41 我が心は我が物なり
精霊の支配下にある月光が、耳障りな音を立てて周囲のアエラを弾き飛ばす。目を細めたメルクリオは、這うようにしてエステルから距離を取った。相手もさすがに驚いたのだろう、つかむ手の力はずいぶんと緩んでいた。
両肩が鈍い痛みを訴える。メルクリオは、顔をしかめつつ立ち上がった。
「ありがとう。助かった、ルーナ」
『隠れていて正解でした。……何か、妙な感じがしたので』
彼の隣でアエラが膨れ、薄羽と楕円形の目を持つ球が姿を現す。羽を張るルーナを見やって、メルクリオは肩をすくめた。
「できれば、気づいた時点で教えておいてほしかった」
『すみません。相手に聞かれたらまずいと思ったんです』
彼女の声は淡々としているが、さすがに悪いと感じたらしい。細められた両目がわかりやすく胸中を語っていた。メルクリオは、「ま、一理ある」と答えて正面に向き直った。
「……これ以上、エステルを弄ばせるわけにはいかないもんな」
『ええ』
対面の少女は、立ち上がっていた。しかし、やはりその動きはぎこちない。両目もうつろなままだ。
「メルク」
平坦な声が名を呼ぶ。呼ばれた方は露骨に顔をしかめた。
「こうして見ると、実にわかりやすい洗脳だ」
『ですね。……魔法でエステルの精神を乗っ取っているのでしょう。完全には乗っ取らず、言動にある程度自由を与えたうえで、使い手の望む結果に誘導しているみたいですが』
「ずいぶん器用な魔法使いだことで」
メルクリオは吐き捨てる。その向かいで、少女がまた頭を抱えた。
「じゃま、しないで――じゃましてるのは……そっち……!」
獣じみた声で叫んでいる。それは、同じ声だというのに、途中で別人のような色合いに変化した。まるで、二つの人格が存在しているかのようだ。
メルクリオは、少女を注視しつつ呟いた。
「……けど、その割にはなんというか、魔法が不安定だな。多分、エステル本人の意識が出てきてる」
彼の呟きに、ルーナが羽ばたいて同意した。
『魔法に抵抗できるくらいエステルの自我が強いか、かけられた魔法に気づいた誰かがそれを解こうとしたか――どちらかでしょうね』
メルクリオは、顎に指をかけて考え込む。
学校の誰かが気づいたのだろうか、と思った。けれどすぐにその考えを否定する。それならば、事態が発覚した時点で『雇い主』のメルクリオに連絡が来るはずだ。教師たちも彼女を一人にしないよう対応したはずである。
とすれば、エステル自身の力か――学校関係者以外の『誰か』が異変に気づいたか。いずれにしろ、これは一縷の希望だ。
「洗脳が弱まっているならちょうどいい。さっさと解いて――」
『待ってください』
踏み出しかけたメルクリオを、けれど鋭い声が制する。羽を張った精霊が、少女の方を見たままささやいた。
『おそらく“相手”は、エステルのアエラを通してこちらの様子を見ています。あなたが魔法を解けば、私たちのアエラが相手に伝わるでしょう』
それを聞いて、メルクリオは思わず舌打ちをする。
「そうなれば、精霊契約者が干渉したと教えることになる……か」
『その通り』
――それは、『大図書館の番人が干渉した』と教えるのも同然だ。犯人がエステルを操ってここに来させたというのなら、番人の存在を知らせるのは危険すぎる。
その番人は、うめいて頭をかきむしった。
「だったら、どうすればいいんだ? エステルを放置して教師を呼びにいくわけにもいかないだろ」
『そうですね。ですから――エステルに、自分でなんとかしてもらうしかありません』
「自分でなんとかって……それができるなら、最初から引っかかってないだろ……」
終わりの見えない議論をしているうちに、少女が動き出した。幽鬼のように体を揺らして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。彼女らしからぬ姿を見て、メルクリオはさらに顔をゆがめた。
そのとき、脳裏で声が弾ける。
『“我が体は我が物なり、我が心は我が物なり。我は今、その神秘を拒絶する”!』
それは、彼らの道が変わった日の呪文。
彼が忘れかけていた、そして彼女も忘れているであろう記憶だ。
記憶を消そうとしたメルクリオに対抗するため、放たれた魔法。放ったのは、彼女だ。
「いや。確かにルーナの言う通りだな」
メルクリオが干渉できない以上、エステル自身にこの状況をどうにかしてもらうしかない。どうにかできるだけの力が、彼女にはあるはずだ。
メルクリオは、目を閉じた。深呼吸して、心を鎮める。
「――よし」
そして、また踏み出した。
今度はルーナも止めない。
彼の動きに気づいたのか、少女が立ち止まった。また首をかしげる彼女の前で、メルクリオも足を止める。そして、また小さな肩に手を置いた。
「エステル。俺が見えてるか。俺の声が聞こえるか」
静かな声で、呼びかける。すると、少女の瞳がわずかに揺らいだ。
「……め、るく」
「うん」
少女の唇が、震える。メルクリオはうなずいた。
こちらを見た青空のような瞳。けれどそれは瞬く間に曇り、変質する。つるりとした石や硝子のように。
「どうしたの? 急にそんな怖い顔をして」
先の揺らぎが嘘のように、おびえていたのが幻のように。少女は愛らしく首をかしげる。ぬくもりを感じられない動きを見ても、メルクリオは眉一つ動かさない。淡々と畳みかけた。
「ちゃんと、こっちを見るんだ。聞こえているなら返事をしてくれ」
「変なメルク。私はあなたの前にいるし、あなたの声も聞こえているよ」
「エステル」
語り聞かせるように、名前を重ねて。顔を寄せて、ささやく。
「目の前のものを見ろ。あんたのまわりにあるものを、ちゃんと感じるんだ」
少女が首をかしげる。北からの風が、今までより少し強く吹きつけた。
「今の太陽は何色だ? この風をあんたはどう感じる?」
ぶるぶると、体が震える。何かを拒絶しているかのようだ。メルクリオは、構わず彼女の体を引き寄せる。
うめき声と、荒い吐息。歯を食いしばった少女は、かすれた答えを絞りだした。
「つめ、たい……あかくて、金色で、まぶしい――何言ってるの?――あったかくて……でも……」
「……でも?」
メルクリオが穏やかに続きをうながすと、少女は顔を伏せた。金色の頭を彼の胸に押し付ける。
「こわい」
涙声が紡いだそれには、エステルの心がにじんでいるように思われた。メルクリオはうなずいて、少女の頭を優しく叩く。
「怖いな。でも、大丈夫」
語りかけ、少しだけ彼女の背中をさすった。その後、わずかに離れて相手の顔を正面から見た。
「あんたは、誰だ?」
肩が、手が、震えている。
「答えてみろ。あんたは誰だ」
メルクリオが繰り返すと、少女は唇を数度開閉した。その後、引き結んで――こじ開ける。
「わたし、は……私は、エステル……エステル・ノルフィネス」
うん、とメルクリオは相槌を打つ。声はまだ揺らいでいたが、相手の言葉は途切れることなく響く。
「お父さんと、お母さんの娘で……グリムアル、魔法学校の、〈鍵の教室〉の……一年生で……それで……」
言葉を重ねるごとに、声がはっきりとしてきた。
「それで?」
彼は繰り返して、うながす。その後、少しの間、沈黙があった。
少女の口からうめき声が漏れる。頭をかきむしった彼女は、勢いよく体を折り曲げた。
「メルクの――メルクリオくんの、助手だ……!」
その叫びは、まさしく慟哭だ。
思いがけず名を呼ばれた少年は息をのむ。その彼にしがみつくように手を伸ばした少女は――エステルは、自分の言葉を絞り出した。
「これは、ぜんぶ、私のものだ……私は、私だ! おまえのものになんか、なってやるもんか!」
絶叫に呼応するかのように、彼女の周囲のアエラがざわめく。陽光と同じ色の小さな光が、いくつも弾けた。
「――出ていけっ!!」
とどめとばかりに彼女が叫ぶと、その光が一斉に膨れる。光は二人を包み込んで、すぐに消えた。
しん、とあたりが静まり返る。木の葉がそよぐ音と、荒々しい吐息の音だけが、しばらくその場を包み込んだ。
メルクリオは、エステルを抱きしめたまま佇んでいた。嫌な魔法の気配は消えている。しかし、エステルはうつむいたままだ。メルクリオは漠然とした不安に駆られ、そっと呼びかける。
「……エステル?」
やはり、顔は上がらない。けれど、わずかに体が震えた。
「……メルク」
「ん、おう」
「ごめん、なさい」
かすれ声は、痛みと不安をはらんで響く。
「気をつけてって、言われたのに……うまく、できなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……」
か細い謝罪に嗚咽が混じる。メルクリオは視線をさ迷わせたのち、彼女の背中を軽く叩いた。
「謝ることじゃない。あんたはよく頑張った」
「……でも……」
「あんな悪趣味な魔法、見抜ける人の方が少ないよ。跳ね除けただけでもすごいことだ。自慢していい」
おどけたようにそう言って。直後、メルクリオも目を伏せた。
「俺の方こそ、ごめんな。肝心なときに何もできなかった」
エステルは、体を固くして、駄々っ子のように首を振る。温かいものが小雨のようにメルクリオの靴に落ちて、跳ねた。
陽が沈んでいく。少しずつ影が濃くなる木立の中で、エステルはしばらく声を殺して泣いていた。
メルクリオの足もとにぬくもりが落ちてこなくなった頃、ふっと彼女の体から力が抜ける。
「おっと」
倒れかかってきた助手の体を、メルクリオは慌てて受け止めた。うなだれたままの彼女を見下ろし、眉じりを下げる。
「大丈夫か、これ?」
『眠っているだけみたいです。アエラも安定していますよ』
ふわふわと寄ってきたルーナが、エステルをのぞきこんで報告する。メルクリオはほっと安堵の息を吐いた。
「……よかった」
呟いて、背後を振り返る。鬱蒼と茂る草木のむこうに、光るヴェールに覆われた館が見えた。
「しばらく寝かせとくか」
『なら、リアンに報告してきます。彼女はまだ学校に残っているでしょうから』
「うん、頼んだ」
精霊に頭を下げながら、メルクリオは眠ったままのエステルを抱える。学校の方に飛んでいく金色の光を見送ってから、グリムアル大図書館へと足を向けた。
※
グリムアルの街の片隅。小さな宿の裏手で、アルタイルは目を開けた。
「……ふむ」
顔をしかめて、頭を押さえる。直前に押し寄せた感覚を思い出す。
頭を殴られるような衝撃。目の前で火花が弾け、視界が真っ白に染まった。――魔法が弾かれたのだと、一瞬でわかった。
「なるほど。ルクールの言う通りかもしれないな」
かぶりを振って呟いた。そのとき、人の気配を感じる。
「やあ、アルタイル」
高く、なめらかな声がした。近くで響いた声の持ち主は、けれどどこにも姿がない。人によっては恐怖ですくみあがってしまうような状況だが、アルタイルは眉一つ動かさなかった。
「――アルバリか」
「潜入は上手くいったかい?」
「途中までは潜り込めたんだがな。あと一歩のところで弾かれた」
からかうような問いに対して、淡々と答える。声の主――アルバリは、驚きも呆れもせず、ふうん、と呟いた。
「大図書館の番人が入ってきたか?」
「いや。精霊契約者のアエラは感じなかった」
「へえ!」
アルバリの声が、やや裏返る。アルタイルには、大げさに驚いた仕草をしている彼女の姿が容易に想像できた。
「あの娘が自力で魔法を退けたってか? 確かにガキどもの中じゃできてる方だが、そこまで器用だとは思えないね」
「……アルバリが言うのなら、そうなんだろうな」
「ああ。ついでに言うと、教師どもが邪魔した可能性も低いね。並みの魔法なら気づかれて解かれるだろうが、相手があんたなら話は別だ」
アルタイルはうなずいて、口もとに手を添える。
「となると……」
彼がシリウスの娘を通して感じたものと、アルバリからの定期報告。これらを頭の中で並べ、重ね合わせ、整理する。淡々とした作業の果てに導き出した結論を、慎重に口に出す。
「魔法を解いたのはエステル嬢だが、彼女ひとりの力ではない。おそらくは……大図書館の番人が助力をした、か」
「ま、そんなとこだろう」
からりと彼の言葉を認めたアルバリはその後、一段声を低くする。
「これからどうする? あぶりだしは済んだようなもんだろう?」
「そうだな……ベテルギウスの決定次第だが。少なくとも、アルバリの仕事はそろそろ終わりだろう」
アルバリは、ふん、と鼻を鳴らした。
「窮屈なお役目から、やっと解放されるわけか。ま、多少は楽しかったけど」
呟く声には、喜びと嘲りとが同じだけ含まれている。アルタイルはあえて何も答えず、帽子のつばを下げた。
少しの間の後に、「ああ」と楽しげな声が響いてくる。アルタイルがそちらを見ると同時、かすかに手を叩く音がした。
「ひとつだけ仕掛けが残ってるんだ。あれは発動しちまっても構わないよね?」
アルタイルは口をつぐんで、ぴたりと固まる。この場合、どう返すのが正解か――一瞬のうちに高速の思考を巡らせた彼は、その果てに盛大なため息をついた。
「……好きにすればいいんじゃないか」
「やったね! さすがアルタイル、話のわかる奴だ」
「被害は最小限に抑えろよ」
「はいはーい」
アルバリは軽やかな答えを残して、街の中に溶けていく。
気配が完全に消えたことを確かめて、アルタイルは宿の方に歩いていった。
彼らのやり取りを見た者はいない。ただ、路地の静寂だけが横たわっていた。




