39 ノルフィネス家の団欒
勉強会をした日から、数日後。休日の朝早くに、エステルは付き添いの教師とともに町へ出た。
まだひと気のない通り。けれど、あちこちから炊煙が立ち昇っていて、物音や水音もちらほらと聞こえてくる。
目覚めはじめた街の中、エステルたちはうっかり裏通りへ踏み込まないよう気をつけながら道を辿る。いくつかの広場を目印にしながら中心街の方へ歩いていくと、記憶にある家が見えてきた。
淡い黄色の壁と立派な列柱廊を持つ、三階建て集合住宅。エステルの家――現在はノルフィネス家――は、その一室である。列柱廊の下で教師と別れたエステルは、小走りで自分の家へと向かった。
各部屋の正面扉の横には、小さな呼び鈴がついている。エステルは、念のためそれを軽く鳴らし、深呼吸してから扉を開けた。
「お母さん、ただいま!」
入ってすぐの居間に人影はなかった。しかし、テーブルの上に畳んだ布巾が置かれ、いつもはしまってあるはずの箒が壁に立てかけられている。つい先ほどまで掃除をしていたのだろう。
少し遅れて、台所の方からぱたぱたと足音が聞こえてくる。絹糸のような金髪がさらりと舞って、エステルとよく似た顔だちの女性が現れた。彼女――シャーナ・ノルフィネスは碧眼をこぼれんばかりに見開く。
「エステル? 一人で帰ってきたの?」
シャーナの声はややうわずっていた。しまった、と思ったエステルは、慌てて首を振る。
「あ、ううん。先生についてきてもらったよ」
そう言うと、母の両肩から力が抜けた。
「そう……よかった。言ってくれれば迎えにいったのに」
「えへへ、ごめん。びっくりさせたくて」
「もう、しょうがない子。そういうところはお父さんそっくりね」
腰に手を当てたシャーナは、じっとりと目を細めた。父の無茶や娘の悪戯に呆れたときの表情だ。エステルが両手を合わせて「ごめんなさい」と言うと、母の目つきが少しやわらぐ。歩み寄ってきた彼女は、娘を優しく抱きしめた。
「おかえりなさい。エステル」
「うん。――ただいま戻りました」
少女がおどけて答えると、母はふふ、と小さく笑った。
「――ごちそうさま!」
「はい、ごちそうさまでした」
エステルが元気よく食後の挨拶をすると、シャーナも穏やかに手を合わせる。食卓に並んだいくつもの皿は、いずれも空になっていた。エステルは、皿の中でも小さいものを三枚重ねて持っていく。ほかの大きな皿は、母の担当だ。
入学前と何ら変わらぬ日常の一幕。その中でけれど、それまでと違うことをシャーナが呟いた。
「学校、楽しそうね」
「うん! 色々あるけど、すっごく楽しいよ!」
「お友達ともうまくいってるみたいで、よかった」
母の微笑には薄い影がつきまとっている。――父のことがあったから、エステルが学校で浮くのではないかと、心配していたのかもしれない。
曇天のような憂いを晴らすべく、エステルはめいっぱい笑ってうなずいた。
「教室の子も先生も、優しくていい人ばっかりだよ。〈鍵の教室〉でよかった」
〈鍵の教室〉はその性質上、他の教室の子から避けられているらしい。『はずれ教室』と陰口を叩かれているのだと、いつだったかマルセルがぼやいていた。けれどエステルは、はずれを引いたとは思っていない。〈鍵の教室〉に入れたからこそ、みんなと――メルクリオと出会えたのだから。
そのあたりをシャーナが読み取ったかどうかはわからない。けれど、「そう」と答える声は、いつもの母のものだった。
食事の後、シャーナとエステルは一緒に家の仕事を片付けた。掃除の続きをしたり、植木鉢の手入れをしたり、といったことだ。それらが一段落した後は、一緒に温かいお茶を飲む。
シャーナが本題を切り出したのは、そんなときだった。
「ウェズンさんは明日いらっしゃるそうよ。お昼までには着くだろうって」
ウェズンというのは、今回の来客の名だ。つまり、エステルの叔父である。そっか、と相槌を打ったエステルはけれど、続く言葉に目をみはった。
「それと、お知り合いの方を一人、連れてくるって」
「知り合い?」
「ええ。前に、一緒にお仕事をした方だそうよ。お父さんのこともご存知みたい」
「ふうん……」
エステルは、少し頭を傾けた。前にもらった母の手紙には、そんなことは一言も書かれていなかった。となると、急に決まったことなのかもしれない。
父や叔父が仕事でつながった人を家に呼ぶことは、昔からあることだ。だが――今回は、妙に胸騒ぎがした。
「ねえ。その知り合いってどんな人? 何か聞いてる?」
「あまり詳しくは教えてもらえなかったわ。けど、魔族の研究をしている人みたい。お父さんと研究分野が近いから、時々組んでお仕事をしていたそうよ」
エステルは目を細める。渋い表情を隠すように、カップを持ち上げた。
「魔族の研究、かあ」
大図書館の番人の忠告が脳裏をよぎる。
エステルは、両頬を叩きたいのをこらえ、心の中で気合を入れた。
※
翌日。呼び鈴が鳴ったのは、ちょうど昼食が終わりかけた頃だった。母が客人を出迎えている間、エステルはバスケットにパンを詰め込んでいく。その仕事が一段落したとき、見覚えのある人物が居間に顔をのぞかせた。
「やあ、エステル。久しぶり」
「ウェズン叔父さん! 久しぶり!」
エステルが手を振ると、ウェズンはほほ笑んで手を振り返してくれる。父によく似た顔だちの、金髪碧眼の男性だ。父よりもさらにやわらかい空気をまとっていて、両目にはいつも知的な光が湛えられている。
「ああ、そうだ。別邸のことなんですけど、玄関扉がだいぶボロボロになっていたので補修しておきました」
「まあ、ありがとうございます。管理をほどんどお任せしてしまって……」
「気になさらないでください。お金の面では助けていただいていますし、元は兄の所有物ですから」
大人たちの会話が聞こえてくる。エステルはバスケットを運びながら、耳をそばだてていた。
別邸、というのは、王都にある家のことだ。エステルが生まれる前頃までは、両親がそこに住んでいたという。グリムアルに引っ越してからは父の物置兼研究室になっていた。三年前、父シリウスが逮捕されたとき、そこも取り上げられそうになったが、シャーナやウェズン、そして研究仲間たちが一生懸命戦って、なんとか守り切った。今はウェズンが持ち主となって、管理してくれている。
「ちょうど昼食の用意をしていたところだったんです。よかったら食べていってくださいな。お二人とも」
台所に戻ってきたシャーナが、そんなふうに声をかける。エステルが母の後ろから顔をのぞかせたとき、居間にもう一人、男性が入ってきた。細身で背が高く、ウェズンと並ぶとずいぶん儚い印象である。帽子を目深にかぶっているので顔はよく見えないが、銀色の髪がわずかにのぞいていた。
その人物は、シャーナにお礼を言って丁寧に頭を下げる。そんな彼を振り返り、ウェズンが苦笑した。
「そろそろ帽子をとってもいいと思いますよ」
「ああ……そうですね。つい癖で」
叔父の知り合いであるという男性は、恥ずかしそうに頬をかくと、ようやく帽子をとった。今度こそはっきりと白銀の髪があらわになり、その下に隠れていた紫の双眸が日の光を浴びて輝く。
彼はエステルの方を見ると、流れるように礼をした。
「まだご息女にはご挨拶していませんでしたね。――はじめまして。私、宵の星妖精研究会のアルタイルと申します。魔法と魔族の研究をしております。お見知りおきを」
エステルは、ついその姿に見入ってしまった。
人のかたちをしているのに、人ではないような。目が離せなくなるほどの神秘性と、魔族を前にしたときのような恐ろしさを覚える。
「――エステル? ご挨拶しましょう?」
やわらかな声が降ってくる。はっと我に返ったエステルは、慌てて頭を下げた。
「あっ、ごめんなさい! えっと、エステルともうします。よろしくお願いします!」
「いえいえ、ご丁寧にありがとうございます」
アルタイルは、にこりとほほ笑んで応じてくれる。気を悪くした様子はない。肩の力を抜いたエステルは、ぺこりと一礼してから台所へ駆け戻った。これ以上アルタイルを見ていたら、緊張で余計なことを口走りそうだと思ったのだ。
「あら……すみません。普段は人見知りする子じゃないんですけど」
「大丈夫ですよ。突然お邪魔したのはこちらですから。驚いて当然です」
母と男性の会話を背中で聞きながら、エステルは料理の盛り付けに取りかかった。
少ししてにシャーナも参戦してくれる。二人で料理を運んでいると、ウェズンも少し手伝ってくれた。エステルが小さな皿を並べ終えたところに、彼が人数分のグラスを持ってくる。
「お疲れ様、エステル」
叔父はいつものようにほほ笑んで話しかけてきた。エステルもいつも通り笑ってうなずく。しかし、直後に叔父の方が表情を改めた。
首をかしげる少女の前で、ウェズンはちらりと食卓の反対側を見た。シャーナとアルタイルは、にこやかに世間話をしている。それを確認した彼は、軽く姪を手招いた。
エステルが不思議に思いつつ顔を寄せると、ウェズンはそっとささやく。
「前に、エステルにグリムアル大図書館の話をしただろ。覚えてる?」
「も、もちろん」
エステルはどきりとした。グリムアル魔法学校を受験する、そして『番人の助手』となるきっかけの話だ。忘れるはずもない。けれど、なぜ今その話題が出るのか。
「あのとき『シリウスが大図書館に行ってた』っていう話もしたけど……あれは、実はアルタイルさんに教えてもらったことだったんだ」
「……え?」
目をみはる。胸が軋む。嫌な予感がした。
「もちろん、グリムアル大図書館の存在は僕も知っていた。けれど、兄さんが出入りしていたことは、あの事件があるまで知らなかった。正直、知らされたときは僕も驚いたよ」
「じゃ、じゃあ『直前にも行ってた』っていうのも……」
「彼から聞いた話が元になっている。……だから、彼の話を聞けば、兄さんが何に巻き込まれたのか、詳しいことがわかるかもしれない」
そのために、突然アルタイルを連れてきたのか。
エステルは息をのんで叔父を見返した。無言の問いに答えるように、彼はしっかりとうなずいた。
「『シャーナさんと話したい』と頼んできたのはアルタイルさんだけどね。渡りに船だと思ったんだ」
「そっ、か。ありがとう」
口では感謝を述べつつ、そっと顔を伏せる。
叔父の気遣いはありがたい。けれど、同時に学友であり雇い主でもある少年の忠告が頭をよぎった。
どうすればいいのか、わからない。
エステルがかぶりを振ったとき、ぱんぱん、と乾いた音がした。話が一段落したらしいシャーナが、手を叩いたのだった。
「さあさ、お昼ごはんにしましょう」
その声がけに、作り笑いでうなずいたエステルは、食卓の定位置についた。――なんとなく、客人の男性を警戒しながら。
※
客人を招いての昼食は終始なごやかだった。エステルの緊張も葛藤も知ったことか、とばかりの雰囲気である。いつ叔父が大図書館の話題を出すか、とひやひやしてもいたが、それすら杞憂に終わった。
叔父さんも慎重になっているのかもしれない、とエステルはひそかに安堵の息を吐く。
「――そういえば、エステルさんはグリムアル魔法学校に通っていらっしゃるのでしたか」
アルタイルから特大の爆弾を投げられたのは、食後のお茶を楽しんでいるときだった。エステルは、お茶を吹き出しそうになったのをなんとか堪えて、飲み込む。にじんだ涙に気づかれぬようにと下を向き、二、三度うなずいた。
「将来有望ですねえ」
アルタイルが、母娘にほほ笑みかけながら、そんなことを言う。シャーナも笑みを返して「そうでしょう」と答えていたが、その微笑はいつもより少しだけ堅かった。
それに気づいているのかいないのか、研究者の男性は涼やかに笑声を立てる。
「いやはや、大人ながらにうらやましくてですね。かの学校ほど魔法の叡智が集まっている場は、なかなかないものですから」
「そういえば、先生も一線級の魔法使いばかりと聞きますね」
「ええ。それに――敷地内には、かのグリムアル大図書館があるでしょう」
紫の目がきらりと光る。エステルは、肩をこわばらせて唇をかみしめた。ついウェズンの方をうかがったが、彼は表情を変えていない、ように見える。
「魔族を研究している者としては、一度は足を運んでみたい場所なんですよ」
アルタイルは、無邪気な少年のように声を弾ませる。それを聞いてか、シャーナが懐かしそうに目を細めた。
「そういえば、昔シリウスもそんなことを言っていましたよ。私などは、そんな恐ろしい場所に行きたいなんて……と思ってしまいますけれど」
「普通はそうですとも。私たちが変わっているのですよ」
そう言って笑った男性は、流れるようにエステルを見た。
「エステルさんはどう思います?」
「えっ!?」
水を向けられた少女は飛び跳ねそうになった。傾きかけた椅子を慌てて保ち、「えーと、そのー」などと意味のない言葉を吐き出す。
グリムアル大図書館の話題は、できるだけ出したくなかった。けれど、向こうから話を振られてしまってはしかたがない。できるだけ当たり障りのないことを言って乗り切るしかないだろう。エステルは、腹を括った。
「わ、私も、ちょっと入ってみたいなあって思いますけど……学生は入れないみたいなんで、今は無理かなーって」
下手なりに笑って、頭をかいてごまかそうと試みる。しかし、鋭いアルタイルは首をかしげた。
「おや。しかし、あの学校には『認可生制度』というものがありませんでしたっけ」
いきなり痛いところを突かれ、エステルは言葉に詰まる。しかし、思いがけない援護があった。
「確か、もう何年も選ばれていないはずですよ、認可生」
ウェズンがティーカップを揺らしながらのんびりと言う。アルタイルは、ほう、とこぼしてうなずいた。
「ということは、大図書館に入れる学生は現状一人もいない、ということですか。もったいない」
「まあ、危険も多い場所と聞きますからね」
父よりもさらに物腰柔らかな叔父は、素知らぬ顔でそんなふうに返す。エステルは心の中で彼に感謝したが、まだ探るような視線を感じていた。緊張しながらも、方向転換できそうな話題を探す。
「あっ、でも……不思議な話はたくさん聞きますよ」
「ほう? 例えば、どんな?」
この切り出しには、客人の男性も食いついた。心の中で気合を入れつつ、エステルは言葉を繋ぐ。
「大図書館のまわりで骸骨頭の大男を見たー! とか。そういえば、あの噂、最近聞かなくなったなあ。どうなったんだろ」
「それは興味深い。かの場所に封じられているという魔族でしょうか?」
「どうなんでしょうねー。学校の敷地内にもいろいろ棲んでるみたいですし」
「なんと! ますます訪れてみたくなりましたね。まあ、学校関係者でもない私が立ち入るのは、無理な話でしょうが」
アルタイルは顔を輝かせ、そんなことを言う。エステルは、あはは、と乾いた笑いをこぼした。努力の甲斐あってか、大図書館の話はそこで打ち切られ、別の話題へと移ろっていった。
どんなに緊張していても、話していれば時間が過ぎるのは早いものだ。気づけば二人が帰る時刻になっていた。別れ際、シャーナとウェズンが話している横で、アルタイルがエステルを見てくる。
「今日はありがとうございました、エステルさん」
「あ、いえ」
母の後ろに立っていたエステルは、少し肩をこわばらせて応じる。帽子をかぶった男性は、にこりと笑った。
「機会があれば、またお話ししましょうね」
「――はい」
ためらいながら、エステルも笑って返す。ほんの少し、体の奥が温かくなった気がした。
二人を見送った後、エステルはまた家で一晩を過ごした。
翌朝、慌ただしく出ていこうとする娘を、シャーナが困ったようにほほ笑みながら見送る。
荷物を抱えて戸口に立ったエステルは、軽やかに母の方を振り返った。
「じゃあ、行くね! そろそろ先生来ると思うから!」
「ええ。またいつでも帰っていらっしゃいね。……それと、試験も頑張って」
「うっ……が、がんばる!」
エステルが、顔を引きつらせつつ拳を握ると、シャーナは鈴を転がすような笑声を立てた。しかし次の瞬間、その顔がわずかにこわばる。
「……あら?」
「……お母さん? どうしたの?」
シャーナは、首をかしげるエステルをまじまじと見る。それからふと目もとをやわらげて、不思議そうな娘を抱きしめた。
「えっと、お母さん?」
「なんでもないわ。……『きっと、なんでもない』」
シャーナはそうささやくと、エステルの額にそっと手をかざす。それから離れて、いつものように手を振った。
「いってらっしゃい、エステル」
「……? うん。いってきます、お母さん」
ぱちくりとまばたきしつつも、エステルはそう返して、扉を開けた。
軽やかに去っていく後ろ姿は、閉まる扉に隠れてすぐに見えなくなる。それでもシャーナはその場に立ち続け――胸の前で、祈るように手を組んだ。
迎えの教師と合流したエステルは、学校への帰路をいく。
薄く白い雲に覆われた空を見上げ、思いっきり息を吸った。
短い時間だったが、色々なことがあった。わかったこともあった。友達に――特にメルクリオに話したいことがたくさんある。報告だけでなく、家族のことや、楽しかったことの話もしたい。
あれこれ考えようとして、けれど、エステルは首をかしげた。
「……あれ?」
彼女が声を上げたからか、立ち止まったからか。前を行く教師が気づかわしげに振り返る。
「ノルフィネスさん? どうなさいました?」
「あっ――すみません! なんでもないです!」
教師との距離が少し開いていることに気づいたエステルは、小走りで追いつく。大通りを走り去る馬車を目で追いながら、こめかみを押さえた。
「……私、家でなに話したっけ?」




