第百話 ノヴァトニー侯爵領へ
「お待たせしてしまいましたが、領地に皆様を招待できるなんて……とても喜ばしいですわ」
豪華な馬車の中、深い青のドレスを纏ったニヴィア様が、膝の上で両手を軽く合わせ、ぱっと花が咲くように微笑んだ。
窓から射し込む春の柔らかな光が、彼女の髪をきらめかせる。
「いいねぇ、俺最近忙しかったし旅行気分〜」
「なんでお前は着いてきたんだよ」
「ええ? ここはもう四人グループでしょ!? もしかして、俺を置いて三人で来るつもりだった?」
「……あぁ! うるさい」
アレスとフレッド様が、隣り合った座席で早速言い合いを始める。
わざとらしく大げさに肩を竦めるフレッド様と、心底鬱陶しそうに眉間に皺を寄せるアレス。けれど、そのやり取りにどこか余裕があるのは、なんだかんだで友人同士になっているからだろう。
(フレッド様……珍しく女装していないのね)
今日は男性としての姿で、明るい金髪を後ろで無造作に結び、旅装の上着を羽織っている。どこか軽薄そうに見えるのに、不思議と場を和ませる空気を纏っていた。
馬車の窓の外では、春風に揺れる若草や咲き始めた花々が流れていく。石畳を抜け、次第に大地の広がる田園風景が見えてきた。
(それにしても……)
あの日、お父様と話をして以来。
アレスは目に見えて不機嫌だ。
しかもその不機嫌さは、私にだけ向けられている。目が少し合うと顔に浮かぶ険しさに、胸の奥がチクリと痛んだ。……きっと、あの日、私が命を賭けるような約束をしたから、怒っているのだ。
「そういえば……アレス様のお母様の居場所の目処を着いておりますか?」
ニヴィア様が問いかける。彼女はにこやかな表情のままだが、その瞳はじっと、鋭くこちらを見つめていた。
「……」
「……」
私とアレスは同時に目を逸らし、互いに言葉を探すこともできず沈黙した。
その反応だけで、彼女にはすべてが伝わったのだろう。
「……ステラ様、アレス様。ご無礼を承知で申し上げます。ノヴァトニー侯爵領の広さをご存知でございますね?」
その声音には、普段のお淑やかな雰囲気とは違う、凛とした厳しさが宿っていた。
窓から差し込む光に照らされる横顔は、まるで領主そのものであり、背筋を自然と正させる威圧感を帯びている。
「我が家は成り上がりの侯爵家ではありますが、公爵家に継ぐ領地の広さを持っています。アレス様は公爵家の領地を経営されているのですから、その広大さを身をもってご存じのはずですわ」
静かに、しかし一切の甘さを含まぬ声音。
私は無意識にアレスの顔を覗いた。
アレスは一瞬だけ視線を合わせ、すぐに目を逸らす。
そのわずかな表情が「まさにおっしゃる通りです」と雄弁に語っていた。
ニヴィア様は背筋を伸ばし、指先まで気品をまとった姿勢のまま。
だがその眼差しには、父であるノヴァトニー侯爵にそっくりの、領地を背負う者の厳格さがはっきりと映し出されていた。
(やっぱり……)
私は心の中で呟いた。
いつもは柔らかなお姉さんのように見えていたけれど――こうして見ると、やはりあの厳格な侯爵と間違いなく血を分けた親子なのだ。
「せめて、今の名前さえわかれば……前のお名前は、もう使われていないでしょうし……」
窓の外を見やりながら、ニヴィア様が小さく呟く。
私は思わず手を挙げ、ぱっと前のめりになる。
「あ、それならわかります!! 今は、アイリーンという名で暮らしていると聞きましたわ」
「そうでしたか!!」
ニヴィア様の顔がぱっと明るくなる。瞳に小さな光が宿り、長い睫毛の影すら華やいで見えた。
「では、侯爵邸の領民票記録に名前があるかもしれませんわ。ですが、同じ名前の方もいらっしゃると思いますので……たしか御年齢は?」
アレスが窓の外へ目を向けたまま、淡々と答える。
「俺のことを二十で産んだと聞いているから……今は三十五だな」
私は小首を傾げ、少し眉を寄せて口を開く。
「ん? でも、彼女のように身を隠して暮らしたい方は……領民登録なんてしていないのでは?」
すぐにニヴィア様が、誇らしげに微笑んで答えた。
「いいえ、ノヴァトニー侯爵領は領民登録を必須事項にしているのです。領主家が支援を手厚くしている分、身分の確認は厳格に行います。そのため治安も非常に良いのですよ。誰がどこに住み、どのように暮らしているか――ほとんど把握できるようになっていますから」
「す、すごいけど……厳しさが侯爵らしい……」
私は思わず小声で呟いてしまった。あの堂々たる侯爵様の姿を思い出し、つい背筋を正す。
すると、ふと胸の中に疑問が浮かぶ。
「でも……どうして、わざわざ領民登録を必須にしている侯爵領に? 側妃様は身分を隠しているはずなのに……」
今度はアレスが視線をこちらに戻し、低い声で答えた。
「だからだろ。例え生きていることが誰かにバレたとしても――“厳しい管理下にある侯爵領にいる”なんて、普通は思わねぇ」
「……ああ、そっか」
短く言葉を返しながら、私は納得して大きく頷いた。
やはりアレスは、私よりもずっと頭の回転が速い。鋭い推察に、思わず感心してしまう。
側妃様――記録によれば、皇帝陛下は突然、平民であった彼女を側妃に召し上げた。
当時の名前はジェネット。
もちろん、陛下が彼女を聖女と知っていたからこそ起きた、異例の人事だろう。
本来であれば、たとえ下位貴族の令嬢であっても、一度は高位貴族の養子となり、格式を整えてから皇族に嫁ぐのが常。
そうでなければ、政治的な均衡を重んじる貴族社会と皇族の婚姻関係が、簡単に崩れてしまう。
それなのに――まるで時間に追われるかのように、平民から直接、側妃に迎え入れられた。
その後のことは想像に難くない。
皇室内での苛烈ないじめ。
今でもアレスを執拗に狙う皇后の執着を思えば、側妃様を亡き者にしようとしたのも当然、皇后だろう。
異世界からいきなり転移してきて、そんな仕打ちを受け続けてきたなんて……。
(本当に、大変だったでしょうね……)
アレスは深く息を吐いた。吐き出された空気には、安堵と哀しみが入り混じっていた。
「じゃ、先に侯爵邸に行って、領民票記録の魔法石で名前を───」
「あ……アレス様。領民票記録は紙でございます」
その瞬間、さっきまで安堵を浮かべていたアレスの表情が凍りつく。
「……え?」
「どうしたの?」と私が尋ねても、アレスは答えず、じっとニヴィア様を見つめた。
そして、声を低くして確かめるように問いかける。
「領民の数は? 三万人ほどか?」
「いえ、十七万八千人程と聞いております」
「……それを、全部……紙で?」
「ええ、紙でございます」
「マジか……」
アレスは額に手を当て、心底から絶望したように頭を抱え込んだ。
ニヴィア様は続ける。
「魔法石は、盗まれれば一発で全てが終わりますでしょう? ですが、持ち出すことも困難な量の紙であれば、情報を一度に抜き取ることはできません」
アレスは呆れと疲労が混じった顔で、力なく呟く。
「……魔法石に結界を張れば、膨大な紙より管理も楽だし、結果的に経費も抑えられるんだがな」
「そうなのですが……お父様は魔法をあまり信用しすぎてはいけないと考えておられる方でして」
ニヴィア様の説明を聞いても、アレスの瞳はどんどん光を失っていく。
最近はニヴィア様にすら取り繕おうとしなくなり、口調も素の乱暴さがにじみ出ていた。
空気が重くなっていくのを察して、私は慌てて口を開いた。
「ま、まあ! でも、手分けして調べればすぐですよ! 領地全体を闇雲に探すよりずっと効率的です! ですよね? フレッド様!」
助けを求めるように隣へ視線を向ける。
──しかし。
「……寝てる?」
「寝てるな」
「寝てますね」
馬車の揺れに合わせて小さな寝息を立てる金髪の美貌の伯爵。
姿勢良く座ったまま、気持ちよさそうに夢の中。
その自由さに、私もアレスも、そしてニヴィア様でさえ呆れと苦笑を漏らすしかなかった。