46 からっぽの子供
彼は、ケネス王国のとある山村で生まれ育った。
村の名前は知らない。そもそも、名があったのかすらも定かではない。
地名に限らず、故郷に関する彼の記憶は断片的である。箱からこぼれた積み木のように建つ家々。牛と、牧草と、麦の匂い。冷たい風が入り込む暗い部屋。はっきり思い出せるのは、そのくらいか。
彼の両親は、仕事中は笑顔で、家の中では困った顔をしていることが多かった。赤子の頃からアエラが不安定な息子に、手を焼いていたのである。
あるとき、村に変なローブを着た男がやってきた。男は、あてどなく村を歩き回っているようだったが、牛の世話をしている彼をちらちらと見ることがあった。
その夜、母親が彼に問うた。
「大きな町で、魔法のお勉強をしてみない?」
どう答えたのか、彼自身は覚えていない。確かなのは、母親にすがりついたことだった。
夜半、彼は人の声を聞いて目覚めた。暗い部屋のわずかな隙間から、戸口の方をのぞき見た。
両親が誰かと話していた。恐ろしい声がした。
翌朝早く、彼は父親に呼ばれて外へ出た。
大きな馬車が停まっている。足が太い二頭の馬が、ぶるぶると鼻を鳴らしていた。
その馬車の前に、四人ほどの大人がいる。先頭に立つのはローブの男――魔法使いだ。
魔法使いは、両親といくつか言葉を交わすと、彼に手を差し出した。
「少年。私たちと一緒に来るんだ」
彼は激しく首を振った。とっさに母親の方へ行こうとして――しかし、腕を強くつかまれる。
「ひっ――」
「さあ」
「い、いや」
「君の意志は関係ない。もう決まったことだ」
冷たい声が降ってくる。彼は凍りついた。その隙に、魔法使いがさらに腕を引っ張って、強引に彼を抱え上げる。彼は、痛い、痛いと叫んだが、魔法使いは力を緩めてくれなかった。まわりの大人も、誰も止めなかった。
「いやだ! はなして! おとうさん、おかあさん――!」
泣きじゃくった彼は、必死に身をよじって、両親を見た。助けを求めて、手を伸ばす。
しかし、両親は応えなかった。彼と目が合うと、顔を逸らした。
「おとう、さん……おかあ、さ……」
幼子の中に、氷のような絶望が満ちる。
「たすけて」
ぽろりと、涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! もう、あついのでお皿こわしたりしないから、ちゃんとがまんするから……いっぱいおてつだいするから……だから、たすけ――」
「おい、少しは静かにしろ!」
魔法使いとは別の大人が、怒鳴って彼を殴りつける。彼はうめいて言葉を止めたが、嗚咽はこらえきれなかった。
彼以外の誰もが、それを黙って見ていた。
その後、彼は馬車に押し込められた。馬車が走り出してからも泣いて喚いて暴れたが、そのたび大人に止められた。何度も何度も頭と体を押さえられ、時に殴られる。そのうち疲れ果てて、助けを呼ぶことすらもあきらめた。
子供が全力で泣き喚いたというのに、外から誰かが声をかけてくることはなかった。人が少ないからというのもあるだろうが、魔法で防音していたせいもあるのだろう。――もちろん、当時の彼にはそんなことを考えるだけの知識も余裕もなかった。ただ、助けが来ないことに絶望し、すべてを手放し、椅子に身を横たえていた。
ずいぶん長いこと旅をした。どこへ、なんのために連れていかれるのかもわからぬまま。
途中、馬車は幾度も停泊した。大人たちが食事をしたり話し合ったりする様子を、彼はからっぽのままながめていた。彼にも食事は与えられたが、食べる気にならなかった。パンや水が入った器をぼうっと見ていると、器の中身を無理やり口に押し込まれた。咀嚼だけで疲れ果ててしまい、水底へ沈むように眠り込んだ。
うつろな旅の果てに、彼らは大きな町に辿り着いた。
密集した建物。牛や羊より多い人。様々な臭いが混ざり合った風。初めて見る景色、初めて触れる都会の空気に、けれど彼の心は少しも動かない。にごった瞳を、ただカーテンの隙間に向けていた。
馬車は大きな館の前で止まった。彼は肩をつかまれ、腕を引っ張られて下ろされた。今度は、痛みも恐怖も湧いてこなかった。
大きな硝子窓が並ぶ瀟洒な館。正面扉の両脇には旗が立っている。月桂樹をあしらった紋章が、バタバタとなびいていた。
その旗を見て、魔法使いが彼の頭に手を置く。
「ようこそ、〈月桂樹の館〉へ。今日から君は、大図書館の番人候補だ」
厳かに告げられても、彼には言葉の意味がわからない。それをただ音として聞いて、促されるまま踏み出す。
――彼は未だ、からっぽの子供だった。
※
彼が最初に通されたのは、机と椅子があるだけの殺風景な部屋だった。そこで、魔法使いから説明を受けた。
今いるのが、オロール王国の王都であること。彼は『大図書館の番人候補』として連れてこられたこと。これより数年間、番人になるうえで必要な学問や魔法の勉強をするのだということ。
彼はそれを、頭を縦に振りながら聞いていた。といっても、きちんと理解したわけではない。
グリムアル大図書館の言い伝えは知っていた。母親や村の老人が、時折聞かせてくれたからだ。偉大な魔法使いに対するあこがれも、少しはあった。しかし、自分がそうなるのだと言われても、しっくりこない。遠い世界の話をされているような感覚だった。
事態をのみこみきれないまま、彼は別の部屋に連れていかれた。魔法使いが大きな扉を開けると同時、にぎやかな声が飛び込んでくる。――彼は、久しぶりに目を見開いた。
若草色の壁に囲まれて、たくさんの机と椅子が並んだ部屋に、たくさんの子供たちがいる。彼と同じ年頃の子もいれば、もっと幼い子も、逆に少し年上らしき子もいた。揃いのローブをまとった彼らは、本を読んだり、ほかの子とじゃれあったりと、自由に振る舞っているようだ。
子供たちは、魔法使いの姿に気づくと、一斉に顔を上げる。
たくさんの瞳に見つめられて、彼はしばらくぶりに胸が縮む感覚を味わった。
魔法使いは子供たちに向けて、彼を「新しい仲間だ」と紹介した。
「今日から共に生活してもらう。喧嘩をせず、助け合うように」
それだけ告げると、戸惑っている彼の背中を文字通り押す。よろめいた彼が振り向いたときには、魔法使いは背を向けて、扉を開けていた。
金切り声のような音を立てて、扉が閉まる。後には、子供だけが残された。
「しんいりさん?」
「あたらしいおにいちゃんだー!」
「ねえねえ、どこから来たの?」
「なんかどんくさそうだなー」
彼のもとに、足音と高い声が押し寄せる。年少の子たちが、満天の星空のごとく瞳を輝かせて、彼を見上げていた。
「え……あ……」
彼は、反射的に後ずさりする。
故郷の村では、それなりに人と話せていた方だ。ただ、時折アエラを暴発させて物を壊してしまうことがあったため、人やよその家の動物に近づきすぎないようにしていた。そのときの癖で、子供たちからも距離を取ろうとしたのだ。
だが、子供たちは逆に距離を詰めてくる。
彼の頭が熱を帯び、思考が沸騰しそうになったとき、空気が軽やかに弾けた。
「みんな、解散! 新入りさんを困らせないの!」
溌溂とした少女の声が響く。それを聞いた子供たちが、少し不満げに彼から離れていった。
呆然としている彼の視界が、翳る。かと思えば、鋭い声が聞こえた。
「おい、新入り」
彼は肩を震わせて、声の方を見る。
少し背の高い少年がいた。艶のある金髪の下で、紅玉髄の瞳が鋭く光る。少年はずかずかと彼に近づくと、胸を小突いた。
「ぼさっと突っ立ってんな。チビたちが落ち着かねえだろ」
彼は、わずかに口を開いて閉じる。思うように声が出なかった。
そんな彼を見て、少年は眉を動かす。かと思えばいきなり手を取って、歩き出した。
「おまえの席はこっち」
全身を締め付けるような恐怖が、彼の内を駆け巡る。
とっさに手を振り払いかけたとき――
「こら、ヘゼ! 強引すぎ!」
一人の少女が、少年の前に立ちはだかった。先ほどと同じ声がした。
雪解け水の輝きを閉じ込めたような、青銀色の髪をひとつにまとめた彼女は、気の強そうな顔を彼らに向ける。腰に手を当てて立つ姿と言い、口ぶりと言い、子供たちの中ではいっとう大人びて見えた。
少年――ヘゼは不服そうに口を尖らせ、少女を見る。
「どこが強引なんだよ、アルク」
「見ればわかるでしょ。怖がってるわよ、その子」
舌鋒鋭く言い返されて、ヘゼが振り返る。彼はとっさに首を振ったが、にじみ出たおびえの色は隠しきれていなかった。ヘゼはすぐに「わりぃ」と言って、するりと手を離す。
「ごめんね。びっくりしたでしょ。でも、ここには怖い人はいないからね」
少女が彼に近づいて、少しかがむ。にこりと笑った後、急にその顔を奇妙な形にゆがめた。
「怖いのは、さっきのおじさんみたいな先生たちだけ」
「逆におびえさせねえか、その情報?」
『さっきのおじさん』の顔真似をした少女に、ヘゼがぼそりと指摘する。まわりで、どっと笑いが起きた。
彼は、楽しそうな子供たちをおろおろと見る。困惑しきった彼に、少女が再び声をかけた。
「私はアルキオネ。こっちの顔だけ怖いのがヘゼ。あなたのお名前、教えてくれる?」
「誰が怖い顔だ、誰が」
ヘゼが、今度ははっきりと抗議する。しかし少女――アルキオネは見事に黙殺した。深い緑色の瞳を彼に向ける。
彼はしばらく、口を開閉した。
名前。村から連れ出されて以降、誰にも呼ばれなかった、自分でも忘れかけていた音を、口にする。
「……メルクリオ」
その瞬間、からっぽだった彼の中に、一滴の雫が落ちた。




