閑話 弔い酒
ひっそりと静まり返るグリムアル大図書館。来るものを拒むようなアエラが満ちる空間に、しかしその人物は躊躇なく入ってきた。入口付近のカウンターに置かれているハンドベルを手に取り、力強く振る。
館内に澄んだ音がこだまして、ベルから虹色の星々が飛び出した。
色鮮やかな流星は、二階で業務にあたっていた番人のもとへ飛んでいく。星の知らせを受けた彼は、すぐさま一階へ下りた。来客の顔を見るや、引き締めていた頬を少しばかり緩める。
「これはこれは。ようこそ、監査員殿」
「おう。来たぞ、メルクリオ」
大図書館監査員・サダルスウドは、気さくに左手を挙げた。人懐っこい笑みがくしゃくしゃの顔を彩る。
「調子はどうだ。ちゃんと食べてるか?」
「食べてるよ。……あんた、毎回それ訊くよな」
「当然。腹が減っては戦はできぬ、って言うからな!」
二の腕を叩いたサダルスウドは、豪快に笑う。就任直後からほとんど変わらないやり取りに、メルクリオは顔をほころばせた。つかの間ルーナと目を合わせてから、監査員を奥へと案内した。
定期報告を終えてから雑談、という流れもずっと変わらない。ただ、サダルスウドが相手だと報告もどこか砕けた雰囲気になり、雑談との境目が曖昧になりがちだった。
「しかし、おまえさんも丸くなったよなあ。あんだけぎらついてたのが嘘みてえだ」
応接室で報告書を手渡した直後、サダルスウドがそんなことを言う。ちょうどお茶を持ってきたメルクリオは、両目をしばたたいた。
「……前の俺って、そんなぎらついてたか?」
「それはもう。毛を逆立てた猫のようだった」
「猫って」
ぎらついている生き物の例えとして微妙な動物を出されて、メルクリオは目をすがめる。考えるのをやめて、サダルスウドの前にカップを置いた。自分のものを反対側に置きながら、なんとなく彼を観察する。
「そういうサダルスウドは、雰囲気は変わらないよな。見た目はだいぶ変わってるかもだけど」
「はっはっは! まあ、この役職について二十年近くなるからな。さすがの俺も年を取る」
さっぱりと言う彼は、昔と比べて頭が白くなった。改めて見てみれば、しわもかなり増えている。対面に座ったメルクリオはつい、少しも変わらない自分の手を見つめてしまった。
『もう若くないんですから、体を労わってくださいね。お酒はほどほどに』
ふわふわと二人の間を行き来しているルーナが、客人に釘を刺す。彼は得意げに笑った。
「最近はかなり制限してるぜ。まあ、今夜はその分飲みにいくと決めているがな」
『まったくもう……』
仕様のない、と言わんばかりに羽を動かすルーナを見て、メルクリオは頬杖をついた。
「酒ねえ。あんた、どんなの飲むんだ?」
「おっ。聞くか? 俺に酒を語らせると長いぞ」
「あー。まあ、将来の話の種として拝聴するよ。俺は一生飲めないだろうから」
メルクリオは口の端を持ち上げて、陽気な声に耳を傾ける。
この日々がずっと続いていくのだと、知らず思い込んでいた。
しかし、時は流れる。人は老いる。
それを本当の意味でメルクリオが理解したのは、半年以上後のことだった。
※
「最近来ないな、あいつ」
その日の朝、広間のカウンター周辺を掃除していたメルクリオは、ふと思い立って扉の方に視線を投げた。
あいつとは、サダルスウドのことである。現在、大図書館監査員は二か月に一度の頻度で来るのだが、今回は半年経っても音沙汰がない。
ルーナも同じことに気づいたのか、忙しなく羽ばたく。
『そういえば来ませんね。王都でのお仕事が忙しいのでしょうか』
「だとしても、報告書すら受け取りにこないのはおかしいだろ。大図書館監査員だぞ? あのサダルスウドだぞ?」
『た、確かに』
ルーナの目つきが険しくなる。――と言っても、元々の見た目が見た目なので、あまり緊張感は出ないのだが。
『一度問い合わせてみましょうか――』
ごく自然な提案が、不自然に途切れる。まったく同じ時、メルクリオは扉を凝視した。
誰かがグリムアル大図書館にやってくる。知らない人だ。だが、害意は感じられない。
その人物の気配は、ちょうど扉の前で止まった。分厚い扉越しに声など聞こえるはずもないが、入れてくれと要求されているのは伝わってくる。
メルクリオは、一度、小さく息を吐く。せっかく広間にいるのだ。顔を見て、言葉を交わしてから判断してもいいだろう。そう結論付けて、「どうぞ」と呟く。二枚の扉が、重々しい音を立てて開いた。
そこに立っていたのは男性だった。四十代くらいだろうか。暗めの金髪をなでつけ、角ばった顔のあちこちに深いしわを刻んでいる。分厚い外衣の下からのぞくのは、王都の役人の制服だった。
メルクリオは目をみはる。一方、突然やってきた役人は、彼と目が合うときれいに一礼した。
「突然の訪問、失礼する。大図書館の番人殿」
「あ、はい」
メルクリオは、どぎまぎと返事をした。
相手の声に好意的な響きは一切ない。表面だけにこやかな人に比べればやりやすいが、長く話していたいと思う種類の人間でもない。
ただ、今は唐突すぎてそんな感情すらあまり湧かなかった。困惑のあまり、普段は使わない敬語が出る。
「えーと……どうされました?」
「火急の知らせを持ってまいった」
「知らせ?」
メルクリオは首をかしげる。ルーナも、怪訝そうにまばたきした。
気の抜けた反応を見せるふたりをまっすぐ見すえ、役人は淡々と告げる。
「先日、サダルスウド殿がご逝去なされた」
温度のない言葉は、静かな広間を揺蕩って、ふたりの中に染み込んでくる。石の亀裂に入り込んだ雨水のように、じわじわと。
メルクリオたちは、しばらく無言で立ち尽くしてしまった。神経質そうな役人も、さすがに苦言を呈しはしない。
彫像のように立っている男性を見つめ、メルクリオは無理やり口を動かした。
「つまり……死んだ、の? サダルスウドが?」
「そうだ」
「なんで?」
「直接の原因は病と聞いている。先ごろ、こちらから王都に戻った後から体調を崩されていて、それが悪化した形だ。だが、ご年齢を考えれば――」
寿命、ということか。
メルクリオは頭を抱えた。こういうとき、どう対応するのが正解なのか、彼にはまだわからない。しっちゃかめっちゃかになった思考と戦っていたとき、ルーナが二人の間に進み出た。
『話はわかりました。わざわざお知らせいただき、ありがとうございます。――故人のご冥福をお祈りいたします』
薄羽が震える。鈴のような音が散った。
役人は、慇懃に頭を下げる。
「ありがとうございます。大図書館の館長からお言葉を賜り、サダルスウド殿も喜んでいらっしゃることでしょう」
心にもないことを。
メルクリオとルーナの言葉が、奇しくも胸中で重なる。
サダルスウドはルーナという個の精霊を気に入ってはいたが、今の『大図書館の館長』に対しては冷淡だった。最初の宣言通り、その行いを非難し続けていたのだ。彼の姿勢を知っていれば、そんな言葉は出てこないはずである。
ふたりの内心を知る由もない役人は、それから事務的な話を始めた。
「後任が決まるまでは、私が代理を務めることとなった。基本的には報告書のみ受理させてもらう形になるが、要望や重大事項がある場合は、聞き取ってしかるべきところに伝える。何かあったときは速やかに申し出るように」
「……わかった」
ひとまず感情をのみこんで、メルクリオはうなずく。それからふと、天井あたりを見た。
「そういえばさ」
「なんだ?」
「その『要望』って、何か食べ物や飲み物を持ってきてほしい、っていうのでもいいの?」
役人は軽く眉を上げる。が、すぐに顎を動かした。
「もちろん、問題ない。食物、飲料、嗜好品、そういったものも希望を伝えてもらえれば、可能な範囲で用意する」
大図書館の番人は、仕事以外での外出が原則禁じられている。万が一にも魔族を外に出さないためだ。当然買い物などにも行けないため、生活に必要な物はオロール王国から支給される形になっている。
本来、その要望を聞くのも監査員の仕事だ。が、メルクリオは特にこだわりがなかった――こだわりを持つ機会がなかった、ともいう――ので、サダルスウドがそれを国側に伝えることも、ほとんどなかった。勝手に届けられる食べ物などを文句も言わずに使っていた、というわけだ。
この日初めて、メルクリオは個人的な要望を役人に伝える。
「じゃあ、カロッサエールを瓶一本。できるだけ早く持ってきてほしい」
それまで仮面のようだった役人の顔が、確かな驚きに染まった。
「貴殿は酒をたしなむのか?」
「まさか。この体で飲むのはまずいだろ」
恐る恐る尋ねた彼に、メルクリオはひらひらと手を振る。その後、ぽつりと付け足した。
「サダルスウドがよく飲んでたんだってさ」
役人はそれに対して、感想のひとつも言わなかった。ただ「そうか。承った」と返しただけである。どこまでも事務的で、感情を読み取ることすら難しい。
メルクリオは彼と情緒的な会話をすることをあきらめて、必要な情報だけを交換した。それが済むと、さっさと帰っていく彼を見送る。
役人が帰る直前、ルーナが彼の方に飛んでいって話をしていたが、メルクリオは特に気にしていなかった。
それからしばらく経ったある日。グリムアル大図書館に瓶入りの麦酒が二本届いた。
「あれ? なんで?」
目を瞬いたメルクリオのもとに、ルーナが飛んでくる。
『ああ。私が追加で頼んでおいたんです』
「そうだったのか。……なんでまたそんなことを」
『必要になることもあるかと思いまして』
さらりと答えた精霊は、何事か企んでいるようにも見えた。眉を寄せたメルクリオは、その内心をのぞき見てやろうと意識を集中させる。しかし、どうやって遮断しているのか、彼女の『もうひとつの声』は一切聞こえてこなかった。
「……まあいいや。二本くらいならあって困ることもないし」
ため息とともに結論付けて、酒瓶を魔法で浮かせる。
後任の監査員がお酒をたしなむ人ならば、一本はその人にあげてしまおう。そんなことを考えながら、応接室兼台所を目指して空を蹴った。
その日の業務が終わった後、メルクリオは大図書館の最奥へ戻る。作り置いていた煮物と硬くなったパンで夕飯を済ませた後は、完全な自由時間となった。ひと息ついたとき、酒瓶の存在を思い出した。うち一本は、テーブルの中心に堂々と立っている。
椅子を引いて座り、テーブルの上で組んだ両腕に顎を乗せる。その姿勢のまま、カロッサエールの瓶をながめた。半透明の青色の瓶の中には、もちろん酒がなみなみと入っている。
「ながめるだけで悪いな、サダルスウド。俺が飲めたらよかったんだけど」
そんなふうに呟いて、メルクリオは酒瓶の表面を指で弾いた。チン、と透き通った音がする。
彼はどんな表情でこれを飲んでいたのだろう。色々話してくれたことはあるが、メルクリオはすべてを知っているわけではない。そして、二度と彼の晩酌話やうんちくを聞くことは叶わないのだ。
「……もう来ないんだな」
今になって、問いとも確認ともつかぬ言葉がこぼれ出た。それは静かな部屋で反響し、少年の心を引っ掻き回す。
疲れた。頭が重い。その理由を考えるより前に、メルクリオはその場に突っ伏す。
泣きたい気分なのに、涙は出ない。
どのくらいそうしていただろう。あるとき、月光の精霊が薄羽を震わせた。メルクリオがそれに気づいたのは、かすかな音を聞いたからだ。
顔を上げる。彼女はいつの間にか、彼のすぐ隣に来ていた。
『メルクリオ』
「……何?」
少年が気だるげな声で問うと、精霊は悪戯っぽく笑う。
『たまには、お出かけしませんか?』
メルクリオは、こぼれんばかりに目を見開いた。
※
薄衣のような雲の向こうから半分の月がのぞく。その下でひしめく人工物は、ほとんどが夜の闇に覆い隠されていた。ごく一部、星のように輝いている場所は、危険な快楽を求めて夜の住人が集う区画である。
オロール王国・王都。その一角に、メルクリオたちは舞い下りた。一本の酒瓶だけを持って、転移魔法でここまで来たのである。
メルクリオはわき出る不安を抑えきれず、かたわらの精霊を見上げた。彼女はいつもと変わらぬ調子だ。
「ルーナ、いいのか?」
『何がです?』
「俺を外に出したこと」
『本当はだめですけどね。こういうときは特別です。冠婚葬祭のためだと言えば、役人さんたちも口出しできないでしょう』
「いや、口出ししてくると思うけどな」
普段と何一つ変わらないはずの光球が、ふんぞり返っているように見える。もっともらしいことを語っているが、すべてが番人を外に出すための言い訳であることは明らかだ。
『やることをやってすぐに帰れば、バレることもありません。行きましょう』
「……ほんとにいいのかなあああ」
メルクリオは、躊躇しつつも石畳の道を歩き出した。
ルーナの案内に従ってやってきたのは、王都の端にある墓地だ。ここら一帯の墓地の中では特に広くて上等なところなのだという。
ルーナのわずかな明かりを頼りに進み、メルクリオは目的の墓を見つけた。
「あった」
『サダルスウド、ここに眠る』――その文言を見つけた瞬間、自然に声が出た。少年は、よく手入れされた真四角の石をまじまじと見つめる。家族か誰かが置いていったのか、墓石の前にはすでに花や小さな酒瓶が供えられていた。
「偉いお役人の割に素朴な墓だな」
『まあ、大図書館監査員なんて役職は、表には知られていませんからね。大図書館絡みの仕事がないときは下っ端と大して変わらん、なんて、よく言っていましたし』
「確かに」
軽く笑ったメルクリオは、深く深く息を吐く。
本当に死んだのか。また、胸中で呟いた。
薄羽を下げているルーナを一瞥してから、メルクリオは持ってきた酒瓶の栓を外す。酒精の香りが夜気に乗ってふうわりと漂った。
酒瓶を高く掲げ、傾ける。一分のためらいもなく、カロッサエールを墓石にふりかけた。
「ほら、持ってきてやったぞ。あんたの好きな酒。あんたの代理が取り寄せてくれたものだから、多分いいやつだ」
無責任なことを言いながら、酒を墓石にかけ続ける。中身が半分ほどになったところで、やめた。栓をした酒瓶を、お供え物の端に置く。
「ばーか」
墓石に向かって、メルクリオは呟いた。
「俺に黙って、先に逝きやがって。あんたの後任なんて、簡単には見つからないんだからな」
――実際、後任探しは難航していた。
そもそも、大図書館監査員の仕事を引き受けたがる役人がいない。ようやく見つけた候補者も、顔合わせの後に「あんな子供のお守りなんてやってられない」と言って就任を辞退したそうだ。警戒しすぎたかとメルクリオは反省したが、元よりそりが合わなさそうな人だったので、縁がなかったのだとあきらめてもいる。
サダルスウドがどれほど稀有で奇特な人だったのか、思い知らされてばかりだ。
「せいぜいそっちで気を揉んでろよ」
好き勝手なことを言ってから、メルクリオはその場で手を合わせた。心の中でだけ、今までの感謝を述べる。
それが済むと、メルクリオは精霊を振り返った。
「お待たせ」
『もういいんですか?』
「うん。やることやったし、言いたいことは言ったよ」
メルクリオがちらとほほ笑むと、ルーナはその場で羽ばたく。
『では、帰りましょうか』
「そうしよう」
誰かに見られる前に戻らなければならない。
「じゃあな。来れたらまた来る」と告げて、墓石に背を向ける。少し歩いたところで、少年はふと口を開いた。
「ルーナ。……ありがとう」
言うと同時、熱が頬を伝う。
彼のすぐそばを飛んでいたルーナは、何も見ていないかのようにほほ笑んだ。
『どういたしまして。私も来たかったので、ちょうどよかったですよ』
「それはよかった」
ひそやかなやり取りは、夜の都に溶けていく。
二人が去った墓の前で、半分だけ中身の入った酒瓶が、月光を受けてきらめいた。
※
「今、お茶持ってくる。適当にくつろいでてくれ」
「かたじけない」
昼過ぎのグリムアル大図書館、応接室。メルクリオは台所へと足を向けつつ、来客に声をかけた。金髪に緑の瞳を持つ青年は、軍人のように背筋を伸ばして答える。
メルクリオは苦笑して、一度台所へ引っ込む。あらかじめ仕込んでおいたお茶の出来を確かめて、ふたつのカップに注いだ。それをトレイに載せて持ち出したとき、青年が真剣に何かを見ていることに気づく。
「どうした、クロノス?」
声をかけると、少し屈んでいたクロノス・タウリーズは、「ああ、すまない」と身を起こした。
「珍しい物が置いてあるので、つい見入ってしまった」
「珍しい物?……ああ」
首をかしげたメルクリオは、しかしすぐその意味に気づく。クロノスが見つめていたのは、テーブルの中心に置いたカロッサエールの瓶だった。
「君は麦酒をたしなむのか? 少し意外だ」
「いや、飲まない飲まない。この体だし」
前にもこんなやり取りをした、と思いながらメルクリオは首を振る。お茶のカップをそれぞれの席に置きながら、補足した。
「それは置いてるだけだよ。もうすぐサダルスウドの命日だから」
「前任者の?」クロノスは眉を上げ、次にはそれをひそめる。どこかの教師とよく似た瞳に、哀悼の色がにじんだ。「――そうか」
「彼はカロッサエールがお好きだったんだな」
「うん。俺も話でしか知らないけど、よく飲んでいたらしい」
会話しつつも、メルクリオはクロノスに席を勧める。彼が着席してから、自分も向かい側に座った。それまでボーグルと追いかけっこをしていたルーナが、舞い戻ってくる。
『話を聞く限り、なかなかの酒豪だったようですよ。でも、メルクリオはお酒を飲めませんから――』
「命日にはこれを見ながらお茶を飲むことにしてるんだ。後任が決まるまでにしようと思ってたんだけど、気がついたら恒例行事になってた」
「なるほど」
相槌を打つクロノスの表情は少しも変わらない。が、心なしかいつもより優しい目をしているようでもあった。
「よいことだと思う。私たちも故人のお墓参りに行くのだから、それと同じことと考えればいい」
「ああ、それもそうだな――」
『あの一回』以来墓参りには行けてないし、という言葉を、メルクリオはすんでのところでのみこむ。法や規則を重んじるクロノスにこの話はしない方がいいと思ったのだ。
不審がられないよう、話題を少しずらす。
「クロノスは好物とかあるのか?」
尋ねると、今の大図書館監査員は目を丸くした。それから、わかりやすく顔をしかめる。
「君……俺の死後のことを考えていないか?」
「だめか?」
「だめではないが、いささか縁起が悪い気もする」
少し砕けた口調になった青年に、メルクリオは苦笑する。
「よほどのことがなければあんたが先に逝くんだから、その後のことを考えておいて損はないだろ。……ただまあ、不快にさせたなら謝る」
自分の死について言及されて、喜ぶ人はそういないだろう。話題選びを間違えたと縮こまったメルクリオに、クロノスはかぶりを振ってみせた。
「いや、謝ることはない。君の状況を思えば、そういう考えになるのも当然だしな」
淡々と言った青年は形のよい顎をなでる。
「ただ……好きな物、と言われると難しいな……」
「ま、ゆっくり考えてくれていいよ。食べ物や飲み物じゃなくてもいいし」
「そうだな……」
報告終わりの雑談に興じる二人。
彼らをほほ笑ましく見守っていたルーナが、そっと飛び立った。二人の間で沈黙している酒瓶に体をくっつけて、ささやく。
『見ていますか、サダルスウド? 番人もあなたの後任者も、頑張っていますよ』
答えはもちろん返らない。しかし月光の精霊は、まるで返事を聞いたかのように、やわらかく目を細めた。
今回の定期更新はここまでになります。お付き合いいただきありがとうございました。
それでは、またいつか。次のエピソードは少し長めになるかもしれません。




