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決意の涙と、閉ざされた扉

夜が深くなるほど、心の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。

誰かの言葉が、誰かの涙が、閉ざされた感情の扉をそっと揺らすことがある。


今回の物語は、そんなひとつの「震え」から始まります。

それは王子としての責務ではなく、一人の人間としての“感情”に触れた瞬間。

過去と未来の狭間で、アレクサンドルは自らの決意を抱き、進み出します。


静かな夜に灯る、心の光を辿るように──。

 

「親愛なるエドワード……これが僕の決意だ。」


 静まり返った夜の書斎で、アレクサンドルは独り、震える手を胸に当てながらそう(つぶや)いた。


 心臓がまだ“あの時”の余韻を刻んでいる。記録の間で出会った、あの不気味な“手紙”。いまもまぶたの裏に焼きついているのは、あの文字の最後に走ったペン先の跳ね。無造作に、けれど確かに意志を持って“跳ねた”あの筆跡だ。


 《助けを……記録の間……》


 《彼らは……“扉”を……》


 そして、最期に──


 《──死が、来る》


 紙に記されたその言葉たちは、既にこの世にいない誰かの“叫び”だったのだろうか。


 それとも、まだ届いていない“未来”への警告だったのか。


 わからない。


 ただ一つ、確かだったのは、その瞬間、なぜか涙が(こぼ)れたということ。


 何に対する涙だったのか、彼自身にもわからなかった。恐怖か、怒りか、それとも哀しみか。はっきりしないのに、頬を伝う雫は熱かった。


 ──どうして、涙が出た?


 誰かの死を恐れて? それとも、何かを思い出しかけたから? 答えは出なかった。だが、確信だけは胸の奥に残った。


 この涙には、意味がある。


 感情は、記憶に先んじて現れる。魂が真実に触れたとき、言葉より先に心が震える。


 その震えが、きっとあの“扉”を揺らす鍵になるのだと、直感していた。


「……だから僕は、進むよ。たとえ過去に何があったとしても、真実を知るために、この手で扉を開けてみせる」


 そうつぶやいた時、窓の外にひとひらの光が舞った。夜の(とばり)を裂くように、淡い月光が床を照らしている。その光の中、アレクサンドルの瞳が静かに揺れていた。


 翌朝、王室図書館の奥、陽の差さぬ静かな書庫で、アレクサンドルは再び彼と向き合っていた。


 エドワード・ファーヴェル。

 知識の海をその眼に宿したこの老学者は、王家に仕える者として、そして何よりアレクサンドル個人の教師であり、支えでもある存在だった。


「……記録の間で、こんな手紙を見つけました」


 アレクサンドルは封筒の中身を慎重に取り出し、古びた羊皮紙を差し出した。エドワードは黙ってそれを受け取り、文字を追う。その表情は一見無表情に近いが、わずかに揺れる眉と口元が、何かを思い出していることを物語っていた。


「この“扉”とは、なんのことだと思いますか?」


 しばし沈黙の後、エドワードはゆっくりと椅子に腰を下ろし、眼鏡の奥で細めた瞳をアレクサンドルに向けた。


「この文にある“扉”……それは比喩ではなく、おそらく本当に存在する」


「……本当に?」


「ああ。かつて王国が“ある真実”を(ほうむ)ったという記録が、わずかに残されている。その際、物理的な封印と同時に、“記憶の封印”も施されたとされている。すなわち、その扉を開くには──」


 彼はそこで言葉を切り、アレクサンドルをじっと見つめた。


「──何よりも“魂が揺れた証”が必要なのだろう。王家に受け継がれる記憶と感情。それが、鍵になる」


「感情……」


 アレクサンドルの胸に、昨夜の“涙”の感触が蘇る。


「それじゃあ、僕があの時、理由もなく泣いたのは……」


「理由が“ある”からこそ泣いたのだよ。君が気づいていないだけで、心はもう、扉の前に立っていたのだ」


 その言葉は、どこか遠い記憶を呼び覚ますような、柔らかな響きを持っていた。



 図書館の静寂を破ったのは、風だった。



 窓は閉まっている。だが、確かにアレクサンドルの髪がわずかに揺れた。冷たい空気が、指先から肩を抜けて背中を()でるように通り過ぎる。


「……風?」


 違う。これは風ではない。


 エドワードがふと目を細めた。その表情は、“何か”の存在を察しているようだった。


「来たか……」


 そうつぶやいた次の瞬間、空気が震えた。目に見えない“何か”が、この場所に姿を現したかのように。


 その“何か”は、静かに、けれど確かにアレクサンドルの足元へと寄り添う。


「……ルナティス?」


 名を呼ぶと、音もなく現れた。

 銀の霧のような毛並み、月光をそのまま閉じ込めたような瞳。

 精霊狼──ルナティスが、姿を現した。


「お前の心が、また揺れたな」


 その声は、空気を震わせずにアレクサンドルの意識に直接届いた。低く、澄んでいて、どこか懐かしい響き。


「……どうして、今来た?」


「感情が開いた。お前の中で、“封じられていたもの”が揺れたのだ。感情とは、最も古く、そして最も強い魔だ」


 アレクサンドルは一瞬、言葉を失った。


「……僕の感情が、何かを……?」


「その涙は、過去と未来を繋ぐ“鍵”だ。扉は既に揺れている。いま、封印の地が、お前を待っている」


 ルナティスが床を蹴り、静かに部屋を出ていく。その背に、アレクサンドルは言葉なく立ち上がり、無意識にその後を追った。


「どこへ行くつもりだ?」


 後ろからエドワードの声が届く。


 振り返らず、アレクサンドルは答えた。


「……扉の場所へ。僕の心が、それを求めている」


 ──冷たい石の扉が、微かに震えた。


 触れてもいないのに、アレクサンドルの涙が頬を伝い落ちた瞬間、その重厚な封印がわずかにきしんだのだ。


 まるで、魂の奥底に眠る何かが共鳴したかのように。


「……やっぱり、涙だったんだな」


 言葉にした瞬間、胸の奥に焼けるような痛みが走る。これはただの悲しみではない。かつて“守りたかったもの”を守れなかった記憶。幼い頃には耐えられなかった、あの夜の感情だ。


「親愛なるエドワード……君だったから、僕は泣けたんだ」


 誰にも見せたことのない涙だった。王家の血を引き、剣と知識を叩き込まれてきた彼にとって、涙は弱さの証だと思っていた。だが違った。あの涙は、心の底に刻まれた“絆”そのものだった。


 ルナティスがアレクサンドルの隣に静かに(たたず)む。


「お前の血に刻まれし力……ついに目覚めたな」


 精霊との契りによって与えられた“血皮(けっぴ)”が、今、脈動している。

 それは感情と記憶を繋ぎ、失われた真実を呼び起こす力。


 扉の表面に、微かな光の紋様が浮かび上がる。刻まれていたのは、古の言葉。


 ──《記憶ノ共鳴、魂ノ扉ヲ啓ク》


「記憶が、鍵になる……」


 幼き日、エドワードの膝で聞いた物語。

 優しかったその声は、今もはっきりと脳裏に残っていた。


「君は、いつかこの世界を変えるたった一人の存在になる」


 その言葉の真意が、ようやく輪郭を持ち始める。


 この扉の奥には、王国の過去──いや、世界の根幹を揺るがす“真実”があるのだろう。

 その鍵となる存在に、彼が選ばれた理由。


 それを知る旅が、今始まる。


 ルナティスは静かに言った。


「扉は……お前を受け入れた。ただし、すべてを見通したわけではない」


「……わかってる。けれど、進むしかないんだ。もう、戻れない」


 アレクサンドルは静かに手を胸に当てた。

 エドワードが遺してくれた想い、導いてくれた知識、そして流させてくれた涙。


 それが、彼の“原点”だった。


 扉が、わずかに開く音がした。

 冷たい空気の中に、微かに漂う温かな記憶の匂い。

 懐かしくて、切なくて、涙がにじんだ。



「……見つけることができた。ありがとう、エドワード」


 微かに開いた扉の向こう、確かに“何か”が待っている気がした。


「僕はもう、後戻りできないな……エドワード。君の言葉が、今、僕を動かしてる。」





ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第9話では、アレクサンドルの「涙」と「決意」、そして彼を導く存在との再会を描きました。


感情というものは、時に記憶よりも真実を語る。

そのひとしずくが、閉ざされた扉を揺らし、新たな道を開く鍵になる。

そんなテーマを胸に、この物語は新たな段階へと進んでいきます。


次回、彼がその扉の先で出会う“真実”が、彼自身の在り方をどう変えていくのか──

物語の核心に、少しずつ近づいていきます。

続きもぜひ、お楽しみください。

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