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42 懐かしいにおい

 気づいたときには、霧の中に立っていた。

 立ち込める紫色の霧。それをただ見続ける。

 何も感じない。心も、思考も動かない。


 ただそこに立ち続ける。――そうしていると、突然、霧の中から声が聞こえた。その声は、なめらかに言葉を紡ぐ。


 進め。言葉を発しろ。■■■■■■■■へ行け。■■■■の話をしろ。


 言葉の通りにただ動く。そこに疑問もなければ、反発することもない。

 思考は動かない。心は凍ったままだ。

 声は、何度か言葉を紡ぐ。そのささやきは、凍った心にするすると染み込む。それは、動かない思考に代わって、手足や口を突き動かす。


 霧の中を進む。道なき道の途中でまた、声を聞いた。それまでとはまったく違う声だった。

 やわらかく、温かくて、なつかしい、女性の声。それは頬をなでるように、抱きしめるようにささやいた。

『きっと、なんでもない』

 その声を聞くと、思考が少し揺れた。心のまわりが少し温かくなった。


 女性がささやく。

 霧が晴れかける。

 男性がささやく。

 霧がまたかかる。


 時に淡々と、時に早足で歩く。胸が痛い。息が苦しい。つまずいて、よろめいて――霧のむこう、おぼろげな光に手を伸ばした。



     ※



 ルーナを見送ってすぐ、メルクリオはエステルを自身の私室に運び込んだ。この部屋には、大図書館全体を覆っているのと同じ結界が張られている。万が一理性の吹っ飛んだ魔族や意地の悪い魔族が暴れ出しても、ここには入ってこられない。館内で唯一安全に眠れる場所だ。

 寝台に横たえても、少女は身じろぎひとつしない。すうすうと響く寝息だけが、命があることを証明している。

 メルクリオは、椅子を寝台の横に引き寄せて助手を見守った。そうしているうちにルーナが戻ってきた。それからも、少し時間が経った。

 寝台の方から音がしたのは、メルクリオが棚の上の絵手紙をながめていたときだ。彼がぱっと振り返った先で、少女が気だるそうに上半身を起こしていた。

「ここ……どこ……? 私……」

 ぼやけた声で呟いた彼女の体がふらりと傾く。メルクリオは慌てて立ち上がり、彼女の肩と胴体を支えた。

「無理するなよ。あんた、精神を乗っ取られてたんだから」

「メルク……」

 寝ぼけまなこを彼に向けたエステルは――しかし、その両目を緩やかに見開いた。

「乗っ取られてた……って、え? 私が?」

 顔を覆ったエステルは、小さくうめき声を漏らす。メルクリオがその体をそっと横たえると、素直に寝転がった。しんどそうにみじろぎした彼女は、先ほどよりはっきりとした表情で番人を見上げる。

「も、もしかして、大変なことしちゃった?」

「いや、そんなに大ごとにはなってないから大丈夫」

 そう言って、メルクリオは先ほどの出来事を簡単に説明した。言葉を重ねるごとにエステルの顔はこわばり、小さな手が震え出した。申し訳ないとは思ったが、説明しない方が不安を煽ることになる。メルクリオは淡々と話し切り、小さく息を吐いた。

「――で、眠ったあんたを俺の部屋に連れてきた。学校側には説明してあるから、体調が落ち着くまで休んでいってくれ」

『寮の方にはリアンから説明をしてくれるそうです。心配しなくていい、と仰っていましたよ』

 彼の横で浮いているルーナが、羽を張って得意げに補足する。しかし、エステルの表情は晴れなかった。むしろ青ざめて、上半身をわずかに起こした。

「ごめんなさい! あれだけ気をつけろって言われてたのに……」

 メルクリオは椅子の背にもたれて軽く手を振る。

「さっきも聞いたよ」

「言ったの、私!?」

「それで、俺もさっき言ったけどな――」

 一拍置いて、言葉を繋いだ。

「あんたが気にすることはない。あんな魔法は、大人の魔法使いでもなかなか見抜けないだろうし」

「そ……そうなの?」

『グリムアル魔法学校の先生方でも気づけるかどうか、というところですね』

 ルーナが羽ばたきしながら補足すると、エステルはうすら寒そうに身震いした。

「確かに全然気づかなかった……。でも、うちを出たあたりから昨日のことが思い出せなくなって……だんだん頭がぼんやりしてきて……。学校に帰ってきたことは全然覚えてない」

 うつむいた彼女は、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。メルクリオは、それを拾ってぼそりと返した。

「つまり、魔法をかけられたのは家にいるとき、か」

 少女の肩がこわばる。メルクリオは、その様子に少々ためらいながらも、問いをつなげた。

「犯人に心当たりある?」

「うーん、お母さんや叔父さんがそんなことするわけないし……。そもそも、二人ともそういう魔法には詳しくないし……」

 エステルは、眉間にしわを刻んで考え込む。

「そういえば、なんか、変な夢を見てたような」

「夢?」

「うん。もやもやしたところを歩いてて……時々、誰かに話しかけられ、て――」

 うわごとのように呟いた彼女は直後、弾かれたように顔を上げた。

「あ――アルタイルさん」

 聞き慣れない名前を耳にしたメルクリオとルーナは、顔を見合わせる。ふたりの疑問を察したのだろう。エステルは慌てて言葉を足した。

「えっとね。叔父さんが、家に突然連れてきた人。お父さんと叔父さんの知り合いで、魔族の研究をしてるんだって」

 そういう切り出しで、エステルはおろおろしながらも家で見聞きしたことを教えてくれた。

 叔父がいきなりアルタイルを連れてきた理由。彼がエステルに訊いてきたこと。そして――彼が宵の星妖精研究会の者と名乗ったこと。

 すべてを聞いたメルクリオは、思いっきり顔をゆがめた。

「……黒だろ、そいつ」

『黒でしょうねえ』

「そ、そう思う……?」

 おずおずと問いかけた助手に対し、番人はうなずいて館長は体を震わす。

「シリウスが注意を促した宵の星妖精研究会の研究者ってだけで怪しいのに、あんたの叔父さんが知らなかったシリウスの情報を知っているんだ。さすがにおかしいだろ」

「そっか……」

 エステルが一段と苦い顔になる。メルクリオの表情もかたいままだった。

 エステルの叔父がシリウスと大図書館の関係を知らなかったことも、メルクリオには意外だった。オロール王国上層部の人間が大図書館の情報を広めがらないことは知っていたが、魔法使いで研究者でもあるシリウスの身内にまで情報が共有されていないとは思わなかったのである。

 偉い人々が、グリムアル大図書館の神秘性とやらにこだわるあまり、ずれたことをするのはいつものことだ。だが、ここまで来ると呆れるだけでは済まない。

 この場においてたった二人の人間は、しばらく重苦しく考え込んでいた。沈黙に耐えかねたらしいルーナが、メルクリオの目の前で羽を震わせはじめた頃、エステルが首をかしげて呟いた。

「アルタイルさんが私を乗っ取ったとして――いつそんな魔法を使ったんだろう」

 まばたきしたルーナが、音もなくエステルのもとへ飛び出した。

『魔法というのは、アエラを言葉で動かすものです。精度は大幅に落ちますが、“わかりやすい呪文”でなくとも魔法を発動させることはできます』

 月光の精霊は、少女のまわりを一周飛んでから契約者のもとに戻る。その中で、歌うように語った。

『おそらくアルタイルという方は、会話そのものを呪文詠唱にしたのでしょう。さらに、魔法の使用によるアエラの反応を最小限に抑える工夫もしていたはずです。エステルはもちろん――あなたのお母様や、叔父様にも気取られないように』

「何それ……反則じゃん……」

 エステルは頭を抱えてうずくまる。メルクリオも同感だった。

「狙いはどう考えても大図書館うちだな。エステルたちにシリウスの情報を流したのは、グリムアル魔法学校に――大図書館に近づかせるためか?」

 そして、いつか見たシリウスの伝言が正しければ、彼らは〈災厄の魔人〉を奪い取ろうとしている。今回エステルを操ったのは、その情報を引き出させるためか、単に彼女と大図書館の番人の関係性を確かめるためか。いずれにしろ、恐ろしいことをしてくれたものだ。メルクリオは天を仰ぐ。

「とんでもない魔法使いを抱えてるな、宵の星妖精研究会……」

『かわいげな名前に反して、厄介な組織みたいですね。何か対策を考えないとまずそうです』

「かわいげか?」

 真剣な精霊に湿っぽい視線を送ったメルクリオは、勢いをつけて椅子から立ち上った。

「ま、対策についてはエステルが回復してから考えよう」

『そうですね。慌てて動いても、敵を喜ばせるだけですし』

 二人のやり取りを聞いてか、エステルがうなだれて布団を引き寄せる。

「うぅ……早く元気になります……」

「あせらなくていいから」

 メルクリオは苦笑して、この部屋唯一の扉に手をかける。

「それより、なんか欲しいものとかあるか? ここで用意できるものだったら持ってくるけど」

 そう問うと、少女は妙に真剣な表情で考え込む。答えを待っていたメルクリオはしかし、頭の端が痺れたように感じて目を細めた。痺れたあたりを指で押さえた瞬間――どこからか、声が響く。

『おい、当代の番人』

「うわっ!?」

 メルクリオが思わず声を上げると、エステルも「何!?」と飛び上がった。なんと説明したものか、と少年は焦ったが、狼狽が表に出る前にルーナが答えを口にする。

『ラステア!? 何やってるんですか、あなた』

『契約魔法のつながりを利用して、声を送っているだけだ。主たる契約者のそなたが驚くとは、おかしな話よ』

 竜の声が、メルクリオの頭の中で嗤う。思わず目をつぶった彼は、こめかみをつついた。

「つながりをこんな風に利用してきた魔族は、あんたが初めてだよ……」

『ハハハ、当然よな! 看守に話しかけようなどと思う囚人は、ここにはそういるまいよ!』

 ラステアが楽しげな一方、助手の少女は目を白黒させている。メルクリオがルーナを見ると、彼女はすぐさま寝台の方に飛んでいき、少女に事情を説明してくれた。

 だが、メルクリオにその声は聞こえていなかった。契約魔法の糸を通して響く音に意識を持っていかれていたのだ。

『それより、番人よ』

「ハイ。なんでしょう」

『明日の夕刻、妾の退屈しのぎに付き合え』

「あー、延期したやつな。悪いけど、助手は連れていけないぞ」

『構わぬよ。貴様と月の分かれ子が来てくれればな』

「は?」とメルクリオは素っ頓狂な声を上げる。つかの間、当人――人ではなく竜だが――が目の前にいないことすら失念していた。いぶかるようなエステルの顔を見て我に返り、少し声量を落とした。

「てっきり文句を垂れられるかと思ったんだけど」

『気が変わった。それだけよ。不思議なことではなかろう』

 確かに、ラステアは残虐な気まぐれさで恐れられた虹炎竜だ。けれどメルクリオは、わずかな引っかかりを感じていた。

 彼は眉間をもみほぐしながら思ったこととは別の問いを口にする。その方が答えに近づく気がしたからだ。

「……で、条件というのは?」

『うむ。条件はふたつ。ひとつは、宵の星妖精研究会の調査の進捗を妾に報告することだ』

「ん? なんで宵の星妖精研究会?」

 視線の先で、エステルが目をみはる。ルーナが素早く彼女の耳元でささやいた。メルクリオの中ではラステアがささやく。

『先刻、地上の方から懐かしいにおいがした。助手の娘が何者かを憑けてきたのであろう。その者が宵の星妖精研究会とやらの一員ならば、妾もその組織に興味がある』

「ラステア。――まさか、さっきの話を聞いていたのか?」

『無論。()()()に気づいてから、ずっとそちらの様子をうかがっていた。月の分かれ子に知られれば小言が飛んでくるであろうから、息は潜めておったがな』

『当たり前です』とルーナが切り返す。

 メルクリオはしばし絶句していたが、深呼吸して気持ちを切り替える。

 ラステアの方から提案されるとは思わなかったが、悪い話ではない。彼女の言う懐かしいにおいがアルタイルのものならば、その知識や経験が宵の星妖精研究会の正体を暴く手がかりになるかもしれない。

 あえてはっきり声に出して答えた。

「……わかった。その条件は受け入れよう。ふたつめの条件は?」

『ふたつめは先刻も言ったことだ。明日、我々の相手をすること』

 はあ、と納得しかけたメルクリオだったが、直後に顔を引きつらせる。

「……()()?」

『うむ。隣の棚に暴れたそうな魔族やつがいるのでな。いい機会だ、ふたり同時に相手しろ』

 無茶苦茶な、と吐き捨てたくなったのをこらえ、メルクリオは月光の精霊を見やる。

「……ルーナ」

『……まあ、大けがしないように援護しますよ』

「……よろしく」

 ルーナが羽を震わし、メルクリオが顔を覆うと同時、彼の中で笑い声が響いた。

『決まりだな。待っているぞ、メルクリオよ』

「はい。ちゃんと行くんで、そろそろ干渉をやめてくれ。頭が痛くなってきた」

 少年の苦情に、竜ははっきり答えなかった。その代わり、それきり声がふっつりと途切れた。繋がっている感覚も消えた。

 彼は長々と息を吐きだす。それを見てか、エステルがわずかに身を乗り出した。

「えっと、ラステア、いなくなった?」

「いなくなったというか、話をやめて引っ込んだ。なんなんだろうな、あの竜」

 手を振ったメルクリオは、再び扉に手をかける。

「えーっと。それで……なんか欲しいものある?」

 改めて問うと、エステルは視線をさまよわせてから「あったかいお茶が飲みたい、かな」と答える。メルクリオは「わかった」とうなずいて部屋を出た。

 応接室を通って、台所へ入る。調理台に手をついたところで、メルクリオはうなだれた。今日何度目かわからないため息が響く。

「疲れた…………ほんっとうに、あんな面倒くさい魔族は久しぶりだ……」

『彼女を丸め込んだデネボラって、何者なんでしょうね……』

 羽を下げてぼやいたルーナを横目に見て、メルクリオは頭をかいた。薄暗い台所をながめながら、雑に頭をかく。

 虹炎竜の声は、言葉は、まだ頭にこびりついている。それは、少し遠い記憶をも引っ張ってきた。

「気になるなら調べてみればいい、か」

 記憶を虚空に吐き出して、メルクリオは両頬を叩く。それから隣の相方を見上げた。

「ルーナ」

『はい』

「今度、改めて歴代番人の記録を調べてみようと思う」

『歴代番人の……ですか?』

「うん。手伝ってくれるか?」

 ルーナは、ためらうように羽を震わせたが、それからゆっくりと目を閉じた。

『わかりました』

「ありがとう」

 静かな応答。それに感謝のささやきを贈って、メルクリオは茶葉の容器に手を伸ばした。

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