一斉にほころんでいた。


「弟っていうより、まだ赤ん坊ですけどね!」

「泣き声もすごく元気なんですよ!」

「僕は昨日抱っこしました!ふにゃふにゃしてて、小さくて……可愛いんです!」


双子のアークとアーウィンが前のめりに話すと、六男のイェルトも負けじと続ける。

「お兄様たちは抱っこしてばっかりでずるい!僕にはまだ抱っこさせてくれないのに……!」


子供たちの瞳はきらきらと輝き、言葉の端々から弟を大切に思っている気持ちが溢れていた。

その光景はとても微笑ましく、思わず私も口元に手を当てて笑ってしまう。


「ふふ……本当に可愛い弟さんなのですね」

「はい!絶対、侯爵家で一番の可愛い子です!」

アークが胸を張ると、アーウィンが「いや、僕だって可愛い頃があった!」と抗議し、席がさらに明るくなった。


そんなやり取りを眺めていたノベルト様が、ちらりと私に視線を送る。

「良ければ……末の弟に、お会いになってみますか?」


その問いかけは穏やかでありながらも、どこか誇らしげだった。


「え、いいのですか?」


ニヴィア様も柔らかに微笑んで、私に頷いてみせる。


「もしご興味があれば、食後にでも赤子の部屋へご案内いたしますわ」


温かな雰囲気に包まれながら、私は胸の奥がほのかに高鳴るのを感じた。



◇◇◇


食事が終わり、赤ん坊の部屋へと続く長い廊下を進む。



「母は産後一ヶ月はこちらで休んでおりましたが、一昨日から一週間、皇都の父の元へ参りました。弟は今、乳母が世話をしています」


歩調を乱さぬままノベルトが穏やかに語る。


「へぇ……お母様とお父様、仲がよろしいのですね」


ステラが素直に微笑むと、ノベルトは一瞬、照れたように目を伏せ、すぐまた朗らかに笑った。


「ええ。見ているこちらが気恥ずかしくなるほどに、仲睦まじい夫婦です」



彼は何をしても自然だ。立ち居振る舞いも会話も、淀みなく人を安心させる。

ステラの隣を取るのも、エスコートでそっと触れるのも、ごく当たり前のことのように振る舞い、気づけば彼女の笑顔を引き出している。


それが、どうしようもなく腹立たしい。


(……ステラはやっぱり、こういう男の方が好きなのか?)

頼りがいのある年上の男。完璧すぎず、けれど包容力があって……。


俺のように、守ると誓いながら守りきれない人間じゃなく。

大事なときに彼女を庇えず、結局傷つけてばかりの俺じゃなく。


先日のディルとの決闘が脳裏を過ぎる。

俺の不甲斐なさのせいで、ステラはあんな賭けを持ちかけた。

彼女の前髪に隠れる額に刻まれた傷痕を見るたび、胸が軋んで目を逸らしてしまう。


力をつけても、結局それを発揮できない自分。

そんな自分が、嫌で仕方がない。


「私も……いつか、あんな夫婦になりたいな」


ステラが小さく呟いた。

その声は可憐で、夢を語る少女そのものだった。


「ははっ、ええ、僕もそうなりたいと思っています」


ノベルトが軽やかに応じる。

すかさずニヴィア嬢も頷いた。


「私もですわ!……けれど、貴族の結婚はそう簡単にはいきませんものね」


「……でもまあ、身分さえ釣り合えば、夢ではないでしょう」


ノベルトが、ほんの一瞬だけステラを横目に見て言った。


その仕草すら、胸をざわつかせる。


ステラは可憐で美しい。

男なら誰もが惹かれるだろう。フレッドも、マティアスもそうだった。

だからこそ、わかっている。


俺は……ステラを誰にも渡したくない。

狭い世界に閉じ込めてしまいたい。

俺の腕の中だけで生きていてほしい。


(……ディルの気持ちが、今ならわかる)


ステラを縛りつけるあいつに嫌気がさしていたはずなのに。

今は、その衝動が痛いほど理解できる。


抑えきれず、小さくため息が零れた。

誰にも聞こえないように、深く胸の奥へ押し殺して。


ちょうど目的の部屋に辿り着いたようだった。

ノベルトが立ち止まり、指先で扉を軽く叩く。


「ここです。寝ているかもしれませんから、静かに……」


静かに扉が開かれると、部屋の奥には乳母と思しき女がいた。

揺り椅子に腰かけ、腕の中で赤ん坊をあやしている。


「皆様、坊ちゃまを見にいらしたのですね」

「……ああ、寝ていたか?」

「いいえ、丁度お乳を飲んだところで、ご機嫌でございますよ」


その声に導かれるように、ステラが赤ん坊へと歩み寄った。

俺は少し後ろに留まり、その横顔を見守る。


「わぁ……ちっちゃい……」

小さな囁きが漏れ、ステラの瞳が柔らかく揺れた。

乳母が微笑んで言う。


「ふふっ、抱っこしてみますか?」

「え……いいんですか?」


遠慮がちに問い返すステラに、乳母はゆっくりと頷いた。

そして、慎重に、両手に収まるほどの小さな命を彼女へと預ける。


「か、かわいい……」


ステラの腕に抱かれた赤ん坊は、不思議そうに瞬きをして、それから安心したように目を細めた。

その様子を見つめるステラの表情は──俺が今まで見たどんな姿よりも、優しくて、柔らかい。


……想像してしまった。


将来、ステラが自分の子を抱いている姿を。

幸せそうに、愛おしそうに、小さな命を胸に抱きしめる姿を。


絶対に、そばにいたい。

どんなことを犠牲にしても、あの光景を俺だけの隣で見たい。


俺には母親がどういう存在なのか分からない。

けれど──もし俺とステラに子供ができたなら、きっと彼女は誰よりも温かく、強い母親になるだろう。


これまでは「ステラとずっと一緒にいたい」という未来ばかり思い描いていた。

けれど、赤ん坊を抱く彼女の姿は、その先まで鮮やかに見せつけてくる。


……産むのはステラだ。しかも、身体に負担をかけることは避けたい。だが、夢見てしまう。


(はぁ、ステラの顔に認識阻害魔法かけたら怒るかなぁ)


そんな、口に出せないほど独占的で、どうしようもなく切実な想いが胸を占める。


腕の中の赤ん坊をあやしながら、慈しむように見つめるステラ。

その光景が美しすぎて、俺はただ黙って、息を殺すように見入っていた。

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