53 彼の誓いの表裏
「――その後、『アルス・カドゥケウス』の称号をもらって、正式に番人となって……今日までここで働いている、ってわけだ」
グリムアル大図書館の奥にある、応接室。テーブルの前で、メルクリオは淡白に語りを締めくくる。今、彼の向かい側にいるのは大柄な男ではなく、あの頃の彼と同じ年頃の少女だ。
食い入るように話を聞いていたエステル・ノルフィネスは、昔話が終わったと気づくとわずかに身を引く。それから、ほとんど中身がなくなったカップをにらんだ。
「そんな……そんなのって……」
金色の眉がしかめられ、碧眼が揺らいでいる。怒っているようでも、泣いているようでもあった。
「おかしいよ。いくら番人が必要だからって……ろくに説明もせずに連れてきて、そんなやり方するなんて、ひどすぎる。前の監査員さんはいい人だけど……でも……」
自分のことのように苦悩するエステルを見て、ルーナが羽を下げる。彼女は番人選抜の片棒を担いでいるのだ。何も思わないわけがない。わかっていたが、メルクリオは黙っていた。エステルに同調することも、ルーナを擁護することもせず。
乾いた沈黙。その果てに、メルクリオはこれまでずっとしまい込んでいた問いを舌に乗せる。
「嫌になったか?」
エステルが、弾かれたように顔を上げた。メルクリオは淡々と続ける。
「もし、大図書館にいるのが嫌になったら、遠慮なく助手をやめてくれていい。そうなったとしても、シリウスのことは俺たちが責任を持って調べるし、有力な情報や無実の証拠が見つかったら、すぐに知らせるからさ」
「な、なんで……急に、そんな……」
困惑しきった助手を見て、番人は腕を組んだ。
「俺の体験じゃなくて、歴代番人の記録で知った話なんだけどな。今まで大図書館に入った助手は大抵、この話を知ると嫌がって辞めていったんだそうだ。頑張って残った人もいたらしいけど、途中で気を病んで、助手を続けられなくなった。そりゃそうだ、番人と館長がこんな関係だと知って、気持ちよく仕事ができるわけもない」
『――中には、最期まで館長を強く憎んだままだった番人もいましたからね。それに耐えかねておかしくなった助手を、私も何人か見てきました』
ルーナが感情を押し殺した声で補足する。唖然として聞いていたエステルは、それから急に目覚めたような顔になり、身を乗り出した。
「ひょっとして、メルクが今まで助手を入れなかったのって……」
「……まあ、これが一番の理由ではある。無関係の人をそんなふうにはしたくないだろ。『当時の俺』と同年代の学生なら、なおさら」
できれば触れられたくなかった部分に触れられてしまい、メルクリオは気を削がれてしまった。それでも、どうする、と問いを重ねる。
エステルは、しばらく黙った後、素早くかぶりを振った。
「……助手は、やめないよ」
声は弱々しい。しかし言葉に揺らぎはない。
メルクリオは、目を細める。
「いいのか」
「うん。確かに、大図書館の印象はちょっと変わったけど……メルクは何も悪くないし。よくないことをしているのはこの国の大人たちで、それは私が助手をやめる理由にはならないよ。むしろ、ますますやる気になった!」
エステルは、少し興奮した様子で拳を握る。それを見たメルクリオは目を丸くして――そののち、盛大に吹き出した。なんとも彼女らしい回答だ。
「それはよかった。色々思い出した甲斐があったよ」
メルクリオは、残ったお茶を一気に飲み干す。それから、静かに立ち上がった。
「さて、と。重い話して悪かったな」
「ううん。訊いたのは私の方だし。――話してくれて、ありがとう」
メルクリオは、まっすぐに自分を見つめる助手に向かって、「どういたしまして」とほほ笑む。
「寮の門限もあるし、そろそろ帰りな」
「うん。そうする」
エステルも、おずおずと立ち上がる。自分のカップを台所まで持っていってから、ぺこりと頭を下げて応接室を出ていこうとした。が、その間際にぴたりと足を止める。
「……ねえ、メルク」
「ん?」
振り返った少女の相貌が、躊躇に揺れる。碧いまなざしはつかの間月光の精霊に注がれ――すぐ、番人の少年へと移った。
「ルーナのこと、どう思ってるの? その、今でも――」
「今でも憎んでる、って言ったらどうする?」
メルクリオは、あえてかぶせるように言った。小さな肩がぴくりと震える。ルーナは、羽も目も動かさなかった。
おびえたように自分を見るエステルに向かって、メルクリオはひらりと手を振った。
「ごめん。冗談にしては悪質過ぎた」
「冗談、って」
眉を寄せた助手につま先を向け、メルクリオは口をつり上げる。
「でも、嘘ではないよ。『あのとき』のことは許してないし、多分一生許せない。俺だって、殺されこそしなかったけど、それなりにきつい思いをしたしな」
「じゃあ――」
「でも、最初ほど強く憎んではいないと思う。なんというか、炎が残り火になった感じ? 館長の性格や考え方は結構好きだしな」
少しおどけてみせると、エステルの体から力が抜ける。ルーナも『光栄です』と苦笑した。
「ならよかった。メルクがルーナのこと大嫌いだったらどうしようかと思ってたよ。――はーっ、安心して帰れる!」
「……割とあけすけだよな、あんた」
メルクリオが肩をすくめると、エステルもふにゃりと笑う。「お茶、ごちそうさまでした!」と挨拶して、今度こそ応接室を出ていった。
※
その夜。メルクリオは、書架の森の奥深くにいた。試用期間の終わりごろ、ふらりと踏み入ってしまった区画だ。今回の目的は契約魔法の本ではない。歴代番人の記録だ。
彼らが残した記録や知識の多くは、〈記憶の球〉に収録されている。が、私的な日記などは情報化されずに残っているのだ。そういったものが収められているのが――メルクリオが今向き合っている書架だった。
「うーん……〈明星の団〉、〈明星の団〉……見当たらないな……」
書物の山の間で、メルクリオは頭をかく。過去の記録から〈明星の団〉や宵の星妖精研究会の手がかりを探る作業は、難航していた。
〈記憶の球〉の方はとっくに精査済みである。目新しい情報は見つからなかった。だからこそ、今こうして、番人たちの私的な記録まで当たっているのである。
『やっぱり、ポラリスの代までさかのぼらないとだめですかね』
「それができればいいんだけどな……肝心のポラリスの記録が、まったく見つからないときてる……」
メルクリオは頭を抱える。
〈記憶の球〉にすら情報がないのは逆に怪しい。ラステアの言う通り、簡単に手が出せない場所に隠してある可能性も考えられる。
「これは骨が折れる」と呟いたメルクリオは、次の一冊を手に取る。誰かの日記のようだ。名前らしきものを確認したところ、『デネボラ』と書かれていたので驚いた。
慎重に表紙を開いたとき。澄んだ声が、メルクリオの耳元で響いた。
『メルク。魔法、弱まってませんよね』
「……は?」
唐突な発言に、メルクリオは眉を寄せる。
「俺がいつ嘘をついたって言うんですかね、館長?」
『エステルに、私をどう思っているか、と訊かれたときですよ』
メルクリオとしては軽い抗議のつもりだったのだが、ルーナの返答もよどみない。眉間にしわを刻んだ彼は、一度日記を置いた。
「何度でも言うけど、嘘じゃない。ってか、そのくらい判別つくだろ」
『ええ、もちろん。嘘ではありません。――が、すべてを明かしたわけでもありませんよね?』
「あのなあ」
眉間のしわが深くなる。メルクリオは、ため息をついた。
「『それ』話したら、さすがのエステルでも引くだろ。それか激怒する」
『そうでしょうね。エステルは優しいですから』
「うん。で、本気で怒ったら何しでかすかわからない」
ルーナは『ああ、なるほど』と笑う。晴れやかな笑声を聞いて、なぜかメルクリオは軽い頭痛を覚えた。
気を取り直して、デネボラの日記を再び開く。
「そもそも、他人に話すようなことじゃない。俺が忘れていなければ、それでいいんだ」
『……気持ちは変わっていませんか』
誰かの視線を気にするような、ひそやかな問い。それにメルクリオは、不敵な笑みでもって答えた。
「もちろん。どっちの誓いも、最期まで破る気はない」
――胸の奥に走った痛みに気づき、受け入れる。それでも、表情だけは崩さなかった。
※
「……何、これ」
大図書館の奥、人の目にほとんど触れぬ一角。悩み疲れて迷い込んだそこで、メルクリオは書架の隅に並ぶ冊子に目を留めた。ほかの書物と比べて新しいようである。一方で、紐で紙束を綴じただけという簡素なつくりだった。明らかに目的の本ではないが、不思議と惹きつけられる。
つい、一冊を引き抜いた。表紙には、やや不格好な手書きの文字で『日々の記録』と記されている。その下に書かれている文字列は、名前のようだ。
「日記?」
気になって、数ページめくってみる。そして、息をのんだ。
それは、過去の番人の日記だった。業務の内容や日々感じたことを飾らない言葉で綴っている。執筆者はマメな性格だったようで、ほぼ毎日何かしらの記録をつけていた。
斜め読みをしながらページをめくる。最初は未知のものに触れる楽しさがあったが、途中からこちらの気持ちも日記の様子も変わってきた。
『――これは、きっと予兆だ。〈災厄の魔人〉が目覚める予兆。そうだとすれば、もうすぐ私の役目は終わる』
『館長に確認を取った。やはり〈災厄の魔人〉の目覚めは近いらしい。私にとっては余命宣告のようなものか』
『不思議なものだ。とっくに覚悟していたはずなのに、その日が近づいてくると怖くなる。ここへ来た当初は生きるのが嫌だったのに、今では死にたくないと思ってしまう』
『きっと、明日にでも〈災厄の魔人〉が封印を破る。記録をつけられるのも、今日が最後だろう。せめて、館長に無様な姿を見せないようにしなければ。
本当は、怖い。死にたくない。魔族になりたくない。あなたともっと、生きていたかった』
「どういう、こと?」
問いがぽろりと、メルクリオの口からこぼれる。すぐそばにいるはずのルーナは、何も言わない。気温のせいではない寒さを感じて、日記を閉じる。考える前に、薄い冊子の列に目を走らせていた。
目の前に並んでいる冊子を片っ端から――もちろん、破損しないように――取り出す。すべてが番人の日記や記録だとわかると、一気に目を通した。
筆跡も内容も、記録をつける頻度もまったく違う。それなのに、途中からは奇妙な共通点がある。全員が〈災厄の魔人〉の目覚めを感じ取り、同時に自分の死についての思いを綴っているのだ。そして――明日にでも〈災厄の魔人〉が目覚める、というところで終わっている。
『今となっては、館長に感謝している。明日、〈災厄の魔人〉を封印してすべてが終われば、彼も少しは気が楽になるだろう。願わくは、次代の番人が笑顔で就任できますように』
『長く、つらい日々だった。それがようやく終わると思えば、少しは心が安らぐというものだ。彼が介錯してくれるならば、それも悪くない』
『怖い、怖い、死にたくない。殺されたくない。でも、僕がやらなくちゃならない。〈災厄の魔人〉を再封印できるのは、僕しかいないんだから』
感謝、祈り、安堵、恐怖。文字からにじむ感情は様々だが、皆が死に直面している。その事実を前にして、メルクリオの手が震えた。
「ルーナ」
応えはない。メルクリオは、息を吸った。
「ルーナ!」
『……はい』
語気を強めると、ようやく返答があった。まるい光に楕円形の両目、一対の薄羽を持つ精霊が、メルクリオの目線と同じ高さに浮かぶ。彼は、彼女をにらみつけた。
「これ、どういうことだよ。〈災厄の魔人〉が目覚めると……番人は死ぬの?」
〈災厄の魔人〉について、メルクリオはこのときすでに知っていた。ルーナから説明を受けていたのだ。彼がどういう存在であるかも、彼を再封印することが番人の重要な仕事なのだということも。
その『重要な仕事』の裏に、まだ明かされていない何かがあるのだ。
ルーナは、すぐには答えなかった。日記の山を見下ろして、薄羽を下げる。
『まさか、仮契約のうちにこれが見つかるとは思いませんでしたが……もはや隠しようもありませんね』
彼女はあきらめきったように呟いて、語る。
〈災厄の魔人〉は歴代館長に匹敵するほどの力を持つ魔族だ。彼の再封印は激戦となる。普段は力を制限している館長も本来の顕現体に戻り、長い時間戦う。もちろん、番人も全力を出す。
『――その結果、〈災厄の魔人〉を封印した後、番人の体に異変が起きるんです。仮契約の日に私が話したことを覚えていますか?』
「……もちろん」
メルクリオは、重々しくうなずいた。あの日のルーナの言葉を、頭の中で繰り返す。精霊が本来の顕現体で長時間過ごしていると、人間に混ざるアエラが増える。最悪、人間が人間でなくなってしまう。つまり――
『言ってしまえば、番人は“あちらの世界”の魔族に近い状態になるんです。膨大な力を持ち、そこにいるだけで世のアエラを乱す存在に』
闇に包まれた大図書館に、恐ろしい言葉が響く。
メルクリオは息をのんだ。――もしかしたら、と思っていたことを突きつけられて、体の奥がすうっと冷える。
『〈災厄の魔人〉と対峙して、この変質から逃れられた番人は、今まで一人もいません。当然、まともに生活できなくなります。変質の影響を受けて、それこそ魔族のように暴れてしまう人もいました』
「そんな……それじゃ、番人はどうなるの?」
『館長によって“処分”されます』
ルーナの返答は、あまりにもさりげなかった。だから、のみこむのに時間がかかった。頭の中で言葉が繰り返し響く。
「処分」
メルクリオの手から冊子が滑り落ちる。灰青色の瞳は、もはや何も映していなかった。
「それって、つまり――」
『はい。おそらくは、あなたの想像通りかと』
思い出すのは、彼女のアエラを通して体感した、子供たちの痛み。
二度と触れたくなかった記憶を、月光が呼び起こした。
『大図書館の館長の仕事は、大きく分けて三つあります。ひとつは、大図書館の結界の維持。ひとつは、番人の補助。そして、最後のひとつは――実質的な魔族と成り果てた番人の命を終わらせること』
いつもと変わらぬルーナの声が、無機質に聞こえた。
メルクリオは呆然とする。少しして我を取り戻すと、静かにうつむいた。
「なんだよ、それ」
頭を抱える。髪をつかむ。
「結局、最後はあんたに殺されるのか」
番人選抜で命を落とした子たちと、辿る運命は同じだった。早いか遅いかという違いしかない。
今までの苦しみはなんだったのだろう。何のために怒って、あがいていたのだろう。無意味な問いが、少年の頭の中でこだまする。
『メルクリオ――』
ルーナが、気づかわしげに彼を呼ぶ。しかし、その声は彼の耳には届いていなかった。
うずくまる少年。その、顔を覆う手の隙間から、かすかな笑声が漏れた。それはだんだんと高まっていく。
怪訝そうなルーナをよそに、メルクリオは哄笑した。
自棄になったわけではない。気が狂ったわけでもない。ただただ、晴れやかな気分だった。
ひとしきり笑った後、メルクリオは細めた目で月光の精霊を見つめる。
「わかったよ、ルーナ。それならおれ、大図書館の番人になる」
え、とルーナが震え声をこぼす。しかしメルクリオは、一顧だにしなかった。
「大図書館の番人として、最後まで務め上げよう。魔族とも積極的に関わって、大人たちが求める番人を目指そう。そして――最後は笑って、あんたに殺されてやる。やりきった! っていう最高の笑顔でさ」
力強く言い切って、メルクリオは顔を伏せた。その先の決意は声に出さない。言葉にせずともルーナには伝わる。そうとわかって、あえて口を閉ざしたのだ。
「それでいい、ルーナ?」
彼女は少しためらったようだった。しかし、最終的にはメルクリオの決意を受け入れた。
『……いいでしょう。それがあなたの望みならば、私は応えるのみです』
「そう、よかった。よろしくね、ルーナ」
少年は、再び顔を上げる。精霊に向かって、無邪気にほほ笑んだ。
笑顔で彼女に殺される。そうすればきっと、優しい彼女は深く深く傷つくだろう。
大図書館の館長を務める精霊に、消えない傷を負わせれば――一矢報いたことになるだろうか。
そうだ、それがいい。
ヘゼ、アルキオネ、エニフ。あの日、帰ってこなかったすべての子供たち。彼らのためにも――
最高の形で復讐する。
そのために、生き抜いてやる。




