40 刺客
エステルが家を出た頃、メルクリオは地下で息を切らしていた。背を丸め、両手を膝につけて、どうにか体を保っている有様だった。
その正面には竜がいる。全身を虹色の炎で覆った竜は、監視者たる少年を見下ろして笑った。
『なかなかに根性があるではないか。見直したぞ』
「それはどうも……。来て早々『退屈だ』とか言って暴れ出す魔族は久々だよ……」
メルクリオは、額ににじんだ汗をぬぐってぼやく。対する竜――ラステアは、『よい運動になったであろう』などとのたまった。
「気が済んだなら、〈書〉に戻ってほしいんだけど」
『断る。妾はまだ満足しておらぬぞ』
即座に言い返されて、さしものメルクリオも閉口する。隣でルーナも深いため息をついた。
『ほれほれどうした。妾の要望に応えてくれるのだろう?』
「……『できる範囲で』とも言ったはずだ」
『ラステア。私を怒らせたいんですか』
うめくメルクリオのかたわらで、ルーナが薄羽をぴんと張る。きわめて珍しいことに、怒りと敵意をむき出しにしていた。
『番人いじめはしないんじゃなかったんです?』
『“あまりいじめるのも酷だ”とは言ったが、“いじめない”とは言っておらぬ』
魔族と精霊は、そのままにらみ合う。周囲のアエラが不自然にざわめいて、じりじりとかすかに音を立てた。
メルクリオは、ため息をついて、虹を纏う竜を見上げる。
「あのー……せめて、夜あたりまで延期させてくれないかな。こっちも、図書館業務とか調べものとか、しなきゃいけないことが色々あるんだ」
ラステアは、なぜか不服そうに鼻を鳴らす。
『常に叡智に囲まれておる貴様が、今さら何を調べるというのだ』
「ここの本だけじゃ、今の世界のことはわからないものだよ」
頭をかいたメルクリオを見て、ルーナが目を瞬く。
『宵の星妖精研究会のこと、調べたいって言ってましたもんね』
「うん。少しでも、エステルにいい報告をしてやりたい」
実家に顔を出すエステルに、緊張させるようなことを言ってしまった。その手前、こちらで少しでも成果を出したいと考えていたのである。
二人の会話を聞いていたラステアが、ぐうっと頭を傾けた。
『宵の星? なんだ、その珍妙な名称は』
「魔族を研究している団体だって。……そういえば、ラステアは何か知らないか?」
この竜は、戦後長いこと『こちらの世界』に潜伏していた。彼女の気質を考えると、人間社会の動きも観察していただろう。もしかしたら自分より外界に詳しいかもしれない――そう期待して、メルクリオはラステアに問うた。けれど、当のラステアは『知らんな』と切り捨てる。
メルクリオが肩をすくめると、彼女は低くうなった。
『しかし、星と聞くと〈明星の団〉を思い出すな』
「それって――初代番人がいた組織だっけ」
『然り』
〈明星の団〉は、シェラ・レナリア大戦の頃に活動していた組織の名だ。人間・精霊陣営と魔族陣営の対立が激化する中、「魔族との融和」を目標に掲げて、種族を問わない救助活動や交渉の場の設定などを行っていたという。
のちに大図書館の番人となるポラリスも、その一員であった。――当然、後継者であるメルクリオも組織の概要くらいは知っている。だが、〈明星の団〉の詳しい活動記録はあまり残っていない。そのため、知名度の割にわかっていることは少ないのだった。
『気になるのなら、それこそ調べればよかろう。ポラリスも、何も考えていないように見えて周到な男であった。この館の中に情報を隠すくらいのことはするであろうよ』
しかし、当時を知る虹炎竜はそんなふうに語る。メルクリオは、考え込みつつうなずいた。
『それより、“延期”の件だが』
ごう、と虹色の炎がうなった。その音で現実に引き戻されたメルクリオは、ラステアを見上げる。
『特別にその申し出を受け入れてやろう。貴様のやりたい調べものとやら、面白そうな気配がするのでな』
「……寛大なご対応、感謝いたします」
含みのある言い回しに思うところはあるが、助かったのは事実である。メルクリオは頭を下げた。ラステアが楽しげに喉を鳴らす。
『次は正直者の助手も連れてくるがよい』
「それは確約できない」
『安心しろ。殺しはせぬ。貴様が上手く守らねば、片腕くらいは食いちぎってしまうやもしれんがなあ?』
メルクリオは頭を抱える。寛大な竜は、彼を見下ろして気持ちよさそうに笑った。
※
メルクリオが助手と再会したのは、陽が傾きはじめた頃だった。
そのときメルクリオは、館内での業務と資料検索をひと通り終えて、大図書館の周辺を歩いていた。今日は学校が休みなので、最近ギャリー任せにしがちな見張りと巡回を自分でやっているのである。
すでに黄金色の光が落ちかかってきているが、春や夏ならまだ空が青いような時分だ。そのせいか、遠くの方から子供たちのはしゃぐ声がする。万が一生徒と遭遇したら面倒なことになる、などと考えながら、彼は小さく息を吐いた。
そんなとき、彼の胸中をはかったかのように、制服を着た子供が木陰から飛び出してくる。メルクリオはとっさに身構えたが、相手が見知った少女だとわかると、肩の力を抜いた。
「エステル」
「あっ、メルクいた! ただいま!」
エステル・ノルフィネスは、少年を見つけると笑顔を咲かせる。当の少年はというと、困惑しつつも問うていた。
「わざわざこっちまで来たのか? 挨拶なんて、明日でもよかったのに」
寮の点呼もあるだろ、と彼が言うと、エステルは照れ臭そうに頭をかく。
「そうなんだけど……なんか、メルクに会いたくて」
「なんだそれ」
メルクリオは肩をすくめる。それから、ふと隣に目をやって――ルーナの姿がないことに気づいた。アエラは感じるから、姿を見えなくしているだけだ。けれど、契約者は眉を寄せた。
「ギャリーさんにも挨拶しておこうかな。今日は見張り番してないの?」
「……休日だからな。俺がいるのに、見張っておいてもらう必要はないだろ」
明るい声に意識を引き戻される。メルクリオが首をかしげつつ答えると、エステルは「そっかあ」とうなずいた。それから、ぱっと目を輝かせる。
「あ、それとね。ちょっとだけお父さんの研究書を見ていきたいんだけど」
「は?」
今からか、と言いかけて――メルクリオは、とっさにそれをのみこんだ。
「私がこの間読んでたのって、どれだったっけかなあ」
エステルは笑っている。対してメルクリオは、その様子を静かに見ていた。
「エステル」
自分でも驚くくらい低い声で、名を呼んで。追い詰めるように、追いすがるように、一歩を踏み出す。
目の前の少女は、まるでいつも通りのようだ。けれど、何かが違う。いつもの彼女なら、助手の仕事がない日に父の研究書を見たいなどとは言わない。それに、前に読んでいた本のことはしっかりと覚えている。こと自分の興味に関しては、番人と館長が引くほどの記憶力を発揮するのだ。
「あんたは――」
目の前の彼女は、違う。
メルクリオは、手を伸ばす。小首をかしげる少女の両肩に手を置く。
魔法使いの感覚が、違和感の正体をつかみかけたとき――エステルの顔が、くしゃりとゆがんだ。
「あ、れ」
「……エステル?」
彼女は、頭を抱えて顔を伏せる。メルクリオがふいに両手の力を緩めると、その場に崩れ落ちた。
「私――わたし、なに、言って」
「おい」
「どう、して……ここに……」
「エステル」
細い肩が小刻みに震える。メルクリオはとっさにかがんだ。その様子と声音から、いつもの彼女の空気を感じたのである。事情を聞こうと顔を近づけたとき、そのエステルが、ぎこちない動きで顔を上げた。
「おし、えて」
少女は笑う。まるで、精巧に作られた人形のように。
そして、メルクリオがひるんだ瞬間に、彼女の方から手を伸ばしてきた。
肩をつかむ手には、不自然なほどに力がこもっている。鈍い音とともに、白い指が食い込んだ。メルクリオはこらえきれず、その場に尻餅をついてしまった。
「……っ」
「ねえ、メルク。ぜんぶ、おしえて」
彼女の音で、彼女のものではない言葉がささやく。メルクリオは歯を食いしばり、彼女を引きはがそうと腕をつかんだ。けれどその瞬間、彼女のまわりでアエラが動く。
水底のような瞳は何も映していない。白い貌が、落日の色に染まっている。それらは、かたちを持って明滅するアエラに塗りつぶされて――
『メルクリオ!』
――白金色の光が、すべてを吹き飛ばした。




