45 先代館長の懺悔
『シェラ・レナリア大戦後、ポラリスという魔法使いが大図書館の番人となった。そして、彼や彼の仲間を支えた精霊プラネテスが、またしても彼を支える者となった。ふたりは契約魔法で結ばれて、契約はポラリスが亡くなるまで続いた。そして、この精霊との契約は、次の代、そのまた次の代へと受け継がれていった』
精霊の語りは、広い大図書館に反響して広がった。エステルは、書物の点検と整理をしながら、その声に耳を傾けている。
『けれど、常に番人と館長が揃っていたわけじゃない。前の番人が亡くなってから次代が見つかるまでの間に、何年、何十年と空白があることも珍しくなかった。相性のよい人と精霊が引きあって成立する精霊契約は、契約者を見つけることが難しいからね』
「あ――それは、前に授業でやったかも」
ちょうど、メルクリオとルーナが契約関係にあることを知ったときだ。エステルが思わず呟くと、ソレイユはおもしろそうに目をみはった。
『へえ。さすがはグリムアル魔法学校。一年生で、もうそんなことをやるんだね』
声を弾ませた彼はけれど、また落ち着いた声で語りを続ける。
『契約者が見つからないのは当然のことだ。むしろ、何代も続けて精霊が人間と契約すること自体が異常なんだから、そのくらいのことは起きる。だから、館長は決してあせらず、契約者を待ち続けた。プラネテスの頃は、まだポラリスたちの意志も生きていたから、まわりの人間もとやかく言うことはなかった』
軽く顔を洗ったソレイユが、尻尾をぴんと立てる。
『僕が館長になったのは、大戦の記憶も薄れはじめた頃だった。最初のうちは、プラネテスたちのやり方を踏襲していた。そこになんの疑いも持たなかった。まわりも何も言ってこなかった。けれど、ある番人が亡くなった後――なかなか後継者が現れなかった。大図書館の番人が空位のまま、十年の時が過ぎた』
ソレイユはそこに、少しの焦燥も感じていなかった。十年の空白など、グリムアル大図書館の歴史の中でもままあったことだ。プラネテスやソレイユのような強き精霊と契約できる魔法使いなど、そう都合よく現れるはずもない。今回も気長に待つだけだ。そんなふうに思っていた。
『けれど――僕は、失念していた。大図書館の運営を支えているのが、命短き人間だということを』
当時、すでにオロール王国が大図書館の表向きの管理元になっていた。王国上層部の人々は、いつまでも番人が現れないことに、不安と不満を抱きはじめ、それをソレイユにぶつけたのだ。
『中の魔族が暴れ出したらどうするつもりだ、封印は維持できるのか、悠長に待っているだけでいいのか――彼らは僕に詰め寄ってきた。今思えばしかたのないことだよ。人間の寿命は五十年ほど。どんなに頑張ったって百年も生きられない。そんな彼らにとって、十年という時間はあまりにも長かった』
エステルが顔をこわばらせたことに、気づいたのだろう。ソレイユはおどけてそんなふうに言った。けれど、声色は暗く沈んでいる。
『番人がいなくても、大図書館の結界は維持できる。実務に多少影響が出るけれど、魔族が暴れ出すことはない。〈災厄の魔人〉さえ目覚めなければ五十年くらいはもたせられる。僕は彼らにそう語って、なんとかなだめていた。けど、その後数年経っても契約者は現れず、人々の不安は増すばかりだった。そして――お役人のいくらかが世代交代した頃、信じられない事態が起きた』
ソレイユは立ち上がる。ひらり、とエステルのそばに下りてきた。メルクリオに頼まれた範囲の作業をすべて終えた彼女は、じっと猫の顔を見つめる。かたい声が、流れてきた。
『彼らが、僕のもとに、数人の人間を連れてきた。そして言ったんだ。彼らと順番に契約の儀式をしてください、と』
エステルは、あっ、と声を漏らす。
「現れないなら、契約できそうな人を連れてきちゃえ……ってこと?」
『そういうこと。話が早いね、君』
「でも、それっていい案じゃない? 何か問題があったの?」
エステルが首をかしげると、ソレイユは尻尾を揺らしながら『いいかい』と言った。
『連れてこられた人間は、僕と引き合ったわけではない。アエラの相性はよいかもしれないけれど、精霊とつながることに耐えられるとは限らない。そんな人たちと契約の儀式を行うのは、あまりに危険だ』
エステルは息をのむ。魔法生物学の教師、アストリア・カマリの声が耳の奥によみがえった。精霊と契約すると、人のアエラに精霊のアエラが混ざってしまう。何が起きるかわからないので、すすんで精霊契約を行う魔法使いは少ないのだと、彼女はそう言っていた。
同じことを語ったソレイユは、ゆるくかぶりを振った。
『けれど、オロール政府の人々を駆り立ててしまった責任は僕にもある。だから、僕は連れてこられた人々に事情を説明した。その上で、精霊契約を試みるかどうか、意志を問うた。連れてこられた五人のうち、三人がそれを受け入れた。僕は、順番に三人と儀式を行い――最後の一人と契約した』
「契約者、見つかったんだ。ほかの二人はどうしたの? 故郷に帰ったとか?」
エステルは、ほっと胸をなでおろし、そんなふうに問う。しかし、ソレイユは深刻そうな空気をまとったままだ。エステルがわずかに顔をこわばらせたとき――そよ風のような声が響く。
『死んだよ』
「……え?」
問い返した声が自分のものだと、エステルはすぐに気づけなかった。それどころか、ソレイユの言葉も理解するのに時間を要した。冷たい一言が彼女の内側を侵食しはじめたとき、陽光の精霊が淡々と続ける。
『ほかの二人は、アエラの変質に耐えられず、死んだ。……精霊契約を試みるというのは、こういうことだよ』
重ねられた言葉は、少女の中に鉛のように沈んでくる。彼女は返答をすることもできず、ただ唇を震わせて、空気を取り込んでいた。
『ともかく、新しい番人が誕生したので、人々は満足した。僕は新たな契約者と一緒に、グリムアル大図書館を切り盛りしていった。――彼は明るく気さくで、いい人だったよ。儀式について思うところはあっただろうに、僕を友のように見てくれていた』
語る声は穏やかで、辿る記憶は美しい。けれど、その美しい日々は、永遠ではなかった。ソレイユはそれを知っている。エステルも、とうに気づいていた。
『彼とは、四十年近く一緒にいたかな。最期は……あまり穏やかなものではなかったけれど。彼は僕にお礼を言って、旅立っていったよ。お礼を言わなければいけないのは、謝らなければいけないのは、僕の方だというのにね』
ささやきに痛みがにじむ。エステルも思わず顔を伏せた。
しかし、当時のソレイユに、感傷にひたる時間は与えられなかった。番人が逝去したということは、当然後継者の問題が発生する。先代番人のときのようなことは起こすまい、と館長は思っていたが、そうはいかなかった。人間たちは、ソレイユに内緒で次の候補者を集めてきていたのだ。前回の『成果』を見て、味を占めてしまったのだろう。
ソレイユは、館長の仕事の合間を縫って、何度も王国政府の人々と話し合った。無理やりに行う精霊契約がいかに危険なものか、大図書館の番人になるというのがどういうことか、何度も何度も説明した。その上で、民を危険にさらすような真似はやめてくれと懇願した。けれど、政府の人間たちは彼の言葉を受け入れなかった。彼らにとっては、他人が犠牲になることよりも、魔族を見張る人間がいないことの方が恐ろしかったのだ。
長い対話の中で、大図書館と王都の連絡を円滑にするための仕組みや番人候補の教育制度を作ることには成功した。だが、それはあくまで副産物でしかない。本当に解決したい部分はいつまでも解決できず、人々は次第に精霊の声に耳を貸さなくなった。それでもソレイユは、対話の場を設け続けた。
しかし、あるとき、彼は自分の異変に気づく。
『エステルはさ。精霊のことって、どこまで勉強したの?』
語りの途中、流れるように姿勢を変えたソレイユは、エステルに問う。彼女は目を泳がせた。
「どこまでって……ほんとに基礎の基礎くらいしか……」
『そっか。じゃあ、精霊の“死”についても知らないかな』
死、という言葉に、エステルはどきりとする。身をかたくしながらも、答えた。
「うん、知らない」
ソレイユはまたしても、穏やかに相槌を打った。そして、ゆっくりと尻尾を振る。
『基礎がわかっていれば、そう難しい話じゃないよ。精霊の命が終わるのは――“自分”を捨てたときだ。
心が傷つきすぎた。魔法を使いすぎた。そういったことが原因で、自我を保てなくなったり、疲れすぎてしまったりすると、精霊は消滅してしまう。僕も一度、消滅しかけたんだ』
「えっ……!?」
ひっくり返った声を上げたエステルは、思わず立ち上がる。ソレイユは淡々と語り続ける。
『“彼”を看取った後、さらに何人かを見送って。久々にひとりになったとき、結界が驚くほど弱まっていることに気が付いた。同時に、自分の存在が薄らいでいることを自覚した。心底あせったよ。このままじゃ大図書館の結界すら維持できなくなる、魔族を解き放ってしまう――ってね』
おそらく、精霊としての力を回復するにはグリムアル大図書館から離れるしかない。しかし、館長である限りそれをするのは難しい。ソレイユは考えた。考えて、考え抜いて――彼は知己に会いにいった。月光から生まれた、若き精霊である。
『彼女は、僕を見るなり驚いて、ひどく心配してくれた。僕は彼女に事情を話して――大図書館の結界を維持してくれないか、と頼んだ。彼女は少し悩んでいたけれど、最終的には快く引き受けてくれたよ』
「それで……ルーナが館長さんになったんだ」
エステルは恐る恐る確認した。ソレイユは、小さくうなずく。それから、うなだれた。
『僕は、彼女にすべてを押し付けた。責務も、罪も、何もかも』
泣きそうな声が床にこぼれる。エステルは何も言えず、ただ猫の頭を見つめる。
しばらくして、ソレイユはまたぽつぽつと語りだす。
『大体の事情を話してあったから、ルーナは館長になってすぐ、オロール政府の人々に会いにいったらしい。僕が話したのと同じようなことを話して、けれど聞いてもらえなかった。それならばと、今度は番人ができるだけ安心して仕事できるように、色々な提案をしたそうだ』
その結果、新たにいくつかの決まり事をつくることに成功した。
仮契約、正式契約という二つの段階を設けること。
仮契約の後にお試し期間を作って、その後、番人候補に番人になるかどうかを確認すること。番人候補が拒否した場合は行き先を用意して解放すること。
大図書館監査員の来訪期間を一定にすること。また、何か事件が起きたときは、状況を見てきちんと対応すること。
『ルーナのおかげで、かなり体制が整った。けど、番人候補を外から連れてきて館長と契約させる、という仕組み自体はなくならなかった。もっともなくさなければならなかった部分は、当代まで受け継がれてしまったんだ。家族から引き離され、まわりの候補者が次々と命を落とし――その中で生き残ってしまったあの子は、きっと、僕たちを憎んでいる。それだけのことをしてしまったから』
そこまで語ったソレイユは、床を蹴って飛び上がる。書架や梯子の上を行き来した後、再びエステルの前に戻ってきた。言葉を失っている少女を見上げて体を伸ばす。
『僕のお話はここまで。長話に付き合わせてごめんね』
「……いや……ううん」
エステルは、なんとか声をひねり出した。橙色の猫の頭に手を伸ばす。
「ありがとう、ソレイユ。つらいことを教えてくれて」
小さな頭をくりくりなでると、春の陽だまりのような温かさが伝わってきた。大人しくなでられたソレイユは、本物の猫よろしく喉を鳴らす。
『エステルは優しいねえ。ああ、まいった』
ぽろりとこぼれた呟きは、エステルの心を締め付ける。ソレイユの頭から手を離した。そのとき、今の番人の顔が思い浮かぶ。
「そっか。メルクも、ルーナと契約させられたんだね」
『……そうだね』
ソレイユが、耳を揺らして立ち上がった。
『僕は、あの子個人のことはあまり知らない。訊いたところで、僕には話してくれないだろう。けど――』
軽やかに飛び上がる。階段を上るようにして書架を登り、天井付近で立ち止まった。振り返った陽光の精霊は、小さく笑ってエステルを見下ろす。
『――もしかしたら、君になら話せるかもしれないね』
顔を上げたエステルは、碧眼をいっぱいに開いて彼を見つめた。
※
ほどなくして、クロノスが帰っていった。その後を追うようにして、ソレイユも出ていく。ふたりを見送ったメルクリオは、深く息を吐いた。
「なんか、今日はにぎやかだったな」
『そうですね……』
ルーナもやや疲れた様子で応じる。一対の薄羽がだらりと下がっていた。しおれた彼女のそばを飛び回るボーグルだけが、元気いっぱいだ。
苦笑したメルクリオは、何気なく助手を振り返った。労いの言葉をかけようとしたところで、違和感に気づく。休憩のときまではあんなに元気だったエステルが、今はずいぶん大人しくなっていた。それどころか、うつむいているようにも見える。
「エステル? どうかしたか?」
声をかけると、エステルは弾かれたように顔を上げた。
「あっ――ご、ごめん! 何か言った?」
「いや。元気がないように見えたから……疲れた?」
「ううん、平気だよ」
エステルは首を振って笑ったが、平気なようには見えない。メルクリオが眉を寄せたところで、彼女はおずおずと手を挙げた。
「あ、あのさ、メルク」
「何?」
「メルクって、どうやって大図書館の番人になったの?」
問いかける声が、わずかに震えた。少年の顔もこわばった。ルーナも、あれだけ垂れていた羽をぴんと張る。
「……どうしたんだ、突然」
「い、いやあ。そう言えば聞いたことがなかったなーって」
メルクリオが問うと、助手は笑って頭をかいた。けれど、それが取り繕ったものであることくらい、すぐにわかる。同時に思い出すのは、いつからか応接室から姿を消していた先代館長のこと。彼女のまわりで何が起きたのか、想像するのは容易かった。
「……ひょっとして、ソレイユに何か言われたか?」
問いを重ねると、相手はわかりやすく顔をこわばらせた。メルクリオはため息をつく。うなだれている精霊を振り仰いだ。
「ルーナ。あの猫を連れ戻せないか」
『無理ですね。もう私の行動可能範囲の外にいます』
「そっか。しょうがない、今度来たときにお仕置きとお説教だ」
『承知しました』
番人と館長は、平坦な声を交わす。エステルは、それを戸惑ったように見比べていた。彼女の表情に気づいたメルクリオは、引きつった笑みをなんとか引っ込める。無意識のうちに、腕を組んでいた。
「……聞きたいか?」
「えっ」
ややひるんだ様子の少女を見つめて、彼は言葉を重ねる。
「気分のいい話じゃない。ここにいるのが嫌になるかもしれない。それでも聞きたいか」
聞きたくない、と言ってくれればいい。そんな思いが脳裏によぎる。けれど、暗い本音はおくびにも出さず、メルクリオはエステルを見つめた。エステルがどう答えるか、なんとなくわかっていたから。
果たして――彼女はうなずいた。
「うん。聞きたい。……知っておかなきゃいけない気がするんだ」
まなざしは力強く、言葉は揺るぎない。
メルクリオは目を閉じて、ふっと笑った。その短い時間の中で、なんとか心を整えて、踵を返す。
「じゃ、応接室に戻ろう」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げた少女を振り返り、少年は目を細めた。
「長い話だから、お茶でも飲みながら聞いてくれ」
応接室に戻って、お茶を淹れ直して。ボーグルを〈書〉に戻し、二人と精霊は向かい合った。お茶をふうふうと冷ましてから、メルクリオは話を切り出す。
「で、ソレイユからはどこまで聞いたんだ?」
エステルは、まごつきながら答えてくれた。基本的な番人選抜の流れは知ってしまったらしい。メルクリオは、頭を抱えたいのをこらえてうなずいた。
「えっと、それで、メルクもどうやってか連れてこられたってことだよね。遠くに住んでたの?」
エステルが、ためらいがちに問うてくる。メルクリオは、お茶を一口飲んでから、答えた。
「まあ、遠くと言えば遠くだな。俺の故郷は、ケネスの山村」
「へえ、ケネス――って、外国じゃん!」
「うん。外国」
顔を真っ赤にするエステルの向かいで、メルクリオは淡白にうなずく。
ケネスは、オロール王国の東方国境と接する小国だ。山が多く、小さな村落が山中や山に囲まれた土地に点在している、そんな国である。
「身分を隠したオロール王国直属の魔法使いが、はるばるケネスまでやってきて、ルーナと相性のいい俺を見つけたらしい。で、無理やり連れてきたと」
「……それ、人さらいでは……」
「まあ、似たようなものだよな」
メルクリオは他人事のように呟く。隣で羽ばたいているルーナは、無言だった。
「俺もまだ小さかったから、何が起きてるのかわからなかった。正直――親に見捨てられたんだと思ってたよ」
顔をしかめる少女の前で――そうして、物語りは続く。
水のように揺らいだ灰青の瞳が、ゆっくりと過去をなぞりはじめた。




