49 絶望の象徴
「がらがらになっちゃったね」
しばらく経って、部屋を見渡したミラが呟いた。呆然としていたメルクリオは慌てて振り返り、「そうだね」と笑う。
子供の数はずいぶんと減った。夏空のような絨毯がはっきりと見えるほどである。暇を持て余した年少の子が動き回っており、少し年上の子たちは不安そうに膝を抱えていた。
メルクリオとミラは、それをながめながら、隣り合って座っている。
ヘゼが行ってしまってからも、メルクリオは子供たちの痛みを感じ続けた。現実に戻っても頭痛がするようになって、視界には色とりどりの光がちらついている。正直、限界が近かった。正気を保っていられるのは、ミラがいるからだ。
せめて自分が呼ばれるまでは、ミラのそばにいてあげなければ。その思いと、ヘゼの言葉だけを支えに、彼は普通を装い続ける。
「みんな、早く帰ってこないかなあ」
不満そうに呟くミラ。
心の揺らぎを顔に出さないよう努めて、メルクリオは彼女に寄り添った。
「きっと、別の場所で休んでるんだよ。元気になったら戻ってくる」
「そっかあ。ばんにんせんばつって、つかれるんだね」
「……うん。きっと」
ひそひそと言葉を交わす。静まり返った部屋の中でそんなことをする意味はないのだが、声を潜めずにはおれなかった。
張りつめた静寂を、扉の音が破る。奥の間から先生が出てきた。
「次。メルクリオ、来なさい」
――やっとか。
メルクリオは、胸中で呟いて立ち上がる。
「メルにい……」
ミラが、寂しそうに手を握ってきた。メルクリオはほほ笑んで、刺激しないようにその手を外す。
「いってくるね、ミラ」
大きな瞳は、不安に揺れていた。メルクリオはそこに、先刻までの自分を見出した。
ヘゼには悪いことをしたな、と思いながら、相手の顔を見続ける。やがてミラは、にこりと笑った。
「いってらっしゃい、メルにい」
「うん」
そっと互いの手のひらを合わせてから、離れる。
この部屋と奥の間の境をまたいだとき、メルクリオはよろめいた。視界が揺れて、好き勝手に絵の具を広げたパレットのように世界が歪む。
その瞬間、先生が彼の腕を引いた。痛みを感じるほどの強さだった。単純に助けたわけでないのは明らかだ。
「もたもたするな」
顔をしかめたメルクリオに向かって、先生は鋭い声を浴びせかける。ほかの子にはそんな態度はとっていなかった。騒ぎを起こしたせいで嫌われたのだろう。メルクリオはひとり、結論付ける。
村から連れ出された日の感覚が、閃光のようによみがえる。先生に逆らいたいのを堪えて、メルクリオは震える足を動かした。その間、先生は彼の腕を離さなかった。
扉が閉まる。暗闇が彼らを包む。
ああ、やっぱりこの場所だ。メルクリオは、声に出さず呟いた。
「ルーナ様。次の候補を連れてまいりました」
老齢の先生が闇に向かって呼びかけた。言葉遣いは丁寧だが、声はどこか刺々しい。
次の瞬間、黄金色の光が部屋を照らし出した。
メルクリオは片手で顔をかばう。光はそれを容赦なく貫いてきた。まぶしさに少し慣れたところで、彼は腕を外した。
部屋の中心。祭壇を思わせる台の上で、強い光が発生していた。光源となる物は見当たらず、魔法のようにも思えるが、それにしてはアエラの動きがなさすぎる。
『――候補者を前に』
光の中から声がする。静かな女性の声だ。しかしながら、女性の姿は見当たらない。
先生がひとつうなずいて、メルクリオの背中を押す。突き飛ばすというほどではなかったが、それなりの力がこもっていた。前へよろけたメルクリオは、怒られる前にと光の方へ足を進める。
黄金色が白へと変わり、それ以外何も見えなくなったとき。
女性の声が、告げた。
『これより、契約の儀式を執り行います』
それを聞いて、メルクリオは焦った。契約というのなら、自分も何かしなければならないのではないかと思ったのだ。
精霊契約についてはそこまで詳しく習っていない。普通の契約魔法と同じでよいのか、違う行動が必要なのか、彼には判断がつかなかった。
『――手を』
幸いと言うべきか、謎の声が呼びかけてくる。メルクリオは、操られたかのように右手を差し出していた。
瞬間、五本の指を伝って、熱が流れ込んでくる。
『我が名、我が権限を以って、ここに汝との契約を締結する。これより、我が根源たる力は汝の命と結ばれる』
見たことも聞いたこともない文言が、粛々と唱えられる。その響きが消えたとき、メルクリオの体が炎のように熱くなった。
激痛が駆け巡る。痛みと熱の区別もつかなかった。
体を折る。極限まで見開かれた目は、しかし何も映さない。空気を求めてあえいでも、乾いた息が吐き出されるばかりだ。
今まで感じてきた痛みよりもずっと痛い。熱い。
メルクリオは、苦しみもがくその中で、静かに悟った。
ああ、死ぬんだ――と。
光があふれる。押し寄せる。メルクリオは、ふっと力を抜いて目を閉じた。
しかし、想像していたようなことは起きなかった。
突然痛みが消え失せる。体が軽くなった。
メルクリオは思わず目を開く。
いつの間にか、金色に輝く空間にいた。きらきらしているはずなのに、不思議とまぶしくない。
床もなければ壁もない、どこまでも続く空間。そこには、女神がいた。
『はじめまして。私の次なる契約者様』
先ほどと同じ声がした。不思議な色の瞳が、少し潤んでいる。
『お名前をうかがっても、よろしいでしょうか?』
人ならざるものの威がにじむ問いかけ。しかしそれは、どこか悲しげでもある。
メルクリオは目を泳がせた。逡巡ののち、唇をこじ開ける。
「……メルクリオ」
『メルクリオ。よい名ですね』
優しい声が返ってくる。純白の手が彼の頬をなでた。
『私は、月光より生まれし精霊。名をルーナと申します。しばしの間、よろしくお願いいたします』
メルクリオの体が震える。『彼女』の言葉に答えようとしたとき――視界が白く塗りつぶされた。
「おお……!」
「こ、これは……!」
先生たちの低いささやきが空気を揺らした。
メルクリオは、恐る恐る瞼を持ち上げる。最初は闇しか見えなかったが、少し経つと先生たちの姿や扉の形が浮かび上がってきた。暗がりの中に並ぶ人々の顔には、これまで見たことのない喜びの色が浮かんでいる。
そして、メルクリオは光に包まれる前と同じ場所に佇んでいた。痛みはない。どこにも傷はついていない。だが、今までとは確実に何かが変わっていた。
集団の中から老齢の先生が進み出る。どこか熱っぽい視線をメルクリオに――正確には、彼の頭の上に――注いだ。
「契約が成立したのですね、ルーナ様」
『はい。今は、メルクリオが私の契約者です』
名を呼ばれた少年は、慌てて振り向いた。すぐそばに光の玉が浮いている。しかも、ただの光ではなく、ふたつの目と一対の薄羽がついていた。
見たことのない生物だ。しかし、メルクリオはすぐに気づいた。これはルーナだ。先ほどまでとはまるで違う姿だが、間違いない。
「契約者……」
精霊契約が成功した、その事実がようやくメルクリオの腹の中へと落ちてくる。同時に、悪寒が背中を駆け抜けた。
踏み出してきた先生が、メルクリオの両肩をつかむ。
「おめでとう! 今日から君が大図書館の番人だ!」
「大図書館の、番人……」
エニフやミラが憧れていた存在。アルキオネが目指していた場所。そこに、自分が収まったらしい。言葉にして伝えられても、メルクリオには実感がわかなかった。悪い夢でも見ているかのようだ。
本人の戸惑いをよそに、大人たちは喜びに沸いている。「これで我々の代は安泰だ」「よくやった」――勝手なことを奏でる声が、メルクリオのもとへ押し寄せた。
『みなさん』
それをぴたりと静めたのは、清らかな一声である。
メルクリオの前へ出たルーナが、薄羽を羽ばたかせた。
『これから、彼に仮契約の説明を行います。落ち着ける場所に案内していただけるとありがたいのですが』
「おっと、そうですな。館の離れでもよろしいでしょうか」
『はい』
老齢の先生が、かしこまって頭を下げる。ほかの先生たちも動き出した。ぞろぞろとメルクリオを取り囲み、先ほどとは別の扉の方へ連れていこうとする。――出入口がいくつもあることを、メルクリオは初めて知った。
「ま、待ってください!」
メルクリオは、とっさに叫ぶ。先生たちの動きがぴたりと止まった。
「ちょっとだけでいいから……ミラに……みんなに、会わせてほしいです」
「――ああ、心配いりませんよ」
老齢の先生が、にこりと笑った。
「もう、彼らと会う必要はありません」
「え――」
「あなた様は大図書館の番人。彼らとは違う、偉大な存在なのだから」
言われた意味がわからない。
メルクリオは、目を見開いたまま凍りつく。やや遅れて、強烈な吐き気がこみ上げてきた。その場にうずくまりかけた彼を、大人たちが強引に支える。薄気味悪い笑みを浮かべた彼らは、まるで罪人を連行するかのように彼を運んでいった。
思い出の場所が遠ざかる。家族が――ミラが遠くへいってしまう。
これでは四年前と同じだ。反発すらできないまま、どこかへ流されていく。
しかし、少年にはどうすることもできなかった。
※
大人たちに連れてこられたのは、見たことのない建物だった。一応、〈月桂樹の館〉の敷地内ではあるらしい。人一人がやっと暮らせる程度の小さな家だが、手入れは行き届いている。壁紙、絨毯、調度品にいたるまで、春を思わせる色調で揃えられていた。
唯一の部屋で、メルクリオはしばらく丸まっていた。吐き気の原因は、アエラ中毒と呼ばれるものらしい。
それが少し落ち着いた後、ようやく奇妙ないでたちの精霊と向き合う。
「あなた……ルーナさん、なんだよね。そのかっこ、どうしたの?」
『ああ、これは――使える力を制限しているんです』
メルクリオは首をかしげた。それを見て、ルーナは笑声を漏らす。
『人間と契約した状態で、本来の顕現体のまま過ごしていると、人間側が変質してしまう恐れがあるんですよ』
「ん、と……どういうこと?」
『精霊契約をした人間のアエラには、精霊のアエラが混ざる――と習いませんでしたか?』
「あ……。ちょっとだけ習った」
『精霊が本来の姿で長時間過ごしていると、その“混ざるアエラ”の量がどんどん増えてしまうんです。そうすると、体の中のアエラの均衡が崩れて、最悪、人間側が人ではなくなってしまう。そうならないように、精霊側が力を抑えているんです』
メルクリオは、ようやく納得した。今でさえ、契約前とは違う『何か』になってしまった感覚がある。ルーナが本来の姿で居続けると、それが進行してしまうということだろう。
『もちろん、本来の顕現体になることもできます。ただ、それは緊急時だけにしておきましょう。あなたが病気で動けないときとか、強すぎる魔族が現れたときとか』
「……わかった」
メルクリオは苦味をのみこんでうなずく。これからはこの精霊と一緒に過ごすのだという実感が、ひたひたと胸に迫ってきた。
『まあ、そこのすり合わせはあとでするとして。今は仮契約の話ですね』
ふよふよと宙に浮いたまま、ルーナは語る。
『今のあなたとの契約は、通常より結びつきが弱い状態になっています。これが仮契約です。精霊契約によるアエラの混入が少なく、契約解除も簡単です。あなたにはまず、この状態で半年ほど番人のお仕事をしてもらいます』
「番人の……?」
メルクリオは言葉の一部をたどたどしく繰り返した。しぼり出した声は、かすれて震えている
『心配いりません。私が一から教えますし、できる限りの補助はします』
彼の胸中を読み取ったのだろう。ルーナがすぐさま付け足した。そして、そのまま話を続ける。
『この半年間をお試し期間としています。お試し期間が終わったら、あなたには正式に番人となるかどうかを決めていただきます』
「え……? 番人に、ならなくてもいいの?」
『はい。断っていただいても構いませんよ。その場合は、私との契約を解除した上で、故郷へ戻っていただくか、王国指定のお家に移っていただくことになります』
ルーナの淡々とした説明を聞いて、メルクリオの意識はつかの間遠くへと飛ぶ。
大図書館の番人にならないとして、その後、どうしろというのか。
故郷へ戻ることはできない。両親はもう自分のことを受け入れてくれないだろう、という確信が彼にはあった。
この王都に住むとして――どうやってお金を稼ぐのか。子供の身でできる仕事は限られてくる。やりたいことがあるわけでもない。
やりたいこと。その言葉と同時に、メルクリオはあることを思い出した。
「あの、ルーナ、さん」
『呼び捨てで構いませんよ。なんでしょう?』
「ミラたちは……呼ばれなかった子たちは、どうなるの?」
空気が凍った。それまでわずかに上下していたルーナの体も、ぴたりと止まる。短い沈黙の後、彼女は薄羽を下げた。
『お試し期間中は〈月桂樹の館〉で暮らすことになるでしょう。その後のことは……私にはわかりません。すみません』
「……そう」
メルクリオは、短く答えて唇を結んだ。無意識のうちに、頭が下がる。
もしもメルクリオが番人になることを拒んだら、今度は彼らがルーナとの契約を試みることになるのだ。幼い彼でも、そのくらいのことは想像できた。
形をなさない思考の渦の中に、しばらく身を置いた。体の奥底から響く悲鳴を聞かなかったことにして、メルクリオは暗い予感と向き合う。
「もういっこ、きいてもいい?」
『……はい』
「おれより先に奥の間に入った子たちは、どうなったの?」
ルーナは、また沈黙した。しばらくの間、薄羽を細かく震わせて、それからゆっくりと告げる。
『……全員、命を落としました。私のアエラが入ってくることと、自分が変質することに、耐え切れなくて』
メルクリオの体が固まった。氷柱を直接体にねじこまれたかのような冷たさが、全身を駆け巡る。大きく息を吸って、問いを重ねた。
「でも、奥の間には先生たちしかいなかった。みんな、どこに行ったの?」
『遺体が残らないんです。全部、アエラにのまれてしまうから』
懺悔のようにルーナが打ち明けたことは、メルクリオが控室で感じていたこと、そのままだった。絶望に打ちのめされると同時、泡のように怒りが湧いてくる。
そして、先ほどからメルクリオの感情を掻き立てているものが、もうひとつあった。
話しているのとは違う、ルーナの声だ。
奥の間を出たあたりから、ずっと聞こえていた。最初は空耳だと思っていた。しかし、この家に来てから、そうではないと確信した。
『ごめんなさい。ごめんなさい』
『また、私は殺してしまった。また、何もできなかった』
『すべてを奪ってごめんなさい。あなたを大図書館に縛り付けてごめんなさい』
『せめて、私は――』
これは、彼女の心の叫びだ。
感情は時間と共に熱を帯び、ゆっくり、ゆっくり上ってくる。そして、
「――卑怯者」
理性という栓が外れた瞬間、あふれ出した。
全身を震わせたルーナの前で、メルクリオは机を叩いた。
「この、卑怯者! 謝るくらいなら、最初から殺すなよ!!」
空気を震わせるほどの大声が、家じゅうに響き渡る。
「あんた、ほんとはわかってたんだろ!? おれ以外の子たちが契約できないって!」
メルクリオは選抜の間じゅう、奥の間の光景と子供たちの痛みを体感していた。契約が成立した今、彼はわかった。わかってしまった。――あれは、彼女のアエラを通して見えたものだ。控室に入った時点で繋がってしまったのである。そんなメルクリオを超えるほどの適性者が何人も現れるはずがない。現れるのなら、こんなことにはなっていない。
「なんで止めなかった! なんで殺した! なんで、なんで――」
叫び声は、ぷつりと途切れる。肩で息をしたメルクリオは、相手をにらみつけようとした。けれど――できなかった。
彼女があまりにも静かだったからだ。
まるで、こうなることが初めからわかっていたかのように。凪いだ湖面のようなまなざし注いでいる。
メルクリオは、考える前に腕を振り上げた。ひっぱたくつもりで下ろした手は、しかし精霊の体をすり抜ける。
彼はうなだれた。
「……ふざけるな」
怒りの炎は鎮まった。決して消えない暗黒となって、彼の中で焦げついた。
「返せよ……ヘゼを、エニフを、アルクを……みんなを、返せ……!」
慟哭に応える者は、誰もいない。
月光の精霊だけが佇んで、ただそれを受け止めていた。




