38 初冬のある日
大きな窓から、うっすらと黄金色の光が差し込んでくる。昼と夕方の狭間の陽光は、ヴェールのように教室を包み込んだ。静かな部屋に響くのは、紙とペンのこすれる音。それから少し、人の声。
そんな時間が長らく続き――あるとき、カラン、と小気味いい音がした。
「ふむふむ、だいぶわかってきたぞ」
「うんうん。だいぶ覚えてきた」
よく似た顔の少年二人が、よく似た声で少し違う言葉を奏でる。その隣で、短い赤毛をかきむしっている少年が目を細めた。
「まじかよ……俺はまた同じとこ間違えた……」
うっそりと呟いた少年の対面で、大人しげな少年が手を止める。彼は手元の帳面と本を見比べると、静かにうなずいた。
「なるほど、こういう感じか。試験勉強って面白いな」
「この中でそう思ってるの、メルくんだけだと思うよー」
「なんか、一人だけ見てる世界が違くないか……?」
彼――メルクリオの発言に、同級生たちは微妙な反応を示す。率直な感想を述べたつもりだったメルクリオは、小さく首をかしげた。
オロール王国に冬がやってきた。そして、王国が誇る学び舎のひとつ、グリムアル魔法学校は、いつもと違う空気に包まれている。――学期末試験の時が近づいているのだ。
魔族が眠るグリムアル大図書館を守護する身でありながら、ゆえあって学生にまぎれこんでいるメルクリオにとって、試験は恐れるものでもなんでもない。落ち着きのない生徒たちを横目に、『本来の仕事』に日々勤しんでいた。しかしこの日、双子のカストルとポルックスから「勉強会やろうと思ってるんだけど、一緒にどう?」と誘われた。はじめは断る気でいたメルクリオだが、双子やほかの同級生の勢いにおされて、なし崩し的に参加することになってしまった。
というわけで、試験勉強用に開放された教室に、一年〈鍵の教室〉の数人が集まっている。
「みんなで一緒に勉強するって、なんだか新鮮です」
「王宮だと、そういうのなさそうだもんな」
この国の第三王女でもある同級生・ティエラの言葉に、赤毛の少年マルセル・グラディウスがうなずく。
「ヴィーナとユラナスも残ればよかったのになー」
彼が頬杖をついてぼやくと、ティエラが頬をかいた。
「ユラナスさんは用事があるそうですから、仕方ないですよ」
「ヴィーにはふつーに断られた。一人でやった方が集中できるんだって」
横から顔を出した双子が付け加える。
本をめくりながら会話を流し聞きしていたメルクリオは、「まあ、人それぞれ合うやり方があるからな」と無難な相槌を打つ。
彼の隣で椅子が鳴ったのは、そんなときだった。
「――ああっ、また間違えたー!」
ひときわ元気のいい、少女の声が響き渡る。メルクリオは顔をしかめ、隣に座る少女を振り返った。
「エステル。さすがにうるさい」
「……あ、はい。ごめんなさい」
のけぞっていたエステル・ノルフィネスは、メルクリオに注意されると静かに上体を起こした。ぐしゃぐしゃになった金の長髪を手櫛で整えながら、手元の本をにらんでいる。
「エステルさんは近代魔法史のお勉強でしたっけ」
本を閉じたティエラに聞かれて、エステルは「うん」とうなずいた。答える声には覇気がない。
「どこ間違えたんだ?」
「……この問題」
メルクリオが少し顔を寄せると、エステルはためらいながら設問のひとつを指さした。
「『魔法教育の普及・発展を目的にこの年に創設された教育機関を答えよ』……」
問題文を小声で読み上げたメルクリオは、軽く顔をしかめる。
「九十年頃というと、あー、〈月桂樹の館〉じゃないか?」
「うん。私、いっつも魔法・研究省って書いちゃう」
「そっちは行政機関だな。〈月桂樹の館〉の運営元。しかも、今は教育省との共同運営だったはず」
「……ややこしい……」
エステルが頭を抱えてうめく。メルクリオは、少しの間天井を見上げた後、エステルの本に目を戻した。
「んー……『施設は何か』『教育機関は何か』って聞かれたら〈月桂樹の館〉で、『行政機関は』『省庁は』って聞かれたら魔法・研究省って答えればいいんじゃないか。試験的には」
「あー、うん、覚える。覚えておく」
少女は低くうなりながら、慌ててペンを取る。帳面に走り書きした彼女は、細長く息を吐いた。
「でも、できればもっとこう……知識として覚えたいなあ。こういうの」
「お望みとあらばいくらでも話せるけど」
メルクリオは言ってから、眉を寄せる。口がすべった。
そう思ったときにはすでに遅く、エステルが輝く瞳を彼に向けていた。
「本当?」
「……長くなるから、また今度な」
メルクリオが頭をかいて付け足すと、エステルは「わかった! ありがとう!」と無邪気に笑う。安堵して正面に向き直ったメルクリオはけれど、同級生たちが顔を引きつらせているのを見て凍りついた。
マルセルが、幽霊でも見るような視線を向けてくる。
「『いくらでも話せる』って何……? おまえマジでなんなの?」
「あー。いやー。えっと、本はたくさん読んでるから……」
「勉強馬鹿かー」
双子が声を揃える。ずいぶんな言われようだが、メルクリオには反論する理由も余裕もない。
さらに、ティエラまでもが怪訝そうに首をひねっていた。
「〈月桂樹の館〉が二省庁共同運営、なんて話は一年生ではやらないらしいですけど……すごいですね、メルクリオさん」
「あ、そうなのか? 知らなかった。いや、本当に知らなかった」
メルクリオは、明後日の方を向いてごまかす。直後、エステルと目が合った。『番人の助手』でもある彼女だけは、納得したとばかりにほほ笑んでいる。番人は少し腹立たしかった。
ため息をついたメルクリオは、ふと隣を見やる。帳面の端、まるっこい走り書きの文字を追って――灰青の瞳が少し翳った。
「……試験に出るのか、これ」
頬杖をついて。いやだな、とささやいて。自分の手もとに視線を落とす。
エステルは、そんな少年の様子を不思議そうに見ていた。しかし、すぐにうなずいて両頬を軽く叩く。
「よっし! もうちょっと頑張ろう!」
「気合入ってるねー。エステル」
「まあね!」
双子に元気よく答えた彼女は、再びペンを握った。
「今度、一時帰宅するからさ。それまでにできるとこまで勉強しておこう、と思って」
「一時帰宅?」
双子の声が揃う。メルクリオも少し顔を上げた。
「そう。家に顔出すことにしたんだ。お母さんから手紙もらったからさ――久しぶりに親戚の人が来るから、できれば帰っていらっしゃい、って」
「へえ。いいじゃん」
カストルが屈託なく笑う。マルセルやティエラもうなずいていた。
「エステルの家はみんな仲いいよな。うらやましいぜ」
「マルセルのとこは仲良くないの?」
そんなやり取りをきっかけに、家族談義が始まる。穏やかとは言い難い話の数々を、メルクリオは本をめくりながら聞いていた。
勉強会がお開きになった後。メルクリオは教室を出てから、エステルを呼び止めた。
「どしたの、メルク」
「いや……確認しておきたいことがあって」
足早に歩いていた少女に追いついたメルクリオは、そっとあたりを見回す。それから、彼女の方に顔を寄せた。
「さっきの、一時帰宅の話だけど。親戚の人って、誰が来るんだ?」
「えっと、叔父さん。お父さんの弟」
エステルは首をかしげながら答える。そして、「あっ!」と叫んで手を叩いた。
「そうそう! 私にグリムアル大図書館のことを教えてくれた、叔父さん!」
「……そっか」
メルクリオは眉間にしわを寄せる。この少女を不安にさせるような様子は見せたくなかったが、こみ上げる苦味は我慢できるものではなかった。
案の定、エステルは顔を曇らせる。
「……どうかした? あ、大図書館の話はしないよ。私だって記憶吹っ飛ばしたくないし」
「いや……それも大事だけど。本題はそこじゃなくて」
大図書館に出入りできる者以外に、彼の正体のことや、それに関することを話すと、大図書館にまつわるすべてを忘れる――正体を知られた日、メルクリオがエステルにかけたその魔法は、今もきちんと発動している。だから、メルクリオもそこは心配していない。
彼は、深呼吸してから助手と向き合う。
「その叔父さんには、ちょっと注意した方がいい」
エステルが目をみはった。水面のように揺れる瞳に様々な感情が浮かび、溶けて混ざり合う。
「何、それ。どういう、こと――」
「エステル」
メルクリオは、動揺している少女の名を呼び、震えている手をそっと握った。
「俺も、あんたやシリウスの家族を疑うことはしたくない。けど、あんたが危険な目に遭うのは、もっと嫌だ。だから話しておきたい。――話しても、いいか?」
じっと見つめる。お互いを、お互いに。
そうしているうちに、少し乱れていたエステルの呼吸が静まった。目を閉じ、何度かうなずいた彼女は「うん」と小さく返す。
メルクリオも、それを受け取ってから、改めて話を切り出した。
「エステル、前に言ってたよな。シリウスが逮捕直前にも大図書館に行ってたらしい、って。そういう話を叔父さんから聞いた、って」
「うん。そう」
「それがちょっと引っかかって、来館者の記録を調べてみたんだ」
メルクリオはエステルの手を離す。エステルは、彼の顔をじっと見た。
どちらからともなく、歩き出す。
「引っかかった、って、何が?」
「逮捕直前ってところだよ」
大図書館の番人は、頭の中で言葉をまとめながら、助手を振り返った。
「シリウスが最後に訪ねてきたのは三年前の春ごろだ。逮捕される、およそ五か月前だな」
「五か月……。直前、って感じじゃないね」
「その叔父さんとやらが、五か月前を直前と解釈する人なら、別にいいんだけど」
ため息まじりに呟いたメルクリオを見て、エステルが首をひねる。時間の感覚は私と変わらなかったような、などと呟いている。
少し考えこんでいた彼女はけれど、眉をひそめて少年を見た。
「叔父さんが嘘ついてるかも、ってこと?」
「あるいは、叔父さんが誰かに嘘を吹き込まれたか。いずれにしろ、気をつけた方がいい」
エステルの眉間のしわがいくらか増える。気をつけようがない、と渋面が語っていた。それを察したメルクリオは、雑に頭をかく。
「少しでもグリムアル大図書館をにおわせる話題は、なるべく出さないこと。それから、シリウスについて今まさに調べていることも、黙っておいた方がいいだろうな」
「そ、そっか……。まいったなあ」
エステルがしょんぼりと肩を落とす。それを見て、メルクリオは思わず刺々しい問いを投げてしまった。
「まさか、家族からシリウスの話を聞こう、とか思ってたんじゃないだろうな?」
「思うに決まってるじゃん」
「やめて。頼むからやめてくれ。俺の目が届かないところで、危ない橋を渡るんじゃない」
エステルは、ぶう、と言って頬をふくらませる。が、少し前のメルクリオの言葉を思い出したのか、すぐに頬を引っ込めた。
「……わかったよ。普通に、授業の話とか、同級生の話とかにする」
「そうしてくれると助かる」
メルクリオは、ほ、と息を吐いた。「何話そうかなー。話したいことありすぎるなー」などと呟いている少女をちらと見て、知らず口もとをほころばせた。
せっかくの一時帰宅だ。母親と会うのも秋休み以来だろう。できれば難しいことは考えず、笑顔で過ごしてほしい。
不穏な忠告をした本人が、こんなことを考えるのは矛盾しているだろう。頭でわかっていながらも、メルクリオはそんな願いを抱いていた。




